僕と私とあなたの話

佐藤チアキ

僕と世界に一冊しかない本

 僕は図書館が大好きだ。


 小学二年生の時に初めて来て以来、週に一度は必ず訪れている。


 最初は好きな本を読んでいる時が一番楽しかったけど、最近では次はどの本を読もうかと散策するのが楽しみになってきている。


 そんなこんなで今はもう中学一年生。


 この数年で何冊も本を読んできたけど図書館にはまだ読んだことの無い本が溢れている。

 そこもまた小気味良い部分だ。


 さて、僕の自己紹介はここらへんにしておいて今僕が置かれている状況を説明しよう。


 今日は土曜日だったから僕はいつも通りに昼ご飯を食べてから図書館に来た。


 そこから二十分程館内をウロウロして今日読む本を探していたんだ。

 そして、見つけた三冊の本を両手で抱えるように持ちながら次はどこで読もうかと席を探す。

 席を探すといっても僕は決まって出入り口が見える位置で座る。

 たまに開くドアから吹くそよ風はとても気持ちがいいからだ。

 だから僕は出入り口付近を行ったり来たりしていた。


 平日の放課後に通っている時よりも人が多かったから中々席は見つからなかった。それもそうさ。だって今日は休日だからね。


 やっと席を見つけた僕は椅子に腰を下ろす。右隣は壁で左隣にはおじさんが座っていた。左隣といっても椅子自体が一メートルは離れていたから黒い表紙は確認できたけど、おじさんが何を読んでいるかまでは分からなかった。


 軽くため息を吐いてから机に無作為に置かれた三冊の本を見つめる。手始めにどれを読もうかはいつもこうやって決めているんだ。

 数冊ある場合は本を眺めてこれだと思った物から読み始める。


 何たって僕は『勘』を大事にしているからね。


 小学校の修学旅行の時、僕は知らぬ土地で一人道に迷ってしまった。しかも、その日は最終日で新幹線に乗る為に駅に行かなきゃならなかった。

 数分でも遅れたら置いてけぼりをくらってしまう。

 携帯もない僕が頼れるのは『勘』だけだった。

 土地鑑がない僕が勘のみで駅を目指したんだ。分かれ道があれば勘に任せる。真っ直ぐ続く道に曲がり道があっても行くか行かないか勘に従う。


 そうやって勘だけを頼りに駅へ向かっていると見事駅に辿り着いたって訳さ。

 しかも、これは後で知った事なんだけど僕が勘だけで歩き出した地点から駅までの道は最短距離で行ける道だったらしい。


 僕の勘はバカにはできない。百発百中でいい方向に転ぶんだ。


 話を戻そう。

 僕は三冊の中から勘で真ん中に置いてあった本を読み始めた。別にどの本から読んでも同じと思われるかもしれないが、何か思いもよらない良い出来事が起こるかもしれない。そんな考えが少しあるから僕は勘で選ぶ。


 選んだその本は三冊の内で一番薄い本だった。読み始めてから数分で三分の一を読み終える。

 この本はすぐに読み終えちゃうだろうな。僕はそう思いながら字を目で追っていた。


 でも、その思いは三分の二を読み終えた所で消えていった。


 左隣のおじさんが声を出しながら読み始めた。文を朗読するという意味ではなく、「えーっ」とか「ん?」とか反応を口に出しているんだ。

 ざわざわしている中でその反応をする分には気にならない。でも、この静寂の流れる図書館でされては集中して読むのは無理だった。


 一体何を読めばそんな迷惑な読み方ができるんだ。僕はチラリとおじさんの方を見た。すると、さっき読んでいた本とは別の本に変わっている。黒い表紙ではなく真っ白い表紙に顔ほどある大きさの本を読んでいた。


 題名は陰になっていてよく見えなかった。


 ついには肩を揺らしながら声を押し殺して笑っている。

 そんなに面白いのか。僕も面白い本は何冊か知っているけど、それを超える面白さなのか。はたまたおじさんのツボが浅すぎるだけなのか。


 そこまで来るとおじさんの反応よりも本の内容が気になってきた。


 横目で見ていたはずがいつしか顔をおじさんの方に向けて思いっきり見入ってしまっていた。


 おじさんの手に持たれた本が揺れて、少し中が見えそうになる度に僕は首を伸ばして覗き見ようとしたりしていた。

 しかし、いくら首を伸ばしても中身は見えない。


 立ってノビをするフリをしながら後ろに回り込んでやろうか。そんな事を思った矢先におじさんはピタリと止まった。

 何か本の一点を見ながら動かずにいる。


 さっきまで一笑しながら満喫していたおじさんはみるみる顔色を変えていく。

 そして、ゆっくりとこちらに顔を向けた。


 まずい。目が合う前に本へ視線を戻したけど、視界の端でおじさんはずっとこちらを見ている。

 流石に僕がずっとおじさんを見ているのがバレたのか。


 気づけば、ここら一帯のスペースには僕とおじさんだけだ。さっきまで人がいっぱいいたのが嘘みたいにいなくなっていた。


 鼓動が高鳴る。なんだか怖くなってきた。


 立場は奇妙にも逆転して僕は本を読み、おじさんはそんな僕をジッと見ている。


 そして、僕が本を読み終えるとほぼ同時におじさんは勢いよく席を立った。僕は急な展開に体をビクつかせてしまった。


 おじさんはすぐ後ろにあった棚に持っていた本を乱暴に押し込んでから血相を変えて出口へと走っていった。


 おそらく僕がずっと見ていたのが気に食わなかったのだろう。

 知るもんか。おじさんだって声を出したり笑ったりしていたんだから見られても仕方ないさ。


 僕はもう一度出口の方を見た。


 そして、僕は凍りついた。おじさんは自動ドア越しに僕を見ている。

 それはそれは恐ろしい形相だった。

 瞳孔は開き、額には汗の粒を噴き出している。


 そのままおじさんはその場から姿を消した。


 息を止めるように見つめていた僕は軽くジョギングした後のようにハアハアと息を少し切らした。


「なんなんだよ全く……」


 そう呟いた僕は持っていた本を机に置いた。


 しばらくしてからふと思い出す。おじさんが読んでいた本の事を。


 すぐ後ろにある本棚を見ると一冊だけ乱雑に収納されている本がある。間違いなくあの本だ。


 僕は席を立ち、その本を手に取る。題名を見ると


『世界に一冊しかない本』


 と記されていた。


 ほう、世界に一冊しかない本とはどういうものか。そもそもこれは物語なのか? エッセイなのか? それさえもわからない不可解からくる期待で読みたくて仕方なくなった。


 僕はさっそく席に戻り、本を開く。


 本が大きい割には字が小さく無駄な余白が目立っていた。


 そして、それは物語でもエッセイでもなかった。


 そこにはこう記されている。



『"う"の次。"お"の前』



 なんだこれ? ナゾナゾか何かか? 目を細めて読むが意味がわからなかった。

 だが、少し考えれば答えがすぐに浮かぶ。


「え」


 思わず声に出して答えを言ってしまう。口を抑えて周りを見渡すといつの間にか横にはメガネをかけた若い男が座っていた。


 その男は一瞬チラリとこちらを見た。


 さっきの自分みたいに不服そうな表情をしている。


 申し訳ない気持ちになり咳払いをしてから僕は次のページをめくった。


 そこには



『答え:え』



 と書かれている。


 特に嬉しい気分にはならなかった。レベルとしては低い方の問題だったからだ。これのどこであんなにおじさんが笑っていたのか理解できない。


 そして、もう一度ページをめくる。


 そこにはこう記されている。



『Bの前』



 なるほど。またそういう手法か。上手い事考えたものだ。

 この本には答えが必ず「え」や「お」になるような問題を出題して読者がそれを口にすると周りの人はあたかも作品に対するリアクションだと錯覚するという巧妙な仕掛けが施されているのだろう。


 確かにこれならおじさんが笑っていたのも理解できる。著者の手のひらで踊らされる感覚には自分が滑稽に思えて頬が緩むのも無理はない。


 だが、このギミックに気づいた自分にはもはやこの手法は無駄でしかなかった。

 答えが分かっても声に出さなければ済む話。


 答えはA。つまり『えー』だ。


 ほくそ笑みながら僕は次のページをめくる。



『答え:C』



「えっ?」


 しまった。気づいた時にはもう口にしてしまっていた。まさに著者の思惑通りにいってしまった。


 僕は放心状態になってしまう。


 なるほどなるほど。まんまと騙された。

『A』だと思っていた人は『C』という予想外の答えに不意を突かれてリアクションが出てしまう。


 これは一本取られたと思い、僕は思わず笑ってしまった。考えれば考えるほど面白い。


 いやいや、こんな面白い本があったなんて。なんで今までこの本を見つけられなかったのだろうか。

 こんなに面白いのなら最後のページにはどんなものが待っているのだろうか。

 そんな思いが頭をよぎり、我慢ができなくなった僕は最後のページを見た。


 そして、そのページを見た瞬間に笑えなくなった。



『君は気になったんだろ? 僕の書いたこの本を他人が読んでいるのを見て。なんであんなに笑っているんだ。なにがあの人をそこまで面白がらせるんだってね。

 この本はタイトルにもある通り、世界にたった一冊しかないんだ。

 そして、そんな一冊を君は図書館のその席に座って楽しんでいる。

 実はこの本、昨日までこの図書館には無かったんだ。

 僕が今日直接本棚に置いていった。

 だって知りたかったんだ。この本を読む人はどんな人なのかを。 

 だから、ずっと見ているだよ。今も』



 え? 見ている? 今も? 内容に頭がついてこなかった。

 だけど、ジワジワと理解していく。今も著者は見ているのだ。どこかで。


 その時、隣に座っていたメガネの男が席を立った。


 そして、一歩一歩と歩く音が近づいてきて僕の真後ろで足音は止んだ。


 いる。僕の後ろに。


 怖くなってきた。


 だから、僕は走って逃げた。


 その本は机に置いたままで出口へと全力疾走で向かう。


 自動ドアが開き、外に出てから最後に僕は振り返った。


 そしたらその男は僕をジッと見つめていたんだ。

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