うさぎとおばけのマグカップ

如月芳美

第1話 激安物件には訳がある

「いいんですよ、なんでも、安けりゃそれで。なんでこんな五畳のワンルームで八万とかするんですか。四万くらいでありますよね」

「各停しか止まらない駅でもいいですかねぇ」

「もちろん。徒歩十分圏内で」


 目の前のオヤジがファイルをぺらぺらとめくるのを眺めていると、愛想のいいおばちゃんが「どうぞ」なんて緑茶を出してくれる。

 いやどこだって良かったんだよ、不動産屋なんて。だけど大手の賃貸グループって流れ作業的にテキトーに紹介されるイメージがあって嫌だったんだ。

 それに引き換え、こういう夫婦でやってる小っちゃい家内制手工業みたいなノリのところって、なんかこう、親身に相談乗ってくれそうだし。お茶も出してくれるし。

 まあ、全部俺の勝手なイメージだったんだけどさ。


「これとか……あー五万するねぇ。こっちは六万か。そもそもお客さん、公務員さんでしょ? 宿舎の方が安いんじゃないの?」

「もちろん宿舎に住んでますよ。建て直しするから追い出されるんです。他のところ紹介して貰ったんですけど遠いし」

「あー、そりゃあ気の毒だったねぇ。トイレと洗面所が共同で良ければ安いのはあるんだけどねぇ」


 そんな昭和の遺物みたいなのが今でもあるのかよ。ってか、それだと今までと変わんねえよ。


「すいません、それはちょっと勘弁してください。ユニットバスでもなんでもいいから、自分の部屋にトイレ欲しいです」

「うーん、あるかなぁ……ほら、大学生で埋まっちゃったあとでしょ。こんな四月入ってから言われてもねぇ、安いところは学生さんに持ってかれちゃってるからねぇ。大手なんかはもっとないと思うよ、綺麗で安いところからどんどん埋まるしねぇ」


 独り言なのか俺に聞かせてるのかよくわからないが、オヤジは一人ブツブツ言いながら、指先を舐め舐めファイルをどんどんめくっていく。


「大体、公務員さんならお金あるんじゃないの? 今まで宿舎に住んでたならなおさら。女にでも騙された?」

「いえ。国公立に入れなかったんで。私大に入るなら自分のお金で入れって親に言われて、学費借りてたんですよ。まだ返済しきれてなくて」

「あー、そりゃ仕方ないねぇ」


 そのとき、俺の目にとんでもない物件が飛び込んできた。四ケタ? しかも風呂とトイレが別々だ!

 なのに。なぜかオヤジはそこをすっ飛ばした。


「ちょっと待ってください、ちょっとそれ、戻って。そこに凄いのがあった」


 俺は慌ててファイルのページを二枚ほど戻した。あった。トイレと風呂は別、ワンルームだが、十畳ほどの広さがある。収納もたっぷりついてエアコン完備、洗濯機置き場あり、ベランダありの南東向きの角部屋だ。しかも築五年で新しいし、賃料が一ヵ月五千円って何これ、公務員宿舎より安いじゃん!


「これ! これちょっと見せて。なにこれ五万円の間違い?」

「いや、五千円」

「駅から徒歩七分? めっちゃ近いじゃん。銀行、郵便局、スーパー、図書館、コンビニ、クリーニング屋、百均、ぜーんぶ徒歩五分圏内じゃん。なんでこれ五千円?」


 興奮して捲し立てる俺の前で、オヤジとおばちゃんが目を見合わせて困った顔してる。なんで困った顔してんだよ。


「そこねぇ、借り手がつかないんだよねぇ」

「なんでよ? 凄いじゃんこれ。俺ここに決めた。ここに住む」


 俺の興奮をよそに、オヤジは申し訳なさそうな目をして「実はね」と言った。


「それ、事故物件なんだよねぇ」


 ? 事故物件って何?


「そこ、人が死んだのね。出るの。幽霊が」


 幽霊? なんだよそんな事かよ、どうでもいいよ、幽霊くらい。


「了解です。それでいいです」

「いや、それがさ。毎晩毎晩出るらしくてねぇ。そこに入居した人が一週間住んだ試しがないわけよ」

「あ、問題ないです。俺、そういうの気にならないんで」

「でもねぇ、あとで文句言われても困るしねぇ」

「言わない言わない。絶対言わない」


 しかし、オヤジはなおも食い下がる。


「みんなそう言うんだよねぇ。それで、『住めないから一秒も早く代わりの部屋を探せ』とか難癖付けてくるんだよねぇ」

「いや、俺は言わない。ほんと言わないから」


 オヤジだけじゃなくておばちゃんまで一緒になって俺の事をジト目で見てくる。ほんと言わねえってば。マジで。


「ね、お願い。もう、礼金敷金、今即金で払うから」

「いや、礼金は要らないけどさ」

「敷金は?」

「一カ月分」

「わかった。敷金と、この先三か月分前払いする。それでも二万でしょ? 今すぐ払うから、ここ、押さえて。頼む、お願い。俺、金無いから、毎月たくさん払うくらいなら今三か月分払った方が安上がり。毎月振り込むと振込手数料かかるし、なんなら一年分前払いしてもいい。それでも敷金込みで六万五千円でしょ。その方がまるっきり安い」


 訝し気に俺の顔を伺っていたオヤジも、おばちゃんが「そう言う事なら」って言うのを聞いてしぶしぶ頷いた。


「一度支払ったお金は何があっても戻らないけどいい? 心霊現象がアレ過ぎて、結局部屋出る羽目になったとしても、お金は戻んないよ? いい?」

「いい、いい、大丈夫。俺そういうの平気」

「後で文句言わないでね。ちゃんと説明したからね」

「うん、聞いた。幽霊が出る物件。俺、聞いた」


 俺がちゃんと復唱するのを聞いて、あまりその話題に参加してこなかったおばちゃんが口を開いた。


「本当に凄いからね。普通の『うらめしや~』っていうタイプのじゃないからね。いいのね?」


 なんかそれ聞いたらちょっと怖くなってきた。


「襲ってきたりする? 殺されそうになったりとか? ポルターガイストとかあるんですか?」

「そうねぇ、ポルターガイストはあるらしいけど、まあ、危害を加えられることはないみたい。話だけ聞いてると、身に危険を及ぼすことはないらしいんだけどねぇ……とにかく毎日出るからそこには住めないってみんな言うのよねぇ。まあ、幽霊がいるんじゃおちおち眠れないしねぇ」


 なんだ、悪霊じゃないんじゃん。取り殺されるわけでもなさそうじゃん。


「じゃあそこに住みます。一年分前払いするから書類準備しててください。俺、今からちょっと銀行行って六万五千円下ろしてきますから」


 それから俺は宣言通り銀行へ行き、金を下ろし、一年分の家賃と敷金を払って賃貸契約を締結した。


 これからは本物の一人暮らしだ。薄い壁に隔てられた隣の部屋からの物音に気が散ったり、トイレや風呂が共同だったりという生活とはおさらばだ。好きな時に風呂に入り、洗濯機の順番待ち無しで洗濯ができる。掃除してくれる寮母さんはいなくても、一週間に一度くらい自分で掃除すればいいや。

 俺はこれからの『本物の』一人暮らしにめちゃめちゃ期待していた。


 引っ越しするまでは。

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