八話――変化その1
思い返せば、この結界の中から出ないように約束した覚えがない。
魔法の修練を秘密にすることにとらわれ過ぎて、肝心なところを忘れていた。
かろうじて雪に残された、うさぎの足跡を追いかける小さな靴のあと。
それは魔物を退ける防御結界を超えて、森の奥にまで続いていた。
思わず歯噛みする。
俺のせいだ。
魔物が住み着く森の中にいるという危険を忘れて、幼いアリアに注意を払えていなかった。
「チッ……」
まだそこまで遠くには行っていないはず。
俺はアリアの足跡を追って、森の奥へと駆けた。
◯
「アリア――――ッ! いたら返事してくれっ!」
幸いなことに、アリアが辿った道筋は積もった雪のおかげでハッキリと分かる。
森の奥に進むにつれて、鬱蒼とした木々は数を増し、並々ならぬ野生の気配も濃くなっていく。
深い雪に足を取られながらも、強引に足を急がせてアリアを追いかける。
すでに数分は進み続けているのに、アリアに近づいている気配はない。つまり、彼女まだ現在進行形で奥に向かっているのだ。
残された足跡から見るに、どうやらうさぎを追い続けているらしいアリア。
夢中になるあまり、俺からはぐれたことにも気づいていないのだろうか。
そうなんだよ。
よく考えれば彼女はまだ幼い。一人で的確な判断ができるわけじゃない。
自分で言っていたはずだ。幼児は勢いだけで生きていると。
俺とは違う。前世の記憶を引き継いでいる俺とは違うのだ。
なぜ気付けなかった。
三歳児の貧弱な体に鞭を打って無理やり足を運ぶが、そろそろ限界が近いかもしれない。体が酷くかじかんでいる。
あんなに楽しそうに笑ってくれたアリアに何かあったら、絶対に俺は後悔する。
と、その時、嫌な空気を感じた。
汚れたマナの気配。
それは、そのモノも身体にマナを有し、糧とする故に、上質なマナを保有する人間を本能的に喰らう――魔物の気配だ。
ソフィアが以前に教えてくれたから知っている。
もしものためにと、あえて結界の外に出向いて、ソフィアが俺に感じさせてくれた。
この気配を感じたら、真っ先に逃げろ、と。
そうだ。
ちゃんとソフィアは教えてくれていたのに、俺はアリアに何も教えてない……。
「早く、しないと」
焦燥が、加速する。
◯
アリアがうさぎを見失った時、あたりを見ると知らない場所だった。
木がたくさん生えていて、倒れているものもある。
草もいっぱい生えていて、何かごそごそと動いた感じがした。
「……ウィル?」
少しだけ胸の中に嫌なモノが広がるのを感じたアリアは、彼の名前を呼ぶ。
しかし、返ってくる声はない。
「ねぇ、ウィル……、いないの?」
もう一度、呼んでみる。
「ねぇっ、ウィル、どこ!?」
大きな声で言ってみる。けど、彼は何も返事をしてくれなかった。ひどいよ。
胸の中に広がる嫌なモノが、どんどん大きくなっていくのが分かる。
ここは、どこだ?
さっき自分がいたところとは、違う。
ちがう。
知らないところだ。
不安だった。
じわりと、目の奥が熱くなる。
その時……、
「……っ?」
何か、変な感じがした。
気持ち悪い感じだ。いやな感じだ。
するとガサゴソと、茂みの向こうで何か動いた。
きっと彼だ。助けに来てくれた!
「ウィル……っ!」
涙を拭って駆け寄ったけど、そこにいたのは彼ではなかった。
鋭い歯が生えた、大きな犬だった。
いや、でも犬とは少し違った。
目が三つあって、どれも真っ赤。ツノも生えている。
怖い、怖い。その怖いモノがアリアを見た。
こっちに近づいてくる。変な鳴き声を出しながら。
「……いや」
怖かった。だから、アリアは逃げた。
走って、走って、しんどかったけど、苦しかったけど、頑張って走った。
後ろで何が吠えている。怖い。
大きな木に隠れながら逃げてると、とつぜん、目の前に木がなくなってしまった。
不思議に思ったけどそのまま走ると、そこから先に地面がなかった。
これは知ってる。崖(がけ)だ。
覗き込むと、高かった。二つ階があるウィルの大きな家よりもずっとずっと高い。
落ちたら死んじゃう。と、アリアは思った。
怖いモノが吠えた。
見ると、そこには怖いモノがいた。
頑張って逃げたのに、もう追いつかれてしまった。
近寄ってくる。怖いモノが近寄ってくる。
涙がこぼれた。彼の名前を呼んだ。足が震える。体が震える。
大きな口を開けて、怖いモノがアリアを食べようとした。
怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖いいやだ。助けて、ウィル。助けて。おねがい、そばにいて。そばに、ずっと、ずっとずっとずっとおねがい。ウィル。ウィル。ウィル、ウィル、ウィル、ウィルウィルウィル――――…………
アリアが後ろに後ずさると、地面がなかった。
「……あれ?」
体がふわっと浮かぶ。
アリアは、崖から落ちた。
そんな時――、
「――――アリアっッ!」
「……ウィル」
◯
俺がなんとかアリアの姿を見つけた時、状況はまさに絶体絶命。
断崖の淵に立たされていたアリアは、犬型の魔物ににじり寄られている真っ只中だった。
全力で駆け寄って、なんとか魔物の不意をつき、アリアを連れ去ろうとした。
けど、
「……あれ?」
そこからの目に映る全てがスローモションのように感じられた。
アリアが崖から落ちたことを脳が認識した瞬間、すぐそばまで近寄っていた俺も同時に崖から飛び降りる。
大丈夫。この高さなら大丈夫なはずだ。自分に言い聞かせる。
崖から落下中のアリアを見つけた。どうやら放心しているようだ。
その方が都合がいい。暴れられたら困る。
落下するさなか、魔力を惜しむことなく、全力で高濃度の風魔法を構築。
自らの体を風に乗せて、位置を調整。
なんとか惚けているアリアを抱き寄せると、残った魔力を全てつぎ込んだ風を真下に向けて射出。
雪のクッションもあり、使える魔力を全て振り絞ったおかげか、大した衝撃もなく俺は背中から地に着地することができた。
なんとか荒れた息を落ち着かせて、心も同時に落ち着かせる。
はーい深呼吸。
「…………ふぅ」
やべぇ、まじやばい。超怖かった。怖かった。
たぶん前世も合わせて、人生の中で一番怖かった。
見上げる崖の先までの距離は、目算でおよそ十五メートル以上。
犬型の魔物が、口惜しげにこちらを睨んでいたが、しばらくするとどこかへ去っていった。
「……はぁ」
ようやく一安心。よかったー……。ギリギリ間に合って。
安堵の気分で腕の中のアリアを確認すると、涙でいたるところをぐちょぐちょにしたアリアの顔が同じようにこちらを見ていた。
どうやら意識を取り戻したらしい。
「ウィル、ウィル、ウィルぅぅ……ウィルぅ……」
何度も何度もその存在を確かめるように俺の名前をアリアは連呼する。
よほど怖かったのだろう。当たり前だ。
気持ち悪いほどの罪悪感に苛まれる。もっと俺が気をつけておけば……。
大粒の涙を流しながら俺の名前を呼び続けるアリアを見て、彼女を救うことができて本当に良かったと思う。
痛いほどの強さで抱きしめてくるアリアを、俺も抱き返した。
そして大きく安心した途端、酷い倦怠感に襲われる。
頭がいたい。
だるい。
体に力が入らない。
なんだ……?
急に力を抜いた俺を訝しげに思ったのか、アリアが一瞬固まって俺を見た。
やばい、体が動かない。おかしい、怪我は何一つないはずなのに……。
息が苦しい。
呼吸するのも次第に辛くなる。
あきらかに眠気とは別物だ。
「どうしたのウィルっ! しっかりして! ウィルっ、お願い!」
「……っぁ」
まぶたが重い、
視界が霞む。
あっ、これダメなやつだ。
「ウィル、死なないでっ! 死んじゃやだ! ウィルっ! ――――
その次の瞬間、俺は意識を失った。
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