ロードサイン
空気の乾いた深い夜。男は一人、ひび割れたアスファルトの上を歩いていた。歩道は狭く人一人歩くので精一杯である。男の片手には薄いバッグが下げられ、もう片方の手はコートのポケットに入れられている。靴は上質な革製で、コートの中のスーツも立派なものだった。また、それらを身に纏っている彼も自信を感じさせるような面立ちをしており、実際に責任のある地位についていた。
しかし、最近会社での扱いがあまりよくない。どこかで自分の良くない噂を流している奴がいる。きっと自分の昇進を快く思わない連中だろう。ろくに働かず、人の足を引っ張ることにしか能のない畜生どもめ。
そんなわけで男は気が立っていた。一度噴き出した鬱憤はなかなか晴れるものではない。男の体が小刻みに震えだす。男には貧乏ゆすりをして鬱憤を紛らわす癖があった。男は震えながら不快極まりないという顔で同僚や部下に対する悪態をつく。
その時、男はふいに声を掛けられた。
「もしもし、愚痴なら私が聞きますよ」
男は驚いて辺りを見渡した。焦りの感情もある。今の悪態を会社の誰かに聞かれていたらどうしよう、やはり外で愚痴などこぼすのではなかったのだ。焦りは後悔へと変わっていく。しかし、男は一向に声の主を見つけることができなかった。
もう一度声を掛けられる。
「こちらですよ、聞こえませんか」
その声はすぐ隣、男の背の少し上から聞こえているようだった。
男は声の主を見てうめいた。
「俺は悪夢でも見ているのか……」
「姿を見るなり悪夢だなんて酷いことをいう人ですね」
それは人ではなかった。生物ですらなかった。声の主は道路標識であった。青い二重の円に太い斜め線が入っている。男は意図せず後ずさる。
「お前は何なんだ」
「見てわかりませんか。私は道路標識ですよ」
「話のできる道路標識なんぞいてたまるものか。やはりこれは俺の妄想、いや夢なのかな」
「あなたも分からない人ですね。そこまで言うのなら触ってみればいいではいないですか」
男はその話す道路標識に触れてみる。外気が冷えているためか、ひんやりとしている。
「ややっ、夢ではないのか」
「信じていただけましたか」
「しかしなぜ道路標識が……」
「そんなこと知りませんよ。現に私はこうして話している。それでいいではありませんか。そこに理由は必要ですか。最近はパソコンも話すそうではないですか。なら、話す道路標識があっても問題ないのではないですか」
「むむ、妙に理屈をこねるやつだな」
男は道路標識と話してもいいかという気分になっていた。どうやら周りに人はいないようであるし、車も通る気配がない。第一、これが妄想だったとしても人に見られなければ「ああ不思議な体験だった」で済む話なのだ。
「では話してみるか、道路標識に理解できるとも思えんが」
「あなたも突っかかる人ですね。しかし私も暇を持て余す身です。気が済むまで話してください。最後まで聞きますよ」
「ああ、こんなことがあってだな…………」
よほど腹に抱えていたものがあったのであろう。男の口からは滔々と会社、部下、上司、男を取り巻く環境への不満があふれ出してくる。道路標識もまた適度に相打ちを打ち、ときには男の意見に同意する。まさに理想の聞き役といえた。男はそんな道路標識の態度に気をよくして、また相手が生物ではないことにも慣れてきて、より気安く話すようになっていった。
男は自分の生い立ちをあらかた話し終えたところで、道路標識のことについて質問し始めていた。
「しかし不思議なこともあるものだ。まさか話す道路標識があるなんてな」
「まあ、いいではありませんか。この世界に一体どれだけの道路標識があると思っているのです。人間社会にも、普通とは違った特徴を持つ人はいるでしょう。たまたま私がそれだっただけのことです」
「そんなものか」
「そんなものです」
男が腕時計を見ると短針は九十度も回転していた。
「いやいや、話過ぎてしまいましたな」
「よほど溜まっていたものがあったのでしょう。ゆっくりとお休みください」
男は家に向かって歩き始めようとしてふと足を止めた。訊きたいことが一つあったのだ。
「そういえば、あなたの意味は何ですか」
「なぜそんなことを聞きたがるのです……」
「私は車に乗らないので標識の意味に疎いのです。私の愚痴にこれだけ付き合ってくれたのだ。親愛の感情すら湧いてくる。友人の名前すら知らないというのは気持ちが悪いものです」
「友人なんてそんな……」
「あなたの意味を教えていただけませんか」
ここに来て初めて道路標識は言いよどんだ。何かよほど知られたくのない秘密があるのか、それともよほど恥ずかしいものであるのか。男は興味が湧いて、知れず何度も頼んでいた。
「お願いします、この通り。家に帰り調べれば分かることなのでしょうがそれではいけないのです。あなたの口から聞きたいのです」
男があまりにもしつこく迫ってくるためか、はたまた言いよどむことに飽きてきたのか道路標識は自らの意味をぼそりと呟いた。
「…………です」
「えっ」
「終わり、です」
その瞬間、けたたましいクラクションの音が鳴り響いた。トラックが男に突っ込んできている。そこで男は道路標識と向かい合う形で話していることに気が付いた。つまりそこは車道の真上。
男は避ける間もなく……。
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