10話――落下
轟音、くだけ散る壁の破片をまとって部屋に飛び込んできたエレナを、俺は呆然と見つめていた。
「あっ、結構遅かったねエレナちゃんっ。そんなに硬い結界を張ったつもりはないんだけど……」
ニコヤカナ笑顔を保ちながら、アリアがエレナを見た。
「お兄ちゃんから離れて」
対するエレナは瞳を鋭くして、怒気を口調にまとって俺たちの方へ歩み寄る。
俺にでもわかるような『殺気』が、アリアに向けられていた。
アリアは笑顔を崩さない。ただその笑顔の種類が、先の俺に向けていたもの違うことは理解出来た。
「うーん、それは無理だよエレナちゃん。だってウィルとあたしはずっと一緒なんだから」
言って、さらに強く俺を抱きしめるアリア。
「いいから離れて、アリアちゃん。じゃないとエレナ……どうなっちゃうかわかんない、の……」
虚ろな瞳で、小さく呟くエレナ。
「それにウィルはエレナちゃんより、あたしの方がずっと、……ずっと好きみたいだし」
ね? と、抱擁を解いて、アリアが俺に首を傾げてみせる。
俺は、何もできない。
何も考えられない。
――考えたくない。
深い深い暗闇のような、吸い込まれそうになるアリアの瞳に、ジッと見つめられる。
「…………ね?」
「……」
なぜ、この時の俺が首を縦に振ったのか、それはいつまでたっても分からないだろう。
ただ、その行動が、やってはいけないことだということは、わかった。
なぜなら、俺の視界が血に染まったから。
「ねぇ……? アリアちゃん。エレナがいない間に、お兄ちゃんに何したの……?」
赤く塗り潰されていく視界の端で、誰かの手がクルクルと回っていた。
シミひとつない、柔らかそうで華奢な白い手だ。
腕の半ばから絶たれたその腕は、やがて、床に落ちる。
切られた断面を下にして落ちたソレは、ニチャ……と、肉と血が擦れて奏でる不快な音と共に転がった。
その腕の手首には、俺の手首と繋がっている鎖がついていた。
「…………え?」
「ねぇ、アリアちゃん? エレナのお兄ちゃんに何したの……? ねぇ……、ねぇ、ねぇ、ねぇ! 答えてよ!」
エレナがアリアに詰め寄る。その頰には、わずかにアリアの血が付いていた。
口元はなぜか笑みをたたえている。
アリアは腕を切断された痛みに苦しむ様子も見せず、ただ呆然と床に転がる自分の手を見つめていた。
否、アリアが見ていたのは自分の腕ではなく、それに繋がっている鎖。
俺と繋がっている鎖。
「…………、あ」
ふと、アリアの顔が何かに脅えるように歪んだ。
俺が確認することが出来たのは、そこまでだった。
エレナがアリアの胸ぐらを掴んだのと同時に、俺は破壊された壁を通って廊下に飛び出す。
その時の俺は、明確な意思を持っていなかった。
理性なんて無かった。
ただ、ここから離れなければ、と、その思いだけが脳の中をぐるぐる、ぐるぐると回り続けるため、それに従っただけだった。
その時の、背後から『何か』が聞こえた気がした。
逃げる、逃げる、が、ぐるぐると、くるクルぐるとマわっテイて――……、
○
「ダメだ……だめだ……だめだ……」
右手に付きっぱなしになった銀の鎖を引きずりながら、俺は屋敷の外を歩いていた。
――鎖の先に『誰か』の手が付いていることは、忘れていた――――
すでに走る体力などなく、俺は体を引きずるように歩く。
それでも遠くに、少しでも遠くに。とおくに。トオクに。
頭がいたい。脳が痛む、きしむ。体が熱い。
動悸が速い。
フラフラになった俺が、人気のない、いつのまにか明るみが出てきた薄暗い明け方の村を歩いていると、ふいに誰かの人影が目に入った。
一瞬、『彼女たち』にもう追いつかれてしまったのかと、俺の心を焦りと寒気が同時に覆い尽くした。
無意識に体が震えた、寒気が走り、酷い嘔吐感がこみ上げてくる。
そして一体どうしてこんかことになってしまったのかを考える。
そういえば――
――『彼女たち』って誰だ?
イケナイ、考えてはいけない。イケナイ。
――誰から逃げてるんだ?
――あぁ、思い出した。
イケナイ。
そして、目の前に華やかにワラッテイルエレナとアリアが見えた気がして、俺の思考が不意に明確になる。
ハッキリする。
俺は、エレナとアリアから逃げているのだ。
だというのに、なぜ俺はこんなにも落ち着いているのか。
だって、目の前にいる彼女たちは――、否、彼女は――、
『彼女』は――?
そこで初めて、俺は目の前で戸惑ったような顔を見せているソフィアを認識した。
ハッとなって、俺はソフィアを見る。
「ソ、ソフィア姉さん? もう帰って来てたの?」
ソフィアは今、俺の両親と共に街に行っているはずだ。
「ど、どうしたのウィルくん。そんなにボロボロで……」
正常ではない俺の姿を見ておろおろしている彼女を見ると、ひどく安心した。
――安心した。
なぜかその『安心』に酷い既視感を覚えるが、そんなことは気にしない。
だって、ソフィアは、
きっと、助けようとしてくれているのだから。
ソフィアを疑ってはいけない。疑うという思考すらも、考えてはいけない。
じゃないと、“こわれる”。
俺はソフィアに抱きついた。
やわらかく、やさしく俺を受けてとめてくれるソフィアは、慈母のような顔をしていた。
突然抱きついてきた俺を不思議に思う様子もなく、俺の手に鎖がついてることも大して気にせず、その先に『腕』が付いていることに驚いた様子もない。
その『事実』を俺は見なかったことにする。
「どうしたの? ウィルくん……、ナニカあった?」
「……うん、ソフィア、お姉ちゃん――……」
○
気づくと、俺はソフィアの家にいた。
記憶がおぼろげだが、俺は全ての事情を話して、それをソフィアは
ここはソフィアの家のダイニングルーム。
俺は、ソフィアとテーブルを挟んで椅子に座っていた。
透き通るような、赤みがかったオレンジ色の液体が注がれたカップを俺は持っていた。
ソフィアに淹れてもらった紅茶をゆっくりとすする。
とてもあったまる。
冷え切った俺の体に、それは染み込むように感じられた。
「どう? 私お手製のお茶、美味しいでしょ?」
「うん、すごくあったまる」
「……よかったっ」
頬杖をついて俺をやさしげに眺めるソフィアは、それを聞いて太陽のような笑顔を浮かべる。
癒される。
俺の波立つ心が、次第に和らいでいくのがわかった。
よかった。あぁ、本当によかった。
これで俺は――――……、
「もしマズイって言われたら、どうしようかと思っちゃったよ。だって……ううん、やっぱり何でもない」
「……ソフィア、姉さん?」
気のせいだろうか、今の一瞬だけど、彼女の笑顔に陰が差したような……。
体が震える。
――いや、絶対に気のせいだ。
無意識に己に言い聞かせて、俺はソフィアを見た。
ソフィアの笑顔は変わらない。弟である俺をやさしく包み込むような、暖かい笑顔――――
――ズキン、と脳に痛みが走った。
『何か』を見逃している。
そう脳が俺に訴えかけていた。
そんなはずはない、だって、ソフィアは、いつでも俺の味方で、俺に対しては甘々で、そばにいてくれる。
ソバにいてくれたまさに姉のような存在なのだ。
だから、この『違和感』はきっと、そうきっと気のせいで……、
「――」
その時。俺の体に異常が訪れる。
「――」
手足の先がしびれ、感覚が麻痺して、俺は手にしていた紅茶のカップを床に落としてしまう。
「――」
ガチャンと陶器の破音が響き、赤みがかったオレンジ色の液体が床に広がる。
「――」
その間にも俺を襲う痺れは広がり、全身をむしばむ。
「――」
俺を支える脚は使い物にならなくなり、体から力が抜け、崩れ落ちる。無様に床に倒れ伏す。
「――」
おかしい……おかしい、何かがおかしい。
ならば、『何』がおかしい?
「――」
ふとした時、その違和感の正体が判然とする。
俺の異常に、ソフィアが動揺していないのだ。ただ、穏やかな笑みを浮かべるだけで。
「――」
なぜ? なんでだ?
俺はそれと同じ笑みをどこかで見たような気がして、変な気分になる。
一体どこだ。どこでこの笑みを見たのか。
とても、すごく、ついさっきのことのように思える。思えてしまう。
そこで俺は、ついに隠しきれなくなった一つの可能性に行き着いて、そんな筈がないと自分に言い聞かせてーー
ーーそこで、俺の思考に曖昧な靄がかかった。
白とも黒ともつかない、ぼんやりとした靄が、スゥっと脳内を直接染めていくような感覚に陥る。
身体の怠さが頂点に達し、もはやまともな触覚があるかすらも怪しい。
視界にも薄暗い幕が落ちてくる。ズルズル、ずるずるとゆっくり落ちてくる。
意識が闇に落ちていく。
「ごめんねウィルくん。でもこうするのが一番ウィルのためになると思うの。だって私が一番ウィルくんのことを好きだから大好きだから愛してるから。……だから、ね? 分かって……」
思考が晴れない。
彼女が何を言っているのかは理解できても、どういう意味で言ってるのかは理解できない――シタクナイ。
体と頭が痺れる。
誰かが俺の体に覆いかぶさってきた。酷くやわらかい。だれだ? ――だれ?
ただ最後、俺の耳には……、
「ソフィアお姉ちゃんと一緒に幸せになろうね? 好きだよ、ウィルくん。好き―――――
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