第4話 5000兆円で豪遊してみた

「確かに美味いんだけどさ、店まで行くのがめんどくさいんだよな」

「まあ結局、たまに行くからいいのよね、こういう店って」


 金井和夫・美知子夫妻の家に、神様がくれた5000兆円入りの黒いATMがやって来て一か月が経った。

 二人はいま、都内にある高級フレンチで一人3万円のコース料理を食べている。二人はワインについての知識など全くないが、とりあえずワインリストを見て、その中で最も高いものを頼んでいくのが常だ。そうすると一回の食事でだいたい10万円近く飛んでいくのだが、もうその程度の出費でいちいち動揺する二人ではない。


 なにしろ、自分たちの自宅には5000兆円がある。


 それなのに、自分達二人はこの一か月で、5000兆円入りの黒いATMから各自の銀行口座に移した1000万円すらまだ使い切れていないのだ。少なくとも一食あたり10万円くらいは払わせてもらえないことには、とても5000兆円を十年間で使い切ることなどできはしない。二人はだんだんとそのことに気が付き始めていた。


「だいたい、たかが飯を食うのになんでいちいちスーツ着なきゃいけねえんだよ」

「そういう緊張感も含めた、いつもの生活と違う特別な感じがいいんじゃない」

「そりゃさぁ、一年に一度の何かの記念日とか、それくらい特別な食事だったら確かにスーツの一つでも着てやろうって気持ちにはなるよ? でも、こう毎日毎日だと、さすがに嫌になってこない?」

「まあ、確かにそうね……」


 5000兆円が手に入って、美知子が最初に言ったのが「都内の最高級レストランで毎日食事がしたい」ということだった。「5000兆円もあるんだから、毎日外食でも全然大丈夫よね。私、もう毎日食事作るの嫌だ」というのが彼女の言い分で、それでさっそく嬉々として和洋中の有名なレストランを次々と検索しては、片っ端から予約を入れていった。


 しかし、それも長続きはしなかった。


 5000兆円を手に入れてからも、将来を見すえて彼らはせっせと会社勤めを続けている。それで仕事が終わった後に予約していたレストランに向かい毎日食事をするわけだが、このような店での食事は、街角の牛丼屋やファミレスで夕飯を済ますのとは訳が違う。


 フレンチにせよイタリアンにせよ寿司にせよ割烹にせよ、このような高級店で出されるのは必ずコース料理である。ゆっくりと順番に何品もの料理が出てきて、終わるまでに必ず二時間以上かかる。だから、定時に会社を出てレストランで食事をしても、終わって家に着く頃には確実に夜の九時を回っている。風呂に入って少しくつろいだらもう寝る時間だ。そこでつい夜更かしをしてしまうと翌日の仕事に響いてしまう。


「俺はさ、美味いもの食うのも時々はいいんだけどさ、基本的には仕事終わった後は家でゆっくり風呂入って、パジャマ姿でくつろぎながらダラダラとテレビ見てたいんだよ……」


 毎日の高級レストラン通いが十二日目に達した時、ついに和夫の我慢が限界に達し、そう言って美知子にぼやいた。美知子も確かにちょっと疲れてきたので、高級レストランに毎日通うことはやめて、週一回に減らすことにした。

 自宅で食事する時も、食事を作るのが面倒くさいということで最初は近所で外食をしたりデリバリーを頼んだりしていたが、外食の濃い味に次第に飽きてきてしまった。それにこの一か月で、二人とも目に見えて体重が増えている。


 そんなわけで結局、今では美知子は5000兆円を手に入れる前と全く変わらず、毎日せっせと自炊をしている。家事代行サービスのようなものを使って、家政婦さんに食事を作ってもらうというのも最初に少しだけ考えたが、結局使っていない。


 どう見ても金持ちそうには見えず、自力で家事をするのが困難なような事情を抱えた訳でもない自分達夫婦が、家政婦を毎日欠かさず使うのは明らかに怪しい。そして、この狭い2LDKの部屋で、リビングの角に置かれている黒いATMの存在に家政婦が気付かないはずがない。もしそれを誰かに噂話されたりなどしたら防犯上極めて危険に違いない。それに、汚く散らかった自宅を他人に見せるのにも美知子は抵抗があった。


「それにしても、使おうと思うと意外とお金って減らないもんね」

「ホントそれ」

「まだ1000万円も使いきれてないんだけど、どうすりゃお金って使えるの?」

「俺思ったんだけどさ、贅沢で使う金なんて実はたかが知れてんだよ。どんなに頑張って贅沢しても、使える金額なんてせいぜい一回数十万か数百万程度じゃん」

「わかる。借金で苦しんでた時は贅沢のせいでお金が貯まらないって思ってたけど、いざ5000兆円使えって言われると、贅沢だけで使い切るのって絶対無理よね」


 それで和夫と美知子は、どんな豪遊をすれば5000兆円を使い切れるかについて、彼らの想像力の及ぶ限りを挙げてみた。


「ヘリをチャーターして東京湾一周」

「そんなの、せいぜい百万ちょっとでしょ?全然足りないわよ」


「豪華客船でクルーズ旅行」

「それなら二人で数百万円は使えるかしら」


「全席ファーストクラスで世界一周旅行」

「よくわかんないけど、それだって一千万円はかからないわよね」


「飛行機を一機チャーターして世界一周旅行」

「確かにそれなら億単位でお金かかるかもだけど……飛行機ってどうやって借りるの?」


 色々と挙げてみたがやはり、彼らの思いつく範囲ではせいぜい一回あたり数百万円程度の豪遊しか思いつかない。でも、たとえそんな数百万円規模の豪遊を百回やったとしても、それはたった数億円にしかならないのである。5000兆円を前にしたら、そんなものは全くもって焼け石に水だ。


 時々、アラブの王族が来日した際に一日で何億円を使ったとか、超大物ハリウッドスターが信じられないような豪遊をしたとか、大富豪たちの常識はずれの贅沢がテレビなどで紹介されることがある。でも、平凡な一般人にすぎない金井夫婦が、いきなりそれと同じことをやろうとしても到底無理な話だ。


 あのような豪遊は、その人が大金持ちであることが世間にも有名で、この人ならそれくらいの豪遊をしても全然おかしくはないと周囲の人が納得していて初めて可能なのである。

 例えば和夫が今、飛行機会社に行って必要な費用をポンと現金で渡して「300人乗りの旅客機をベースにした自分専用機を作ってくれ」と言ったところで、たとえお金は十分にあったとしても、頭がおかしい人だと思われて冷たく門前払いされるのがオチだ。


 それに、そのような大富豪の周囲には必ず、何人ものお付きの人たちがいる。お付きの人たちが常に大富豪の行く先を先回りして、前もって綿密な下準備をしてくれているからこそ、桁外れの豪遊を受け入れる側も対応ができるのだ。豪遊というのは、実は組織で行うチームプレイなのである。


「あー。セバスチャンいねえかなー。欲しいなーセバスチャン」

 和夫がぼやいた。


「何そのセバスチャンって?」

「優秀な執事だよ。よくマンガとかで出てくるじゃん、黒い服着て丸い眼鏡をかけた白髪のおじいさん執事。大金持ちな子の後ろにいつも立ってて、その子が命令すると何でもその場ですぐに実現させちゃうの」

「あー。確かに欲しいなー優秀な執事。まずは5000兆円でセバスチャンを買わないことには、5000兆円を使った贅沢もろくにできないわよね」

「なんだか先が長いなぁ。なあ、一体どこに売ってんだよセバスチャン?」

「知らないわよそんなの」


 和夫がスマホを取り出して「セバスチャン 買う どこで」などと検索し始めたのを横目に、美知子は真面目な顔をして言った。


「だいだい、豪遊するって言ってもさ、お金がいくらあっても時間がないわよね」


 和夫は「それだ」と言ってスマホから顔を上げた。確かに、ここに挙げた豪遊はどれも非常に時間がかかる。豪華客船などに乗ってしまったら一か月は帰ってこれない。毎週土日しか仕事の休みがなく、旅行に行くにもいちいち仕事のスケジュールを調整して休みを作らなければならないような今の状態で、十年間で5000兆円を使い切るなんて到底できるはずがない。


「あのさ……5000兆円が来た日にお祝いで牛角行った時、将来のことを考えて仕事は辞めるなってお前言ってたじゃん。

 あの時は確かに、俺もお前の言い分に納得はしたんだけどさ、今になって改めて考えてみると、やっぱり仕事続けてるの、全然意味なくね?」


 こんなことを言ったら怒られるだろうと恐る恐る確認した和夫だったが、意外なことに美知子はあっさりと同意してくれた。


「そうよね、私も薄々同じこと思ってた。宝くじに当たった2~3億円だったら一生のうちに使い切っちゃう可能性はあるけど、5000兆円は絶対に使い切らないわ」

「だよな!そうだよな!」

「だから、十年の期限が終わる前に5000兆円全額で株とか金とかを買って財産として残しておけば、会社なんて辞めちゃっても全く問題ないわね。

 私、ちょっと心配しすぎてたみたい。5000兆円がどれだけすごい金額なのか、あの時は全然分かってなかったから」

「そりゃそうだよ。俺だって全然分かってなかった。こんな大金なんて一生縁がないと思ってたから、分かるわけないもん」

「それじゃ、早いところ二人とも会社は辞めて、平日も使ってたくさん贅沢しましょ。こんだけお金があるんだから、仕事なんかしてたら時間がもったいないわ!」


 そして和夫と美知子は、あっさりと会社を辞めた。


 会社の人達は、一切の前触れもないあまりにも突然の退職に、誰もが目を丸くして理由は何なのかと尋ねた。

 そんな質問に対して「家に5000兆円があるから」などとは口が裂けても言えない。さらに「辞めた後の次の仕事は探しておらず無職になる」などと言ったらいよいよ話が面倒なことになるので、二人は「実家の親が地元に帰ってこいと強く望むので、実家のそばで新しい職を見つけた」という嘘をつくことにした。


 仕事を辞めた和夫と美知子の二人は、時間の縛りもなくなったので、5000兆円を使った豪遊の手始めに世界一周旅行に行くことにした。平日の昼間に二人で旅行会社に行くと、休日なら何十分も待たされるカウンターはガラガラで、すぐに名前を呼ばれた。


「あの、世界一周旅行に行きたいのですが。全席ファーストクラスで」

「え……? お客様、そのご旅行は、何かの記念でございますか?」

「まあ、そんなところですハイ」


 和夫は目を丸くする若い受付係の女性に向かって、とにかく一番豪華で一番お金の高いツアーを教えてくれと依頼した。それで受付係はいよいよ不審そうな顔をした。目の前に座っている明らかに旅慣れていない感じの夫婦が、一体どんな職業に就いているどんな立場の人なのか、必死に値踏みをしているようだ。

 それでも女性はきちんと業務をこなし、彼らの望む条件に合った、可能な限り高価な世界一周ツアーの資料をいくつか持ってきて内容を説明した。


「もし今ご存知でしたら、パスポートの番号もお教え頂けませんでしょうか?」

 そう尋ねる受付係に、和夫が答えた。

「いや、そこなんだけど俺たち二人とも、海外旅行ってまだ一度も行った事ないのよ。パスポートってどうやって作るのか、そこも教えてくれない?」


 受付係は絶句して「あ……ハイ……そうですか……」などと呟きながら、「少々お待ちください」とだけ言うと、そのままオフィスの奥にひっこんでしまった。

 なかなか戻ってこないと思っていたら、先ほどの若い女性ではなく年配で立場も上と思われる男性がやってきて「失礼いたしました。代わりまして私がお話をお伺いします」と言って席に着いた。


 明らかに不審者扱いだったが、その後の相談の中で雑談まじりに和夫が、実は宝くじに当たって1000万円の大金が入ったので、一生に一度の思い出として昔から夢だった世界一周旅行に行きたいんだ、という嘘を言ったら納得してくれた。


 結局、15日間で一人あたり約300万円を使うツアーが組まれた。この代金を支払った事で、最初に黒いATMから引き出した1000万円を二人はようやく使い切ることができた。

 二人は家に帰ると再び、一人1000万円ずつを黒いATMからそれぞれの銀行口座に振り込んだ。振込手数料が220円ずつ発生し、黒いATMの残高は4,999,999,959,699,120円になった。

二人は、しばらくその残高の数字を無言でじっと眺めていた。


「……ねえ。やっぱり贅沢で5000兆円を使いきるのは無理よ」

「ああ……。こんだけやってるのに全然減らないもんな」


 そこで美知子が、意を決したように言った。

「まとまったお金を使うなら、やっぱり何と言っても家でしょ。家なら億単位でお金が飛ぶわ」

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