鳩時計の丘

マスケッター

1 たたずむ場所

 日本のとある地方都市。街のすべてを一望できる丘の上に、高さ五メートルほどの時計塔が建てられている。


 赤茶けたレンガの壁には蔦がびっしりからみ、長針も短針も風雨にさらされ錆が浮いているが、今でも現役だ。辛抱強く待っていれば、三十分ごとに木彫りの鳩を見ることができる。


 今日は五月のある日曜日。岡田はこざっぱりした私服姿で、柔らかい陽射しを受けながら、ジュースを片手に時計塔の鳩が鳴くのを待っていた。


 社会人として多忙な日々を送るようになっても、岡田は時々思い出してはこの丘で鳩の鳴く声を聞いた。とくに春から初夏にかけて、さわやかな風に当たりながら聞くのは格別だ。


 たまに旅行をするのが趣味の、とくに美しくも醜くもない外見をした岡田。その彼にして、この点こそは他人にない、他人に言うでもないささやかな楽しみだった。


 彼も年相応に世間を知らない男性ではないので、浮き世離れした暇潰しなのは承知の上。


 丘はそれ自体が公園として造られており、時計塔を中心に据えて施工されている。ふもとの駐車場から出入り口まで五分ほど階段を上らねばならない。それでいて訪れる人は絶えない。


 岡田はもともと足腰は丈夫だし、ある意味愚直なほど我慢強い性格をしている。そうでなかったとしても時計塔にはなるべく定期的に顔を出すつもりだった。


(……先生。あたし、ここで鳩が鳴くのを聞くのが好きなんだ)


 岡田の脳裏に、目の前にいるはずもない少女の姿が浮かんでは消えた。


(先生もここを知ってたの? 結構いるんだね)


 消えた姿を再び思い出した際、彼女の少し低めの声が一層リアルに蘇った。同時に彼女の顔も。


 ショートカットの良く似合う、頬のふっくらした、美人というより可愛らしいタイプの女の子だった。彼女の名前は大沢 冬美。かつて岡田がアルバイトで家庭教師をしていた時の最後の生徒である。


 話は三か月ほどさかのぼらねばならない。


「そうですか。やめちゃうんだ。仕方ないですね、就職では」


 家庭教師をあっせんしている事務所で、彼は担当の若いOLから残念げにそう言われた。岡田よりは年長ながらまだまだ若い女性だし、化粧も丁寧にしている。


 爪のマニキュアが、彼女自身の高慢とすら思える美しい笑顔と落ち着かなさそうな岡田の横顔とを歪めて写していた。


 岡田は大学を卒業して以来実家で何年かぶらぶらしていて、このバイトだけはずっと続けていた。実入りの良さもさることながら、自分に向いていると思っていたからだ。


 しかし、就職が正式に決まった以上、終わりにするしかない。


「申し訳ありません」


 律儀に頭を下げた。


 給料以上の働きはしたという自負こそある。さりながら、どこか人のいい彼は人数不足という至極もっともな理由から慰留を勧められると後ろ髪を引かれる思いがあった。


「けど、あと一か月ぐらいはできるんですよね」


 担当のOLは食い下がり、迫力ある営業笑いを見せつけた。


 その時は、断ったら彼女の営業笑いがどう変化するのかを漠然と考えただけだった。後で思い返すと、彼女のリクルートスーツの袖口から鳩の羽毛がわずかに突き出ていたような気がする。


「はい、ですが受け持ち生徒に限らず、ほとんどの子供さんが進学なり卒業なりをしまっています」


 岡田は用心深く答えた。彼女の営業笑いにはそれと知りながらついつい乗ってしまう。


 まるで相手を出口のない迷路に閉じ込めて、出してもらうには言いなりになる他ないような。奇妙な錯覚をいつも感じさせる。


「それが、一人、いるんですよ。ちょうどこの一か月だけやって欲しいという方が。前までやってらした先生が……あー、少し事情があってやめられて」

「事情? 残り一か月で?」


 岡田は左右の眉に段差を作った。責任の上からも一般論の上からも、中途半端な話だ。


「ええ、ちょっと。……ただ、お客さんの方は一か月でもうご家族ごと転勤なさるそうなので、うん、あなたにやって頂けられたらなぁと……」


 みなまで聞かないでと言わんばかりに、彼女は岡田から視線を外さないままデスクの上でボールペンをもてあそんだ。


「どういう生徒ですか?」


 どうにかして穏便に断ろうと思い、岡田は言った。


 一か月という数字は、いわば社交辞令に過ぎない。そんな短期間の授業に金を出す親がいるとは考えられなかったからだ。


「高校生の女の子です。十七歳。国語と社会を教えて欲しいとのことです」


 担当はそう言って再び営業笑いを浮かべ、断りたいという自分の意志がねじれくるのが感じられた。そうして、彼女の説明にあるキーワードに時間差をかけて気づいた。


「女の子?」


 異性の教師をつけるのは相手が嫌がる場合があるし、変な間違いが起こっても困る。同性にするのが暗黙の了解だ。


「ええ、お父さんは、まあ普通のサラリーマンで、お母さんもごく普通の主婦です」

「わかりました。一か月だけですよ」


 また押し切られたかと軽く苦笑しながら言った。小遣いが増えるのも悪くなかろう。その時はそう思って納得した。


「ありがとうございます。あ、生徒さんのお名前は大沢 冬美さんと言います」


 担当はそれこそ満面こぼれるばかりの笑みを浮かべ、岡田を冬美の母親に紹介しがてら挨拶してもらうために電話した。


 話は呆気ないほど簡単にまとまった。冬美の母親は岡田に丁寧に礼を言い、最初の授業の日取りまで決めて電話は終わった。


 三日後の午後七時半、場所は岡田の自宅から自動車で二十分ほどかかる。


「女の子は初めてですが、ベストを尽くしますよ」


 岡田はなるべく穏やかに言った。担当、いや事務所全体にとっていろいろな意味で不安があるだろうと彼なりに気を使ってのことだった。


「嬉しいです。お気をつけて」


 資料をリュックに詰めている岡田に、担当は言った。視線を下に落としていたので、彼女の表情まではわからなかった。


「どうも。失礼します」


 岡田は事務所の出入り口で頭を下げ、裏の駐車場に向かった。だが唐突に足を止める。


「お気をつけて……?」


 翌日の昼下がり。


 岡田は地図を頼りに、大沢の家までの道のりと土地勘をつかもうと現地に来た。


 これは遠隔地の生徒を専門にしていた岡田の、半ば職業意識に近い習慣だ。当日になってから万一道に迷うようなことがあっては言い訳がたたないからだ。


 空き地に適当に車を止めて地図を見ながら三分ほど歩くと、思ったより簡単にわかった。中流家庭が建てたとしても立派な構えで、広そうだ。


 中庭にはとくに植木や花壇などはなかった。その代わりに大きな木が一本生えていた。二階建てなのもわかった。家の位置さえわかればそれで良いので、それ以上はとくに関心を払わずに引き返そうとした。


(おや……?)


 彼は振り向いた。鳩だ。さっきの木の上で鳩が鳴いている。もっとも、だからどうしたという風でもない。彼は車に向かった。


『今週のヒットチャートナンバーワン! 新人、江藤 喜美子が爆発的ヒットでいきなりトップになりました! いやぁー、新人デビューでいきなりトップだなんて想像つきますか皆さん? それでは行ってみましょう、「ガラスに写る君」……』


 運転中暇つぶしにつけたカーラジオから初耳の歌手が歌い出した。


 曲調はごく現代風の、強いて言えば親しみやすそうな歌だ。ラジオを聞きながら、何故か木の上の鳩を思い出した。


 どこか、じっと観察されていたような気分が突然沸いてくる。ラジオの歌は相変らず一生懸命だが……。


 ばかばかしい。疲れているんだ。岡田は車内で一人肩をすくめた。

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