第四十話 奥山に紅葉踏み分けなく鹿の
ばちん、と音をたてて、薪がはぜた。飛び散った火の粉が、ふわりと巻き上がり、幻想的に辺りを照らし、消えていった。
三条家の西の庭園「秋の庭」は、そこここに篝火が焚かれ、宴席が設けられていた。庭に面した屋敷の広間には、三条家当主と賓客が。庭に設けられた板の間には、それ以外の招待客が、各々酒器を片手に盛り上がっていた。
この宴席で振舞われるのは、今朝仕留めたばかりの鹿肉。それは篝火に照らされ、艶々と光っていた。
「鹿のお肉食べるのって、初めてかも」
鹿肉を鍋に入れながら、勇輝はポツリとつぶやいた。
楓の近習たちは、「秋の庭」の片隅で宴に参加していた。庭の風景が綺麗に見えるところではない。風景が綺麗なところは、もっと身分の高い者達に占められていた。楓の近習がいるのは隅の隅の暗がりで、それでも食べ物はふんだんに用意されていた。彼等の今日の働きを
「鹿肉、じゃねぇ。もみじって言うんだ」
辰馬が、つまみに用意された卵焼きを口に入れながら訂正した。
「え?」
「鹿肉はもみじ、猪肉はぼたん、馬はさくらって言うんだ。あんまり、大っぴらに言えねぇからな」
この時代、肉食は御禁制ではなかったが、あまり推奨されていなかった。それで、隠語としてその名前がついていた。だが、勇輝はそんなことも知らず、呑気に返す。
「へぇ。――だから、紅葉賀で鹿を狩るの?」
「そりゃぁ、どうかな。そこまではわかんねぇ」
辰馬もそこまでは知らなかったようだ。
そんなことを話しているうちに、肉と野菜の煮えるいい匂いがあたりに漂う。普段魚ばかり食べている身としては、なかなかに野生味溢れる、はっきり言えば獣臭い匂いだ。だが、朝から働き詰めのこの身にとっては、食べられればなんでもいい。
煮えた、と言う合図で、松風が皆に取り分けてくれる。勇輝も受け取って、一切れ、口に入れると、その匂い通り、野趣溢れる味が口の中いっぱいに広がった。
慣れぬ味に思わず顔をしかめると、それを見た辰馬がからからと笑った。
「食べ慣れてねぇもん、食いすぎるなよ。腹、壊すぞ」
それは、勇輝がもみじを遠慮する言い訳にできる一言だった。その辰馬の忠告通り、肉ではなく、野菜中心に食べ進めていく。
「ほれ、こっちの焼き魚ならいけるだろ」
辰馬は親切にも魚の器を勇輝の前に持ってきてくれた。
この辰馬の一連の行動が、親切心から出たものと思って、勇輝は感動していたが、実際は違う。
辰馬以下、楓の近習は、「もみじ」を食べ慣れている。滅多に食えぬこのご馳走を少しでも多く食べたいと思うのは、食べ盛りの人間としては当然のことだった。それで、勇輝が食べ慣れていないのをいいことに、肉を奪い合う「敵」を減らす作戦に出た、それだけのことだった。
だが、勇輝はそんなことも知らず、辰馬の親切に感動していた。
皆の腹がくちくなって、食べる速度も落ち出した頃、勇輝は開いた器を台所に持っていこうと腰を上げた。
それをそつなく松風が手伝ってくれる。
台所までは、使用人が通る裏道だけでは行けない。招待客がいる部屋の横も通らなければならないので、失礼にならないように足早に通り過ぎる。
そこからは、宴の様子がよく見えた。その宴席の一角に、御簾に区切られた一角があるのを発見した。
「松風、あそこって……」
「あぁ、奥方の集まりですよ。今日の宴に合わせて、懇意にしている女房方をお呼びしたのです」
その時、秋の夜風によって、御簾がふわりと揺らいだ。
その隙間から、あの時、自分達を冷たい目で見下していた楓の母親の姿を見つける。
楓の母親は、あの時とは全く違った柔らかな微笑みを浮かべていた。ふうわりと笑うその姿は、一つも影のない貴き人の微笑みだった。
勇輝は、自分に向けられた目の冷たさと、今の表情の落差に衝撃を受けていた。
楓の母親の視線の先には、幼き姫がいた。彼女も、この世の醜さを全く感じさせない砂糖菓子のような微笑みを浮かべている。その笑みは、楓の母親とどこか似ているように思われた。
その微笑みを見たのは、御簾が揺らいだ一瞬だけだった。だが、その一瞬は、勇輝の脳裏に強烈に焼き付いた。
「あの子って、楓の妹かなんか?」
「どの方のことです?」
御簾はもう、元通りに戻っている。ここから見えるのは、御簾越しの揺らぐ影だけだ。だが、勇輝が「楓のお母さんの横にいた、小さな女の子」と言うと、松風は得心したように頷いた。
「あぁ、その方は楓様の許嫁ですよ」
何気なく発された松風の言葉に、ガンと頭を殴られた気がした。
「楓の……許嫁?」
「えぇ。葵の君とおっしゃられて、ゆくゆくは楓様の奥方になられるでしょうね」
その言葉に、勇輝の心臓はうるさいくらいに動き出した。身体中が熱くなり、どっと汗をかく。
「家同士のお約束ですが、お二人とも仲睦まじく……」
その後の松風の言葉は、勇輝の耳に入ってこなかった。
◇ ◇ ◇
きし、きしと軋む廊下をひとり歩く。
台所に器を返した勇輝は「少し夜風に当たりたいから」と松風を先に返した。今、この宴を取り仕切っているのは屋敷の奥向の者たちだ。多少、ふらふらしていても支障はない。
庭の篝火は遠く、裏の廊下は薄暗かった。
先ほどまで熱かった体は、その反動のように冷え始めていた。
遠く、篝火に照らされる紅葉は、火の赤さに負けぬ紅色に輝いていた。
その誰にも犯されぬ神代の紅は、狩りの時の楓の高貴さを思い起こさせた。
綺麗な衣を着て、馬に乗って、堂々と駆ける。その姿は、まさしく次期当主の風格を漂わせていた。招待客も、楓の姿を見て、三条家も安泰だと絶賛していた。
この姿こそが、本来の楓なのだ。
ふと、昨日の朝のことが思い出される。
楓は、巻狩りを行う前日、狩りとはどういうものか勇輝に知らせるために、その道の玄人を伴って鹿狩りに連れて行ってくれたのだ。
その時の狩りは、背子が追い立てるのではなく、鹿を笛で呼び寄せるものだった。
ピィーと、どこか悲しげな音色の笛を吹くと、その笛の音を雌の呼び声と勘違いした雄が姿を表すのだ。
長年、この方法で狩りをしている老人が、笛を吹く。そうして、息を詰めて待っていると、勇輝達の前に立派な
山の紅葉を背景に現れた雄鹿は、番を求めていた。その艶々と輝く両目から、狂おしいほどの熱を勇輝は感じたが、楓はそこに容赦なく矢を射掛けた。
二の矢、三の矢と射たれた鹿は、あっけなく
どうっと倒れた雄鹿に恐る恐る近寄る。
――今まで、妖を討伐したことはあれど、それ以外の生き物を殺めたことはなかった。それで、なんとなく怖かったのだ。
恐る恐る近寄った雄鹿は、とろりと瞳が濁っていた。
その瞳を見て、あぁ、この鹿は、僕だと勇輝は思った。
偽りに引き寄せられ、あっけなくその手に落ち、自分の恋心は濁ってしまった。きっと、ここからは元には戻らない。そうわかっていても、この鹿のようにすでに身動きはできなくなってしまっている。
背中を流すように言われてから、毎夜、楓に求められる。それが幸せで、辛くて、それでも逃げられなくて。
楓を切り捨てる、と言う選択肢は、自分では選べなかった。
今は、ただ一人、情熱的に楓に求められている。でも、これからは?
楓が長じれば、先ほど見た姫と一緒になるのだろう。
その時、自分は?
楓の元を離れるのか。それとも、ただの近習として、二人が仲睦まじくするのを見守るのだろうか。
――そんなことが、自分に可能なのだろうか。
今でさえ、あの姫が羨ましくて、妬ましくて、――憎いのに。
自分にこんな感情があったなんて知らなかった。知らずにいれたらよかったのに。
「――もし、そこの」
惨めな気持ちで、暗がりに佇んでいる勇輝に、声がかけられた。
声の方を見やると、きれいな着物を着た女御が手招きをしていた。
着物の袖からわずかに見える白魚のような指先。それに吸い寄せられるようにふらふらと近寄った。
「あい、すみませぬが、この屋敷の方をお呼びいただけませぬか」
「この屋敷の……、あのう、
「あれ、楓様の! それは重畳。この文を楓様にお渡しいただけませぬか」
そう言って手渡されたのは、文が括りつけられたもみじの小枝だった。香が焚き染められているのか、ふわりと華やかな香りが漂ってくる。
「これは、あなたが……?」
小枝を渡されたものの、どうしたらいいのかと困惑した声を出すと、ほほほと華やかに笑われた。
「妾ではございません。これは我が姫様が楓様に、と」
「姫」という単語を聞いて、ドクンと心臓が跳ねた。
「楓様の近習であれば、我が姫様もご存知であろう?」
「葵の……君」
その名を聞いて、女御は鷹揚に頷いた。
「楓様は、普段、渾天院におられて、文のやり取りも
そう言って、女御は下がって行った。
これを、僕が、楓に?
鮮やかな紅の枝を手に持ったまま、勇輝は立ち尽くした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます