第二十五話 月満ちる

(やった……! やった……! 来た!!)


 勇輝は弾む心を抑えながら駆けていた。

 この喜びを、誰に伝えよう。まずは、大輝だ。それに、心配をかけていた伊吹にも知らせなければ。


 跳ねるように勇輝は食堂に向かった。そこには、先に大輝が向かっていたからだ。

 キョロキョロと辺りを見渡し、お目当ての赤髪を見つけた。陰に誰かいて、しゃべっているようだったが、勇輝は気にならなかった。ただ、大輝に伝えなければと、気ばかりいていた。

 人混みをスルスルと抜けて、大輝の腕にしがみつく。


「大輝、大輝! 来た、来たよ!」

「は? え? ……え?」


 いきなり腕を取られた大輝は、手に持っていた盆を落とさないようにわずかに動いた。そして、近くの机に置く。


「来たって、何が……」


 大輝の疑問は、消えていった。勇輝が先ほど厠に行っていたこと、そしてこの嬉しそうな顔から、思い当たったらしい。


「……本当か!?」

「ん!」


 勇輝が笑うと、大輝の顔にも笑みが広がっていった。


「よかった……! よかったなぁ……!」

「うん! よかった! ……心配かけました」


 心底安心した、という勇輝の眦には、薄く涙が光っていた。大輝も、喜びのあまり勇輝の体をパシパシと叩く。


 勇輝は、ここ数日の体調不良を神降ろししたせいだと思っていた。

 十分な睡眠を取っていても怠い体。すぐれない気分。少し高い体温。

 常ならだとすぐに気がつけたのに、何ヶ月も遅れていたため、気がつけなかったのだ。

 だが、先ほど始まった。いつもなら憂鬱なだけのそれも、今回ばかりは嬉しい。


 二人で、よかったよかった、安心したと喜んでいると、大輝の陰から声が掛けられた。


「何をそんなに喜んでいるんだ?」


 大輝の陰にいたのは、楓だった。

 楓の存在を思い出し、大輝はしまったという顔をした。だが、勇輝は喜びに胸がいっぱいで、それに気がつかなかった。


「あ、楓! ……月の物が来たんだ」


 勇輝は、後半、楓だけに聞こえるように、そっと囁いた。そして、はにかみながらも嬉しそうにふふふ、と笑う。


「これで、渾天院を辞めるかどうかの悩みともオサラバだ」


 勇輝は、人目さえなければその場で踊り出しそうなほど浮かれていた。


「……勇輝は、嬉しいのか?」


 楓が、地を這うような声で尋ねるが、舞い上がった勇輝は、それにも気がつかない。


「うん! もちろん!」


 きっぱりと笑顔で言い切る。

 と、そこに、大輝がやや慌てた様子で割って入った。


「勇輝、昼飯はどうするんだ」

「あ、食べてから、寮に戻ろうと思って」


 渾天院では、月の物が来た場合、それが終わるまで休暇が認められている。――というか、月の物が来ている状態で耐えられる訓練でないことと、校舎に穢れを持ち込まないための処置だ。勇輝達は、都に帰る家もないため、寮で休む事になる。


「なら、さっさと並んでこい。ろくなもん残ってないぞ」

「あ、そっか。ちょっと行ってくる」


 大輝の言葉に、勇輝は慌てて列に並びに行った。

 残された男二人は、その背を無言で見送った。


 大輝が隣の楓に目を向けると、楓はむっつりと押し黙ったまま、勇輝の背を見つめていた。そして、大輝が声をかけるよりも早く、踵を返し近習の元へと向かったのだった。




   ◇ ◇ ◇




 久しぶりに来た月の穢れは重かったものの、それも子ができていないと思えば耐えられた。

 穢れを出し切るまで五、六日。久しぶりに朝、外に出た勇輝に、朝日は眩しかった。




「お、勇輝。今日から復活か」


 大輝とともに移動していると、虎徹から声が掛けられた。目的地が同じであるため、自然な流れで合流する。


「そうなんだ」

「勉強は、大丈夫か?」


 俺だったら、一日休んだだけでついていけねぇけど、と虎徹。それに勇輝は笑顔で答えた。


「勉強は大丈夫。大輝に夜、教えてもらってたから。それよりも体がなまってるだろうから、後で鍛錬付き合ってよ」


 久しぶりにすっきりした気分で、勇輝は席についた。今日は座学から始まる。天文学の教官から宿題が出ていたが、休んでいた勇輝は大輝に教えてもらいながら取り組んであるので、隙はない。


 講義があるときは、面倒で休みたいと思うことも多々あるが、いざ、何日も休まなければならないとなると、恋しくなるから不思議だ。

 それに、体が辛いのは二、三日で、その後、出血はあるものの元気なため、一人で寮にいると暇すぎて逆に死にそうなのだ。

 部屋の中でできる柔軟や体操をしていたが、それだけではやはり足りない。

 珍しく午後の実習を心待ちにしながら、午前の授業を終えた勇輝は、皆と食堂へ向かう。


 と、遠くに近習に囲まれた楓を見つける。

 勇輝は、久しぶり、と手を振ったが、なぜかぎろりと睨まれた。

 その瞳には、怒りの中に、失望があったように見えた。


「……なんか、怒らせたのか?」

 虎徹が勇輝に尋ねたが、心当たりのない勇輝は答えられなかった。




   ◇ ◇ ◇




「勇輝、悪いけど、荷物、教官室から運ぶの、手伝ってくれねぇ?」


 ある日、一日の課程が全て終わって、自己練でもしようかと話していたとき、虎徹が声をかけてきた。


「ん、いいよ。重いの?」


 近くにいた大輝にも手伝わせようかと目線をやったが、虎徹は首を振った。


「いや。重くはない。けど、量がある」

「じゃ、僕だけでもいっか」


 そう言って、二人連れだって歩く。

 教官室は、総合教官室と各教官個別の部屋があって、今回荷物を運ぶのは、個別の教官室からだった。


 三階に上がりながら、虎徹が尋ねる。


「――なぁ、まだ、坊ちゃんと喧嘩してんの?」


 その質問に、勇輝の眉が寄る。月の障りから復帰してからこっち、楓に避けられているのだ。だが、喧嘩した覚えもない勇輝は、楓の態度に戸惑うばかりだった。


「……喧嘩、っていうか……。僕がなんか怒らせちゃったんだろうね」

「つーと、心当たりはないのかよ」

「全然」


 そういう勇輝は、少し寂しそうだった。

 あれだけ勇輝にべったりだった楓が、急に近寄らなくなった。隊別の訓練の時でさえ、勇輝に話しかけることは、必要最低限になってしまった。

 以前に戻ったと言えば、戻ったのだが、勇輝はそれが釈然としなかった。


 怒らせてしまったのだろうか。それとも、月の障りで休んでいるうちに、飽きられたのだろうか。


 楓に何かした覚えのない勇輝は、そんなことばかりぐるぐると考えてしまう。

 大輝は「よかったんじゃねーの。うっとおしかっただろ」と能天気にいうが、勇輝はそこまで割り切れなかった。なんだかんだと、楓に懐かれるのは、悪い気がしていなかったのだろう。


 ――仲良くなれたと思ってたのにな。


 かわいい後輩が独り立ちしたと思えればいいのだろうが、まだそう思えるほど、楓と接していない。

 楓は、嵐のように勇輝の内面に入ってきて、突然出て行ってしまった。

 このまま、何事もなかったかのように、元の先輩と後輩に戻ってしまうのだろうか。

 「妾になれ」なんて迫られることがなくなり、いいことのはずなのだが、一抹の寂寥を感じてしまう。『忘れる』なら、この方がいいのだが……。


 勇輝は、楓をどうしたいのか、楓とどうなりたいのか決めかねて、そのせいで動けないでいた。


 考え込んでしまった勇輝の肩を、虎徹は元気付けるようにバシバシと叩いた。


「あんま、考えすぎんなよ。案ずるより産むが易しって言うだろ」

「……虎徹は、もうちょっと考えたほうがいいんじゃない?」


 虎徹も大輝も、本能で戦う手合いだった。だから、それの支援をしている勇輝と太一は、いつも心配させられてしまう。そのことを指摘すると、


「はっはっは」


 笑って誤魔化された。


「まぁ、なんだ。あれだ」

「どれだよ」

「熟考したほうがいい時と、勢いで行ったほうがいい時があるってことだ。……で、今回のお前は、勢いが必要だ」


 そう言って、訳知り顔の虎徹は教官室の扉をガラリと開けた。

 その中にいたのは、教官ではなく、楓だった。

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