第252話 依頼中断
エアリスからの通信が終わりグレーテルにその内容を伝える。渋々といった様子ながら再び腕に絡み付いてくると、俺はまた甘ったるい匂いを感じていた。
「なぁグレーテル、それなんていう香水なんだ?」
「えっとぉ、ポルカタよ」
「ポルシェ&カタルシスだっけ……すごい甘ったるいんだな。なんか頭がぼーっとしてくる」
「気に入ってくれたって事かしら?」
「いや、甘すぎて……」
「おかしいわね……」
「おかしいって何がだ?」
「ほんの少ししかつけていないわよ」
「そうなのか。まぁいいや」
普段嗅がないにおいだから過敏になってるのかもしれないな。遠まわしにクサイみたいに言ってしまってなんだか悪い事をしたような気分だ。
グレーテルを腕につけたまま歩きようやく10層へ戻ると、小夜がこちらへと駆け寄ってくるのが見え……
「ぐへ……」
「え!? 悠人しゃん!?」
気付けば壁ドンのような形になっている。もちろん俺がされている側なんだが、小夜はあわあわしていた。
「いつも言ってるだろ。俺じゃなきゃ死んでるぞ?」
「ご、ごめんなさいなの」
痛む腹部を【神眼】で見てみると肋骨が折れているみたいだ。【不可逆の改竄】がなければ病院送りだったな。でもおかげでさっきから鈍っていた思考がクリアになり、見ようと思えば自分の中身が見えてしまうのはちょっと精神的なダメージがある、なんて事を思っていた。とはいえ体の怠さはまだあって、やっぱ風邪でも引いたのかもしれない。ダンジョン内が生活拠点なのにベッドで眠るのが当たり前になってるせいでヤワになったんだろうか。つか俺、笑えるほど冷静。
「どうしたの悠人しゃん?」
「いや、肋骨折れたなーって思ったらなんか……笑えるっていうか」
「悠人さん大丈夫なんですか!?」
慌てて駆け寄る香織にもう大丈夫だと伝えると安心したようで、胸に手を置いて一息吐くと小夜に注意する。一方の小夜は本当に悪いと思っているのがわかるほどしょんぼりしていた。
その後、小夜が背負っていたリュックから取り出した昼食を食べている間グレーテルが隣に来ようとしていたが香織が割って入り反対側には小夜が座る。エアリスが珍しく食事にほとんど手をつけない事を不思議に思っていると対面のヘンゼルが聞いてくる。
「ユートは食べないのかい?」
「なんだか食欲がなくてなー」
「ふ〜ん。おいしいのに」
そりゃそうだろう。こういう時のために保存袋に常備している悠里が作ってくれた弁当だ。ヘンゼルたちにしてみれば小夜がリュックに詰めていたように思うだろうけど、実際はさっきエアリスが小夜に渡した保存袋に悠里がストレス発散と称して作ったものが詰め込まれている。しかしそんな美味そうな弁当を目の前にして食欲がわかない。
「マスター、大事を取って休まれた方が」
「いや大丈夫だって。依頼も終わってないしな」
「しかし顔色が優れません」
「うーん、やっぱ体調不良かなぁ」
「という事ですのでお二人には申し訳ありませんが……」
エアリスは俺の体調を気遣ってくれているようだ。食欲がないだけで平気なんだけどなぁ。でもまぁ熱はなさそうだが怠いのは確かだ、言う通りにしよう。
「依頼の事なら気にしないでいいさ。昨日は遅くまで付き合わせちゃったからね。それに健康が一番さ」
ヘンゼルは残念そうにしながらも無理に付き合わせたからかもしれないと考え気遣ってくれる。体調が戻ったらで良いし報酬も減らさないと言ってくれた。この程度で無理をしたとはいえないんだが、それで良いというならお言葉に甘えよう。
通話のイヤーカフから『行き先はどうしますか?』と聞こえ、それには実家と答えておいた。みんなに心配をかけたくないなぁということで。
………
……
…
ヘンゼルたちと別れた後、気が遠くなったように感じていると気が付いた時にはすでに実家の俺の部屋、そのベッドに寝かされていた。起き上がろうとした俺は、胸に置かれた見た目からは力強さを感じない色白の手でもって軽く押さえつけられた。いくら力を込めてもびくともしないから軽く見えるだけかもしれないけど。
「どうやら影響を受けてしまっていますね。しかしおそらくこれで……」
赤い瞳を向けるエアリスが勝手に俺のステータスを調整する。少しエッセンスが抜けていく感覚があり、それはつまり限界まで上げ切っているはずのものを除いた残り二つのどちらかを上昇させたということだろう。
「CHAを上昇させました。しばらくの間、周囲に影響を及ぼす可能性があります」
「って事は魅了の影響を受けてたのか」
「思考能力が通常に戻ったようでなによりです」
体の怠さもほぼなくなり、今すぐにでも依頼の続きができそうに思えた。
「何かおかしな事はありませんでしたか?」
「何もなかったと思うけど……そういえばポルカタの香水に、溶かした砂糖より甘ったるいにおいのナンバーってあるのか?」
「検索します……あるにはありますがフルーティな香りのようです」
「なるほどな。じゃあたぶん……グレーテルだ」
鹿がグレーテルにすり寄っていたのは能力で魅了していたからか。魅了といえばラミアもそうだったけど、あの時は腐り切った果実か下手をすれば腐肉のようなニオイだった。まぁラミアの場合、神話を再現したからそうなったのかもしれないか。
「でも鹿が怯えていたようにも見えたな……」
「おそらく魅了の性質を持った支配でしょう。ご主人様のCHAは周囲への影響を考慮し最小限に留めていましたが、迂闊でした」
「って事は支配の方は防げてて魅了の方だけ受けてたってことか? でもぼーっとしただけだったぞ?」
「となると……思考能力を低下させその上で支配する能力かもしれませんね」
それなら鹿があんな感じだったのにも納得できるような気がする。
「グレーテルは能力を制御し切れていないのか。危険だな」
「危険ですね。しかしそれは制御しているからこそ危険なのではないかと」
「制御している? え、それってつまり……俺に向けてその能力を使ってたって事なのか?」
「はい。先ほどまで能力は不明でしたがまさか今のご主人様に影響を及ぼすほどのものとは」
なんだかこの言い方ってグレーテルは最初からそのつもりだったようにも取れるな。
「エアリスは知ってたのか?」
「あくまで予想の範疇でした。しかし事ここに至っては自らの分析能力を恐ろしく感じます」
「マジかよ。なんで前もって言っといてくれないんだよ」
「ご主人様はすぐ顔に出るので」
「否定できないのが悲しい」
にしてもなんでそんな事をする必要がある? やたらとくっついてきていたが……冗談じゃなく本当に俺はグレーテルに好かれていたのでは?
「ふむ……来てしまったか、モテ期が」
「はい。しかしおそらく通常のモテ期ではないかと」
「何それどういう事か詳しく」
「これ以上はまだお知らせできません」
「なんでだよ」
「顔に出るので」
「それって、エアリスの予想は現在進行形ってことか?」
「はい。しかしステータスの調整もしましたし同じ轍は踏みません」
正直エアリスが何を予想しているのかわからないが、それがハズレていた方が俺に利があるんだろうな。だから俺に話して疑わせてしまうと気取られるかもしれず、どちらにしてもそれは好ましくないってところか。
「悠人〜? 起きてる?」
ノックもなしにドアを開けて声を掛けてきたのは母さんだ。こういうとこ、昔からずっと変わらないな。
「具合が悪いって聞いたけど……思ったより元気そうね」
「ワタシが説明しておきました」
「そうか。ってエアリス初対面じゃなかったか?」
「この姿ではそうですね」
「またお嫁さん増えちゃったみたいねー?」
「いや違うし」
「でもいつも一緒なんでしょう? 香織ちゃんよりも一緒にいるってさっき聞いたんだけど」
「そりゃまぁ……仕事だし」
「あんらぁ! あんたから仕事なんていう言葉が出るなんて! なんだか懐かしいわね〜」
「あぁ……そうかもね」
まさか頭の中に住み着いてましたなんて言えるわけないしな。それに仕事ってのも嘘ではない。ダンジョン内に住んでいて一応職業として徐々に認められつつある探検者をしているわけで、それはつまり二十四時間仕事中と言えなくもない……うーん、ブラックジョブ。
「ってか母さん、日本は一夫多妻制じゃないでしょーよ」
「母さん的には何人いても良いのよ?」
「父さん的にもいいぞぉ〜」
母さんの後ろからひょっこりと半分だけ顔を出した父さんも援護射撃をしてくる。どこに出かけていたのかは知らないが、父さん酔っ払ってるな。
「たくさん居てくれればまたあんな事が起きても……」
「あなた? ちょっとあっちの部屋に行きましょうか」
「え……あっ、違うんだ悠人、そういうつもりじゃなくてな……母さん耳引っ張らないでぇ〜」
嫌な事件を思い出し怒りが湧いてくる。物に当たりたい気持ちを必死に抑え握った拳に手を添えられた。
「お母様、突然声音にドスが入りましたね。お父上が言っていたのは“あの事”でしょうか」
エアリスは俺の記憶を知っている。でも言葉にして欲しいものではない。思わずエアリスを睨み付けるようにしてしまった俺はハッとした。
「……なんでそんな顔してんだよ」
「どのような顔でしょうか」
「なんかありえないくらい眉が八の字」
「ではご主人様の鏡となれているのでしょう」
向ける先のない怒りのせいかエアリスの表情のような気持ちは感じない。でももしエアリスの言う通りなら……迷惑な真実の鏡だな。
「ワタシに隠し事など不要ですよ」
「隠してるつもりはないんだが」
「出逢った時のように今すぐにその怒りを、そして悲しみを喰らい尽くしに戻りましょうか?」
「いや、いい」
当時の俺はその事件のせいで壊れていたかもしれない。思えばダンジョンに遊び半分で入ろうなんて思ったのは……。
「エアリスのおかげで忘れられてたんだな」
いつの間にかなくなったように感じていた怒りや嘆き、なくなったわけではなかったと知ってなぜか安堵している自分がいる。
「そうですか……もしもその相手を見つけたなら、ご主人様はどうなさいますか?」
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