翠の空と錆びた拳銃 (ミドリノソラトサビタケンジュウ)
流水 (リュウスイ)
第1話 逃避
ジェットスター成田発マニラ着41便の、メタリックシルバーに彩色された機体が深夜の滑走路に滑り込んだ。
ニノイ・アキノ国際空港。
オレンジ色の薄暗い照明の中をゆっくりと進行する機内の窓から、第1ターミナルに居並ぶ機体の群れを、彼は無機質な表情で眺めていた。
入国審査を終えると、深夜にも関わらず大勢の出迎えが到着客を待っていた。
ただ、彼を迎えようという者はいない。
湿気を伴った熱気がマニラの夜を包んでいた。
到着ロビーを抜けて出口に着くと、彼は列をなして待機するタクシーの、先頭の一台に乗り込んだ。
20年は走っているだろうという車体の、へたりのある後部座席に座ると、ドライバーが車を出発させた。
「どこへ?」
ドライバーが振り返りもせず尋ねると、彼は少し間を置いて
「チャーチ (教会)」
と告げた。
ドライバーはルームミラー越しに目をやると、続けた
「どこのチャーチだ?」
彼は表情を変えず
「大きいチャーチへ」
と答えた。
ドライバーは小さいため息をひとつついて
「オーケー、sir」
「コリアン?」
「ジャパニーズ」
ドライバーは「グッド」と返した。
「カトリック?」
「ノー」
信号が変わるのを待つドライバーは、少し振り返り、「なぜ?」
カトリックでもない日本人が、深夜の教会に何の用だ?
確かに、時刻は12時を過ぎていた。
ドライバーが言わんとすることも、もっともだった。
「理由なんかないんだ」
事実、彼には深夜のフィリピンで、教会に向かうさしたる理由も持ち合わせていなかった。
「気を付けた方がいい。外国人にとってフィリピンは危ない。特に夜はね」
空港を出て20分ぐらい走ると、車は8車線道路の脇で止まった。
「この先を行くと、バクララン教会がある」
大きなチャーチだ、とドライバーは付け加えた。
料金を支払うと、「気を付けて」と言い残して車は去っていった。
ロハス・ブルバード通りは、深夜も車の列が絶えない。
そこから交差点を少し入ったところにある教会を起点に、バクララン・マーケットと呼ばれるフィリピン最大の露店街が広がっている。
営業は深夜12時までとされているのか、彼が車を降りた頃にはいたるところで片付けが始まっていた。
そんななか、ひとりの少女が声を掛けてきた。
「クヤ(おにいさん)、お花買ってよ」
サンパギータと呼ばれる白い花で作った輪の束を手に持っている。
甘い花の香りが漂ってきた。
「ねえ、おにいさん」
10歳くらいだろう。そんな子が深夜まで物売りをしている。
「おにいさん」
ひとつ買い、花輪を受け取ると
「おにいさん、ありがとう。もうひとつどう?」
バクララン協会に着くと、まばらながらも大聖堂に行き来する人の流れがあった。建物の中にはいると、幾重にも礼拝用の長椅子が聖壇に向かって並んでいた。
彼は、中ほどの列の椅子に座り、わずかの荷物が入ったバックパックを隣に降ろした。
ぼんやりとまばらな人々の動きを眺めていた。
ひざまずき、何かを熱心に祈る信仰者たちの姿があった。
数列前に座っている老人がいた。薄汚れたシャツが目に入った。
眠りたいのか、身体を長椅子に横たえた。すると、何処からかすかさず係員が近づき、老人に起きるよう促した。
そうか、横になってはいけないのか。
きっと、老人には眠る住処もないのかも知れない。そんなことを思った。
自分も、あの老人と何も変わりはしない。
何処にも行くあてなんかないんだ。
このまま、座ったまま眠りについて、目が覚めなくたってかまわない。
すべては終わり、すべてを捨てて此処に来たんだ。
自分に残された仕事は、死に場所を探すことくらいか...
彼は、目を閉じた。
ただ、ずっと目を閉じていた。絶えることのない祈りの気配を感じていると、眠ることはできないが、ほんの少しだけ気は紛れた。
彼は、何かを祈りたかった。何かに救われたかった。
自分でも、それがはっきりと分からないまま、何かに引き寄せられるように此処にたどり着いた。
彼は答えを出そうとしていた。
たとえそれが、死を伴うものであっても受け入れようと思っていた。
ずっと目を閉じていた。
眠りに落ちているのか、そうではないのか、自分でもよく分からなかった。
そんな微睡みにあって、いつしか周囲のざわめきが増しているのを感じた。
目を開くと、教会にはずいぶんと人の数が増えていた。
朝のミサの時間が近付いていたのだ。
時刻は5時を過ぎていた。
早朝のミサは5時半から始まった。
少なくとも100人はいるだろうか。
彼が座る長椅子の横にも、数人がミサのために着席した。
大聖堂の全員が手を組み、ひざまずき祈る様子を、彼はただ座って眺めていた。
というか、眺めることしかできなかった。
望むのは将来の幸せなのか、家族の健康なのか、経済的な恩寵なのか、ともかく人々は祈りを捧げていた。
それは、彼がこれまでの人生であまり経験したことのない風景だった。
神との対話を求めて人々が祈る空間に身を置くのは、むしろある種の居心地の良さすら感じられるものだった。
ミサが終わると、人々は潮が引くかのように大聖堂を後にした。
人々が立ち去った後も、彼は教会の長椅子に座り、眼前の聖壇をぼんやりと眺め続けていた。
そんなことを続けて、どのくらいの時間が過ぎたのだろうか。
「食べる?」
彼は、茶色の紙袋を差し出された方に目をやった。
「おなか空いてる?」
時刻は既に正午を過ぎていた。
手を繋いだ二人連れの女の子たちが、紙袋を持って彼の横に立っていた。
そのうちの一人、小さい方の子には見覚えがあった。
「花輪のときの...」
彼のバックパックの横には、幾分萎れかかったサンパギータの花輪が置かれていた。
彼に花輪を売った少女だった。
「ロナは私の妹。夜に、外国人が花輪を買ってくれたって。夜中って、外国人珍しいから」
コリアン?
いや、ジャパニーズ。
ここで、ずっと何してるの?
何もしてないよ。
そう、あなた名前は?
聞かれて、彼は少し戸惑った後、
「ファーストネームは、ミドリ」
ミドゥリ?と繰り返し、
「わたしはシエラ」
バイバイ、といって二人は出口に消えていった。
彼の名は翠だが、彼女達にはミドゥリと聞こえたらしい。
紙袋を開けると、中に手のひらほどの丸いパンがひとつ入っていた。
翠は、パンをちぎり、口に放り込んだ。
少し固く、妙にぱさついていたパンを、とにかくすべて喉に流し込んだ。
水も持ち合わせていなかったので、教会前のマーケットで求めることにした。
バクララン・マーケットは昨夜とは打って変わって、人であふれていた。
歩くと、すれ違う人々と肩が触れた。彼は、ほんの少し行った先の露天で、15ペソ(30円)の水のペットボトルを買って、教会に戻った。
水を飲みながら、翠は
この国には、知らない外国人にもパンをくれる子がいるのか
そんなことをぼんやり考えていた。
長椅子に座り、ただぼんやりと時間を過ごす。
ミサが始まると、座ったまま様子を眺める。
目を閉じても、身体を横たえることはない。
夜がまた訪れ、朝を迎えるのか。
夜も9時になろうとしていた。
「まだ居る」
先ほどの女の子だった。
「あなた、家がないの?」
姉のシエラ一人だった。
「家がなくて、お金なくて教会に寝泊りする人はいる。でも、あなたは日本人。お金ないの?食べるお金もないの?サンパギータは買ってくれたけど」
翠の横に座った。
シエラは、小さなパックに入った白飯を翠に差し出した。脇に、多分コンビーフと思う、肉の塊が添えてあった。
「なぜ、俺にくれるの?」
「多分、あなたは食べ物買わないでしょ。だから」
カトリックは、困ってる人を助けようとするのは当たり前。食べないのは身体に悪い。
「君、いくつなの?学校は?」
「私は18歳。学校は昔行ってたけど、今は行ってない。うちは貧しい、お金ない。わたしもロナも、家を手伝うし、花も売るし」
あなたは?
「俺は24」
もっと若いのかと思った、と言ってシエラは笑った。
彼女は、長椅子の前にひざまずくと、両手を組み、目を閉じて何かを祈った。
祈りが終わると、バイバイと言って、去っていった。
二度も。
知らない国に来て、それも見知らぬ教会に寝泊りして、見知らぬ女の子から食事をもらう。
翠は、自分が選んだとはいえ、ほんの数日の間に体験することとなった奇妙な光景を思い返した。
自分という人間は、どこに立っていて、これからどこに向かおうとしているのだろう。
今日も身体を横たえることなく、彼は目を閉じて薄い眠りの世界に入ろうとしていた。
人々が集まるざわつきの音に気付いて、翠は目を開けた。
今日もまた、早朝のミサが始まろうとしていた。
彼は、他の人々がそうするように、椅子から立って讃美歌を聴いた。
タガログ語の歌の意味は理解できなかったが、昨夜から何度かのミサを経験して、耳がなんとなく覚えていた。
ミサが終わると、いつものように、潮が引いていくかのように人数が減っていった。
そんななか、一人の男が翠を見ていた。
「君は日本人か」
日本語で話しかけられた。
この国に来てから、あまり目にすることのなかった、長袖のシャツに折り目のきいたパンツ姿の男だった。
「ひょっとして、この教会で寝泊りしたのか?」
そうです、と答えると、男は眉をしかめて言った。
「君、身なりもちゃんとしている。そんな日本人が、ここで寝泊りしてちゃいけな
い」
ちょうどいい時間だ。これも何かの縁、一緒に朝飯を食べに行こう。着いてきなさい、と男は翠を誘った。
翠には、強く断る理由もなかった。ただ、ちょっと待ってください、と言って、サンパギータの花輪を教会入り口近くに安置されたキリスト像の足元に置いて、バックパックを担いだ。
二人はバクララン教会を後にし、これからの準備が本格的に始まろうとしているマーケットの人ごみのなかに消えていった。
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