七十五、三つ目の記憶

 なぜアラクネーは自らの体を滅ぼそうとするのだろう。クロエの体のまま魔物として生きていくつもりなのだろうか。

 瞼を閉じた一瞬の間に、最後まで解き明かされることのなかった数々の疑問が浮かび上がってくる。それと同時にどうせ殺されるならエルネストの手で殺されたかった――そう考えてしまった。

 諦めてしまったその瞬間、数々の疑問を払拭すべく、三つ目の記憶の残像が頭の中に広がった。


  §


 王宮の精鋭の魔道士で結成されている魔道士団――さらにその中の精鋭で構成されている第一部隊に、南にあるトロワ密林に存在するといわれるアラクネー討伐の王命が下された。密林の奥に潜む魔物を、わざわざ討伐しに行く理由が分からなかった。

 ――危険な魔物は駆逐すべき

 そんな曖昧な理由で、自分たちの命を危険に晒さなければいけないなんて……。この砂漠の王国に接してはいるが、トロワ密林はこの国に属さない地域だ。そもそもアラクネーによる実質的な被害などの報告はない。

 密林の奥で何十年、いや、何百年も生き延びている魔物が、簡単に駆逐できるはずなどない。この国に伝わる古い文献にも名が記されている危険な魔物――アラクネー。その魔物と対峙しなければならないという現実を前にして、もはや溜息しか出なかった。


「エミリー、浮かない顔だね」

「ユーグ……」


 隣にいた同僚のユーグが薄茶色の瞳を優し気に細めて、朗らかな笑顔を向けてきた。明るくて、優しくて、穏やかで、そして愛しい私の恋人……。


「危険な魔物に明確な理由もなく手を出すなんて、私たちの命が軽く扱われているようで納得がいかないのよ。いくら精鋭揃いの第一部隊といっても、敵はいつから存在しているのかも分からないような古い魔物よ。……なんとなく嫌な予感がするの」

「エミリー……。気持ちは分かるけど、王命に背くわけにはいかないだろう。命を捨てろと言われれば捨てるしかない。だが確かに特に実害が起きているわけでもないのに、陛下は何をお望みなんだろうね」

「そこが分からないのよね。……アラクネーのことはよく分からないけど、古い魔物には、長年生き延びることができたそれなりの理由があるはずよ。とても無傷で帰れるとは思えないの。貴方を危険な目になんて会わせたくないのに……」

「僕もだよ、エミリー。……ねえ、今回の任務が終わるまで、どうか無理をしないでほしい。自ら前に出ては駄目だよ。いくら君がこの魔道士団で最も魔力が高いといっても、君は誰よりも優しくて脆いんだから」

「ユーグ、ありがとう……。どうか貴方も無茶はしないでね」

「エミリー……」


 私たちは静かに唇を重ねた。


  §


「アアアアアア……!」


 私は子どもたちを守るために、目の前にいるローブを着た魔道士たちの体を次々に魔力の糸で縛り上げて、切り刻んでいく。耳に届いてくる悲鳴と絶叫に心の奥が震える。


(ああ、私は何をしているのだろう……。この手はなぜ血に濡れているのだろう……)


 気が付けば私はアラクネーとなって、大切な仲間たちの命を奪い続けていた。

 我に返ったときに、私は全てを悟った。私の意識はこの洞窟に入ったあとに、壁に張り巡らされた糸を伝ってアラクネーの意識と入れ代わったのだ。

 血に濡れた自らの両手を見て、私は呆然とした。目の前に傷ついて膝をつきながら、私に恐怖の眼差しを向けてくるユーグの姿があった。


(私が傷つけた……。愛するユーグを。……もう傷付けたくない。どうか私を殺して)


 涙など持たない魔物の瞳から血の涙を流しながら、私はユーグを見つめて懇願する。


「わた……を、ころして……」


 なんとか振り絞って紡いだ言葉が届いたのだろうか。ユーグは大きく目を見開いた。

 そのとき、突然ユーグの後ろからエミリーの体を奪ったアラクネーが、私を狙って光の槍を放ってきた。


(これで、死ねる……。もう傷付けなくて済む……)


 全てを諦めて目を閉じるが、痛みは襲ってこない。ゆっくりと目を開けて前を見ると光の槍を背中に受けて口端から血を流すユーグの姿があった。


「な、ぜ……」


 予想外の現状に、私の口からは疑問の言葉しか出なかった。ユーグはいつものように穏かに笑いながら、くずおれまいと私の両腕を掴んだ。


「エミ、リー、だね。ごめん、すぐ、気付けなかった。君を、君の魂を、愛している……」


 私を庇って致命傷を受けたユーグは、消え入りそうな声でそう呟いた。そして徐々に光を失っていく薄茶色の優し気な瞳から涙がひと筋零れて落ちた。そのままゆっくりと瞼が閉じられていく。


「いや……しな、ないで。いや……いや……」


 私はくずおれていくユーグの体を支えようとした。だけどユーグの体からは徐々に力が失われ、私の腕を掴んでいた手がゆっくりと解けていく。私の体から滑り落ちていく温かな愛する人の体は、私の目の前にゆっくりと倒れ込んだ。

 冷たくなっていくユーグの体を前にして、絶望と虚無と諦めが私の心を支配していく。ふと蘇ってきたのは、優しい笑顔と、唇から伝わってきたユーグの温もり。


「ゆ、ぐ、わた……も、あいして、た」


 私の大切な人……ユーグ。貴方がいない未来を生き続けることに何の意味があるだろう。私の未来、私の心、私の半身……。

 続けてアラクネーから放たれた光の槍を見て、私は微笑んだ。もはや抗う気はない。


(すぐに貴方を追いかけるわ、ユーグ……)


 光の槍に貫かれて、ユーグの体に重なるように私はゆっくりと倒れ込んだ。

 エミリーの姿をしたアラクネーが近付いてくる。もはやこの場には誰一人人間は存在しない。全て私が殺してしまったから。

 アラクネーが私の蜘蛛の体に両手を当てた。意識も体も大切な記憶も白い光に飲み込まれて、エミリーの体に吸収されていく。私はアラクネーとなったエミリーに全て取り込まれ、エミリーの体は徐々に蜘蛛の体へと変化していった。

 アラクネーという魔物は、より魔力の高い者の体を乗っ取って、代替わりをしてきたのだ。そして誰もその事実を伝える者はいない。一人残らず殺されてしまうから。


 だがもはやどうでもいい。もうこの世界にユーグはいないのだ。心から愛してた。誰よりも大切に思っていた。貴方だけでも幸せになってほしかった。

 私の意識もじきに消えてしまうだろう。このアラクネーに対する怒りも国に対する怒りも、段々とぼんやりしてきた。ならばせめて、この体の片隅に刻もう。いつ消えるとも分からない、私の記憶の片鱗を……。そして願わくば、誰か、どうか、気付いて。

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