第35話 立派にやり遂げたのは誰なのか

 飛び立った恋の残滓が消えないままに、僕は走った。


 走って、走って――基地の隅にある監視塔まで来ると、さび付いたハシゴをよじ登る。


 少しでも高い所に行って、見届けるために。


「な、何事ですか?」


 細い鉄塔の上に、直方体の箱を取り付けた様な形をした監視塔の中には、2人の自衛隊員が双眼鏡を使って戦場を俯瞰していた。


 その中に、すまないと断ってから無理やり体をねじ込む。


「あの子の活躍を、見たいんだ」


 恋の最期を。


 それが僕の出来る最後の仕事。


 やるべき義務。


「活躍……?」


「すまない。僕は感情・自我発露個体情報調整担当官の相馬唯人だ。今最後の桜花が飛び立ったから、その結果を見届けたい」


「了解いたしました。こちらをどうぞ」


 肩書とは非常に便利なものだ。


 3佐相当故に、多少理不尽な事でも従ってくれる。


 僕は隊員から双眼鏡を受け取ると、戦場へと向けた。


 そして、僕は自分がいかに恵まれていたかを思い知った。


 地獄、という表現すら生温い。


 レーザーで塹壕事生きながらに焼かれる隊員。


 礫殺されながらも銃を手放さずに震える隊員。


 バリケードから顔を出した瞬間に撃たれて倒れる者。


 色んな死がそこにはあって、誰しもがその死を当然の様に受け入れて、死に慣れ切っていた。


 だから彼らは生体誘導機を、恋たちの死を望んだのだろう。


 恋を使わせないと言った僕に、あれほど怒りを抱いたのだろう。


 恋一人の死で、何人も何十人も何百人もの仲間が助かるから。


 分かっている。いや、分かっていなかった。


 頭でそれを理解していても、心は理解していなかった。……理解したくなかった。


 大切な一つの命と、見知らぬ沢山の命。どちらが重いかなんて、決められないから。


 もう見ていたくない。


 そう僕の心は悲鳴を上げる。


 体もその意見に賛同するかのように、手が震えてまともに双眼鏡を持っていられない。


 それでも僕は理解する義務があったし、恋の結末を見届けなければならなかった。


 手の震えを根性でねじ伏せると、双眼鏡を戦場の先へと向ける。


 地平線までオームで真っ黒だったが、その更に先に……恋が居るはずだから。


 僕は待った。待って待って――。


「爆発確認っ!」


 隣の隊員が声をあげた。


 地平線から、太陽が昇ったかのような輝きが生まれ、それを追うようにして真っ黒なキノコ雲が生まれる。


 ――音はまだ聞こえない。


 今、恋が逝ったんだ。


 僕らを守るために。


 それが自分の命よりも価値があると考えて。


 ああ、そうだ。恋が桜花で特攻をかけてくれたおかげで、何万というオームが破壊され、何万という自衛隊員たちの命が救われるだろう。


 正しい判断だ。


 正しい行為だ。


 恋によくやったなって褒めてあげるべきだろう。


 でも僕は……僕は……生きていてくれるだけで良かったんだ。


 好きな絵本を読んで、静かに笑っているだけで。いや、それがよかったんだ。


 それこそが僕と、恋自身も望んでいる事だったから……。


「……ありがとう」


 隊員に双眼鏡を返すと、僕は彼らに背を向けて通信機を口元に当てる。


 繋がっている先は――。


「みんな、恋はやり遂げたよ。ありがとう」


『――いえ』


 桜花を整備していた隊員たち。


「ありがとう」


 恋に言ってあげられない代わりに、隊員たちへ礼を言う。


 そうしなければ、隊員たちに八つ当たりをしてしまいそうだったから。


『私達はこれから他の援護に――』


 全ての生体誘導機――あの子たちが居なくなった以上、これでもう、彼らがするべきことは何もない。


 ――本来ならば。


「ごめん、悪いんだけど最後に一つだけやってもらいたいことがあるんだ。それは――」


『…………はい、やってみます』


「ありがとう」


 僕はそれを伝えた後、通信を切る。


「君たちも、ありがとう。邪魔をして悪かったね」


「いえ、担当官もご苦労様です」


 彼らが少し青い顔をしているのは、先ほどした僕の命令が原因だろう。


 僕の命令は、負ける事を前提としたものなのだから、不吉に思うのも当たり前だった。


「万が一の為だからあまり気にしないでくれ。それじゃあ」


 ひとこと添えてから監視塔を後にする。


 そうだ。僕にはまだ、やるべきことがあるのだから。








「美弥、起きてるかな?」


 僕は手に、つぼみをつけた花――陽菜が植えて、由仁と恋が育てたレンゲソウだ――が植えられたマグカップを持ったまま、調整室へと足を踏み入れる。


 案の定、美弥の元気な返事は返ってこなかった。


 もうそろそろ目を覚ましてもいい頃合だったが、脳に埋め込んだチップがオームの影響下では動作しないため、例え意識が戻っても意志は戻らない。意志が無ければ、美弥は美弥足りえないのだ。


「ただいま」


 調整室の中は、強盗に荒らされたのかと思えるほど無残な状況だった。


 研究データと関係ない安寿さんの私物や絵本などが床に散らばり、踏みつけられて無残な姿を晒していた。


 それらを避けて歩きながら、まだカプセルの中で眠る美弥の元まで行く。


 と――。


「美弥、起きてたんだ」


 うっすらとだが、確かに美弥は目を開けていたのだ。


 それは、死の淵からの帰還を意味していた。


「安寿さんはやっぱりすごいな」


 美弥の表情はまったく変わらない。反応もしない。


 前頭葉が傷ついてしまった美弥は、完全に、全ての事に対して無気力になってしまっている。


 だが、それでも僕は生気のない美弥の顔の更に奥にある美弥の感情が、何となく理解できる気がしていた。


「ごめん、美弥も強かったね」


 僕は花を床に置くと、念のために指先をズボンで拭ってから、美弥の頭をそっと撫でる。


「帰って来てくれてありがとう」


――でも、私失敗しちゃって……。


「美弥は帰ってきてくれたんだよ。それは失敗なんかじゃ絶対ない」


――そうなのかな?


「ああ。生きる事、生きていてくれる事は、僕にとっての幸いだから」


 死が当たり前なこの世界の中で、たった一つの命がどれほど尊いか。


 美弥はどんなになっても命を繋いで、生きて、生きて、生きたんだ。


 それは絶対に恥でも、失敗でもない。


「美弥。君は、君だけは、これからもずっと生きてくれ」


――ありがとう、先生。


 難しいかもしれないけれど、僕は何があろうとそれを望むから。願っているから。










『相馬担当官。応答せよ』


 僕と美弥の会話に、通信機から発せられた田所一佐の声が割って入る。


 彼の声は苦悩に満ちているのが、最初の一言だけで察せられた。


「聞こえています、送れ」


『相馬担当官。桜花はまだ残っているな。あれに人間を乗せて飛ばすことは――』


「不可能です。コックピットが小さすぎる」


 桜花のコックピットは少女の、それも膝から下を切り落とした大きさに合わせて作られている。例え軽業師であろうと入って操縦することは不可能だ。


『なら、戦術水爆を何かに乗せて戦場まで運ぶことは出来ないか?』


「水爆は非常に重い。桜花の重量の半分以上を占めています。運んだところで効果はパンジャンドラム以下でしょうね」


 戦場に顔を出した途端にレーザーで撃たれて穴が空き、三重水素が漏れだして無力化してしまうだろう。


「田所一佐。今整備士の皆さんが雷管を時限式の物に作り変えてくれています」


『それは――』


 たったこれだけで田所一佐は僕の言いたいことを察した様だった。


 殿を任されただけあって、優秀なのだろう。


 あとは、選択肢がそれしか残されていないのもあるが。


「時間を決めてシェルターに退避。その後、基地ごと自爆して逃げられる者だけが逃げる」


 桜花に搭載されている水爆は、純粋水爆だ。


 故に爆発した瞬間に放射線を発生させるものの、放射性物質をばら撒きはしない。


 熱と粉塵さえ防護服で防げば逃げるのに問題は無いだろう。


『それで何人生き延びられるか……』


「生き延びられる可能性がある。それだけで十分だと思いますけどね」


 シェルターに逃げ込める人数は少ないだろう。


 更に爆発後に逃げ出せたとしても、オームは全滅していないだろうから襲われる危険もある。


 組織立った行動が出来ない以上、出会えば鏖殺されてしまうに決まっていた。


 それでも、それでも全滅ではない可能性が残る。


 このまま抵抗を続ければ、いずれ全滅は必至なのだ。


『…………それしか、無いか』


「はい」


 合理的な判断だ。


 だが、今の決断でこの基地に居る人間の半分以上を殺す決断をしたのだ。


 その意味を理解していてくれると、信じたかった。


『相馬担当官、礼を言う』


「いえ、僕は――」


 と、そこまで言いかけて止まる。


 これを思いついたのは純然たるやっかみだとか、そういう影に属する感情からだった。こういう感情は『先生』として相応しくないため、なるべく封印していたのだが……。


 ああ、どうせ死ぬのだ。構うものか。


「すみません。一佐は上のお歴々がどこに逃げ出したのかご存知ですか?」

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