七十三、アラクネーの部屋
アンジェリク殿が焼き払って剥き出しになった岩壁の隙間から、無数の蜘蛛が這い出してきた。一体どこにこれほど潜んでいたのかというほどの数だ。
数センチの小さいものから数十センチの大きいものまで、さまざまな大きさの蜘蛛が壁一面を覆い尽くし、それぞれが赤く光る八つの目でこちらを見ている。爛々と光るその赤い目は、明らかに俺たちに対する敵意に満ちている。
「ようやく歓迎してくれる気になったようじゃのう」
「ああ。今までが静かすぎて不気味だったくらいだ。こうなったほうが逆に安心するな」
「違いない」
アンジェリク殿は鉄扇から炎のブレスのようなものを繰り出していく。俺はかざした左手から放つ風雪で壁中を凍らせた。俺の氷魔法とアンジェリク殿の炎がぶつかり合って、辺りが蒸気の白い靄でかすんでいく。
「クロエ、大丈夫か!?」
「……どい」
「ん?」
「……大丈夫よ」
クロエはまだ顔色が悪い。調子が戻っていないのかもしれない。クロエを守りながらここを凌がなければ――そう考えていたところで足首を這いずり回る違和感に気付いた。
足元に目をやると、白く細い糸のようなものが地面を埋め尽くし、足首の辺りまで絡みついていた。蜘蛛の糸のようだが、どうやら違うようだ。一本一本が白く細い魔力の糸だ。
「む、なんじゃ、これは!」
「これは蜘蛛の糸じゃない。細く練られた魔力だ……!」
蜘蛛の糸ならば簡単に除去することができただろう。だが魔力の糸は柔軟かつ高い硬度で、俺たちの足を拘束していた。その白く光る糸が、徐々に体の上部に向けて覆うように伸びてくる。
これは俺たちを襲ってきた雑魚蜘蛛程度が使える魔力ではない。恐らくはより上位の魔物かアラクネー本体の仕業に違いない。
「ううっ……!」
「クロエッ!」
か細く呻く声のほうを見れば、足を魔力の糸で覆われて、クロエが地面に座り込んでしまっていた。クロエを解放したいが自由が利かない。どうすべきか……。
俺が逡巡しているところに、アンジェリク殿が軽く舌打ちをして指示を出す。
「チッ、仕方がない……。エル蔵、耳を塞いでおれ」
「む……」
アンジェリク殿の指示通りに耳を両手で塞いだ。途端アンジェリク殿が腰を落として重心を低くしたあと、大きく口を開ける。
「オオオオオオオォォンン!!」
「ぐっ……!」
目の前の幼い少女の口から、凄まじい咆哮が放たれた。耳を塞いでいたにもかかわらず、体全体を通して伝わってくる大音響の振動……。ありとあらゆる生物を無条件でひれ伏せさせるような、圧倒的な威圧感に鳥肌が立つ。これが竜の力……!
アンジェリク殿の咆哮を受けたからか魔力の糸が霧散して消えていく。そして俺たちを囲んでいた無数の蜘蛛が動かなくなった。恐らく一時的に意識を失っているだけだろう。この機会を逃すわけにはいかない。ここで一気に叩き潰す!
俺は再び氷魔法で蜘蛛の体を凍らせて砕いていく。アンジェリク殿も炎で辺りを焼き尽くしていった。
クロエは先ほどのアンジェリク殿の咆哮を無防備で受けることになったからか、気を失っているようだ。クロエの出していた光魔法の灯りが消えてしまっている。
全ての蜘蛛を駆逐したところで、アンジェリク殿が炎の球を掌に作って浮かべた。そして気を失ったクロエをちらりと見たあと指示をする。
「ここからは儂の灯りで先に進む。エル蔵、クロエを頼む。恐らくじゃが、あの魔力の糸の主を倒せたわけじゃないじゃろう。再び絡めとられんとも限らん。今のうちに一気に奥に進むぞ!」
「承知した」
俺は意識を失っているクロエの体を横抱きに抱えたあと、アンジェリク殿の後ろについて洞窟の奥へと足早に進んだ。
アンジェリク殿が何の迷いもなく奥へと進んでいく。腕の中で眠るクロエの顔を見下ろすと、顔色がいつもよりも青白いのが分かる。
この状態から共に戦闘するほどまでの回復は見込めないだろう。このままクロエを守りながら戦うしかない。
「アンジェリク殿、戦いが始まったら氷の結界でクロエを覆う。万全とは言えないが、意識が回復しなければそうするしかないだろう」
「……そうじゃな」
「……アンジェリク殿、何か?」
先行するアンジェリク殿の返事に、いつものキレを感じられない。何か迷いでもあるかのような声色に疑問を投げかけた。
「いや……。先を急ぐぞ」
「あ、ああ」
しばらく進んでいくと、魔力を孕んでいるのか壁全体が白く光る糸に覆われた大きな部屋に出た。ぼんやりと明るいその部屋の中央には、大きな岩でできた玉座がある。そしてそこに座していたのは……
「アラクネー……」
下半身が白銀の体毛に覆われた巨大な蜘蛛の腹部から六本の蜘蛛の足が生えており、上半身が妖艶な女性の姿をしている。白銀の長い髪と異様なまでに白い肌、そして赤く光る瞳が妙に艶めかしい。
この魔物がアラクネーで間違いないだろう。魔力を感知しない俺でも、その禍々しい気配を肌で感じる。
部屋に到達した時はぼんやりと壁を見つめていたアラクネーの赤い瞳が、俺たちのほうへゆっくりと向けられた。どこか虚ろな瞳を見て、ちゃんと会話ができるか不安になる。
「君がアラクネーか」
「……アラクネー? ……そう、わたしは、アラクネー」
どうやら人語を解するようだ。糸を譲ってもらえないか、一応頼んでみるか。できることなら穏便に事を済ませたい。
「君の糸を譲ってほしいのだが」
「おまえたちから、コドモたちのタイエキのにおいが、する。……ころしたの?」
「……襲われたから仕方なかったんだ」
「そう、ころしたの……。ならば、おまえたちは、テキだ」
アラクネーの瞳の赤が一層強くなって、虚ろだった光が一気に殺気を帯びた。禍々しい気配が大きくなったのを感じて、もはや話し合いをする余地がなくなったことを悟った。
襲われれば倒す。相手が魔物でも人間でも同じことだ。だがアラクネーにそんな理屈は通じないようだ。俺はクロエを地面にそっと横たえて氷の壁で囲んだあとに、剣を抜いて構えた。
「君の子どもたちのことはすまない……。だが目的のために君を倒す。許してくれ」
「ころすっ……!」
眷属を殺されて逆上したアラクネーが俺のほうに飛びかかってきた。その場に留まって毒か何かを吐いてくるかと思いきや、予想外の動きに一瞬戸惑う。相手の力量も出方も分からないのに、いきなり突進してくるとは。戦い慣れている者の動きではない。
目にもとまらぬほどの速度で間合いに飛び込んできたために、剣を一振りするのが精いっぱいだった。アラクネーはそのまま自分が傷つくのもお構いなしに、俺の両腕をガッチリと掴んだ。
アラクネーの爪がぎりぎりと上腕部に食い込む。斬りつけた個所を見てみると、見る見るうちに傷が塞がっていく。恐ろしいほどの回復力だ。
俺の腕を掴んだアラクネーの顔が間近に迫ったその瞬間、アラクネーが怒りを湛えた赤い瞳を、大きく見開いた。
「エ、ゥ……?」
「え……!? ぐっ!」
腕に食い込むアラクネーの爪に齎された痛みに顔を歪ると、アラクネーが即座に後ろに飛びのいた。何か戸惑っているかのように、きょろきょろと視線を彷徨わせる。
「ア、アアァァァ……」
俺とアンジェリク殿を交互に見つめたあとに、アラクネーが頭を抱えて呻いた。どこか様子がおかしい。
「……大丈夫か、エル蔵!」
「ああ、油断した。すまない。……話ができないのなら仕方がない。アラクネー、今度はこちらから行かせてもらうぞ」
俺はアラクネーに向けて氷の槍を放つべく左手をかざした。
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