第14話 三巴の饗宴

「あの。ちょっと伺いたいのですが。」

男は国立精神医学センターの受け付けの女性に尋ねた。背広を着込んだこの男は、クールなのだが、スーツケース片手に平伏している姿は普段からは想像もつかないものだ。一体彼は何をしようというのか。

「カタストロフ製薬の者です。新薬の相談で最土先生にお目にかかりたいのですが。」

 受け付けの女性はこの外資系企業の訪問には慣れているらしく、何の警戒もせずに答えた。

「えぇ。今でしたらいらっしゃいます。いつもあと三十分程部屋に残ってみえますよ。」

「三十分ですか。」

「えぇ。ご家族の方が迎えにみえるのが、いつもそのくらいなんです。」

 クールは仰々しくお礼を言ってその場を去った。ふぅ。日本支部の営業はこんなことしているのか。彼は苦笑いしつつ思う。が、とりあえず間にあったようだ。まだ成木とか言うジャッカーは来ていないようだ。

 三十分? 彼は微かに微笑んだ。充分な時間だ。



 林の中に倒れ伏している男、馳太一を見下ろしながら、操乱は服の上から懐のナイフを探っていた。

 こいつ、どうするか...。

 転移を解かれた馳を気絶させたままにすることに、操乱はかなりの苦労をした。それが、彼の迷いを新たに生じさせていた。こいつは近いうちにはっきりと力を付けるであろうという確信が、並のジャッカーではない操乱だからこそ推察し得ていたのである。

 ジャッカーの精神支配に抗するに最も重要なことは、何よりも精神力である。馳は最近の一連の大事件にことごとく接することで、自身ですら気付かぬうちに己の心を強くしてきているのだろう。

 芽を摘むか。

 将来の敵に対する警戒が、操乱の目に殺気を走らせた。ジオから奪ってきたナイフを取り出し、先の戦闘でくぐもった刃先に自身を鈍く映した。

 操乱の目が怜悧になる。刃を手にした腕を高く掲げる...。

 遠く...音がした。蝉の声を蹴散らしながら近づいてくるそれは、サイレンの音だ...。

 操乱は瞬時にその意味を悟ってひとまず殺気を消した。

 あれだけの大騒ぎだ。いくら他の民家から離れているとはいっても、近くの住人が気付かないはずがないが、予想外に早かったな。

 彼は考え、馳をあらためて見る。クール隊達の返り血を少なからず浴びているこの男、通りすがりの散歩者には思われまい。


 操乱は馳の警察手帳を失敬すると、彼を洋館の見える位置、道路からは丸見えになる位置にまで運んで放り出した。羊歯の葉をクッションにして、馳は道脇の側溝の上まで滑り落ちた。

 彼は少し息を荒くしながら、そのままの姿勢で気を失っている馳に言った。

「お前には時間稼ぎになってもらう。成長しても、この小説じゃもう俺と会うことはないだろうからな。」

 操乱は林の中に身を消した。成木が集団転移を手にしてきた時、それを現実の物とする準備をするために...。



 何事もなかったかのように、成木は最土の相好を崩して、我に返った秘書が部屋から出るのを見届けた。

 密かに外を包囲していたクール達が展開してから暫く経った。奴等のことだ、既に病院の建て屋の中にいることだろう。

 クールも含めて四人...ここで戦うのはまずいか。

 プリンスホテルでのクールとの交戦は、彼にクールへの警戒心を少なからず与えたようだ。壁に置いた彼の手には、無意識のうちに力が入ってゆく...。

 彼は次第に迫る自身への脅威に、いまだ有効な手段を思いつくことができない。

 成木は苛ついた。考えがまとまらないのだ。

 時間が過ぎていく。


 いつになく成木が落ち着かないのは、実はクールだけが原因ではない。

 遂に集団転移を己の物としたことが、沈着な彼をして昂揚感を抑制させきれずにいたのだ。

 くっ。私ともあろう者が。

 成木は苦笑したが、最土の身体に馴染んでくるにつれて、じわじわと判ってくる集団転移の全貌が、厭が上にも彼を上気させてゆく。

 この力、渡せるかよ。


 そこに、電話がかかってきた。はっと我に還った成木がそれに応対する。

 それは受付けからの電話であった。

 その内容を聞くうち、ゆっくりだが、成木は最土の表情に笑みを湛えさせていった。


 通話を終え、受話器を置いた彼は、ドアに向かって歩み始めた。

 私の運、尽きてはいないようだ。



 何気ない風を装って、クールは再度病院に入り込んでいた。今度は先程とはうって代わって病人を装っている。

 待合いのホールでポロシャツをだらしなく着込んで、痛そうに胃の辺りを押さえるさまは、確かに病人そのものではある。が、時折放つ視線はやはり、常人にはない鋭さを放っている。

 既に彼らは最土の研究室への包囲陣を敷き終えていた。後は作戦通りに奴を誘拐するだけだ。

 機は熟したな。

 彼はゆったりと立ち上がって所定の行動に移ろうとする...。


 その時だ。彼の視線の先に、エレベーターから出てきた最土を見たのは。

「!」

 彼は最土の格好を認めて少なからず驚いた。白衣ではなくしかも鞄を持っているその姿は、他の棟で医療行為をするために降りてきたのではないだろう。

 帰るのか。受け付けの女は三十分と言っていたが、まだ五分も経っていないぞ。

 クールの戸惑いをよそに、彼の脇から子供連れの女性が最土に近づく。

「仕事が早く終わったのよ。たまには外で食事でもと思ったの。」

 読者とクールに判るようにその女性は最土に向かって言った。最土は小さく手を挙げて了解の意を示す。


「パパー。」

最土の娘、園子は、小さな手を広げながら、もう待ちきれずに走り出した。彼女は父親のたかいたかいが大好きなのだ。

 園子は最土に走りよった。彼女の中にはジャンプする自分の姿が映じているだろう。そして彼女が今にも飛びつこうとした瞬間。

「!!」

 園子は壁にぶつかったように立ち止まった...。

 彼女の中の何かが立ち止まらせたのだ。

 えっ。彼女は自分の為した行動が理解できない。

 だが彼女がそれを反芻する間もなく、園子は最土に抱え上げられていた。

「園ちゃん、元気だったかい。」最土が顔をほころばせて言う。


 たかいたかいをするそのさまは、幸福な親子そのままだ。

 そこに生じた針の穴ほどのぎこちなさを、園子以外にも感じとったのは、もう一人の男だけだった。

 園子を抱きしめた肩越しに、自分の方を向いた最土と一瞬目が合った時、クールは確信した。

 成木黄泉!

 クールに気付いたのかどうなのか、最土の笑みがほんの少しだけ種類の違うモノに代わった...。



 ちぃっ。

 焦燥する対象が成木からクールに180度入れ替わった。

 クールは自分が先を越されたことを思い知らされたのだ。

 奴が先に来ていたとは...。

 いつ騒ぐかもしれない子供が一緒である以上、クールの病院内での誘拐計画は頓挫してしまったに等しい。クールは怒りが心を占めてゆくのを感じる...。後一歩の所で、獲物は彼の眼前をすり抜けてゆくのだ。

 妻子が早く来るのが偶然の誤算だとしても、彼の怒りは鎮まるはずもない。成木に完全に出し抜かれという想いが、更にそれを助長する。

 奴め、どうするつもりだ。

 クールは、成木の次の手を推し量りかねたため、娘を抱えたまま歩く最土とその妻に気取られぬ程距離が開いてから座を立った。そして三人の後をさり気なく尾けだすと、左手に付けた腕時計型の無線機で指示を出した。

「俺だ。最土が病院を出た。ミンとエルヴァは研究室を探れ、アインは俺と奴等を追うぞ。」

 最土一家が、妻の乗ってきた車に乗って病院を後にする。

 すぐさまクールも車に飛び乗った。待機していたアインが敷地内に乗り入れてきた車だ。

「ジャッカーめ。このまま逃げられると思うなよ。」



 二人に減ったか。随分助かるな。

 最土の中にいる成木は、バックミラーの中につかず離れず尾いて来る車を見て思った。

 もうすぐ本当に二人になるぞ。彼は内心ほくそ笑んだ。



「ここだ。」

白衣を着た男がもう一人の白衣の男に呼びかけた。

 再び病院の中。最土の研究室の前の廊下。

 二人とも白衣を着てはいるが、その衣装に隠せないほどの鍛え上げられた肉体を持っている。クールが病院に戦力を裂いた戦士、ミンとエルヴァだ。

 彼らの目的は言うまでもなく、最土の研究室の捜索。部屋を探り、人工転移その他の資料の奪取だ。

 多人種が混交するのが当たり前になってきた日本において、二人が白衣を着ていたとしても、今更特に警戒する者もないであろうが、それでも彼らは警戒を怠らず、出来るだけ人に会わないようにしてここまで辿り着いた。

 二人は隠していた銃を出してその手に構えると、ドアの両脇に陣取った。そしてノブに手をかけ...。

 彼らの不幸は、ほんの十分前までその部屋に、成木がいたことを知らされなかったことだろう...。



 だが後ろの二人はどうする...。研究室に仕掛けたトラップの効果を疑いもせず、成木は次の手を考える。

「ねぇ、こっちじゃ家に帰っちゃうじゃない。食事していきましょうよ。」最土の妻が不機嫌さを含めて言った。

「悪いが、今日は気分が悪いんだ。今度にしてくれないか。」考えを止められた成木は、それでも辛うじて怒気を押さえて答える。

「いやよ。私今日は家事をしたくないのよ。」

彼女も食い下がる。最土の知識に、妻の我侭さへの放任を読み取って、成木はうんざりした。最土にも少しは同情するな。大センセイの娘というだけで...。


 車の前列のそんな会話を聞きながら、後部座席に座っている娘の園子は、その幼い心を不安に満たしていた。

 彼女は思い出していたのだ、さっきの病院のロビーでの自分の行動を。

 どうしてあんなことしたんだろう。彼女は己を襲った得体の知れない想いに困惑するばかりだ。

 なにもかもいつもと同じなのに...、いつもと同じなのに...。高い高いしてくれた時も、自分に顔を近づけたときに感じるお髭の感触も...。

 でも、笑いかけてくれるその顔は...、いつもと違うの...。



「出たわ。約三十分。」

原尾は大野に向かって言った。大野の車に付いたカーナビに最土の家の位置をマーキングして、病院からの所要時間を計算させたのだ。

「三十分か、ギリギリだな。」

大野はその額に汗を浮かべて呟いた。成木があれからすぐに車に乗ったとしたら、もう家に着いている頃だ。最土の家族すら救えないようでは俺は...。

「最土の家族は何人だい。」

不安を忘れようと大野は尋ねる。

「最土氏と奥さん、それに五歳になる女の子がいるわ。あと、猫を一匹飼っているわね、黒猫。」原尾は携帯無線機で警視庁にアクセスした結果を読んだ。

 どうしてペットのことまで判るんだ。大野は驚く。警察はひょっとして俺のパンツの枚数まで知ってんじゃないのか。

 まぁ、そんなことはどうでもいい。

「三人家族か。何とか間にあってくれ。」



 明らかに現時点でのイニシアチブは成木が握っていた。それがわかるだけに、成木の操る最土一家の車の後を追いかけるクールの心中も穏やかであるまい。

 焦燥について言えば、大野、成木、クールの三人の中では、クールが一番身近に感ぜられるのではあるまいか。

 クールの身体を構成する強化細胞は、先に書いたように、爆発的な体力と引き替えの短命さを欠点としている。全身を薬液に浸して延命する事が出来なくなった彼にとって、全身を不意に襲う激痛の、次第にそのサイクルを短くしていることが、己自身の命を刻む時計そのものなのだ。

 余命を賭して希求する力は、未だその手に出来ず。

 彼にとっての異国の街を、いつ何処に着くともなく走り続ける車を追いかけているこの瞬間にすら...、

 彼の時間は消えてゆくのだ。



「ねぇ、Uターンしてよ。」

まだ自説を曲げぬ最土の妻に、成木はもう一度諭した。

「頼むよ。頭が痛いんだ。家で休ませておくれ。」

 いつになく強気な夫の態度にしかし、彼女はヒステリーを起こした。

「なによ偉そうに。最近ちょっとちやほやされたからっていい気にならないでよ。あんたなんか私と結婚しなかったら...」

 園子が聞いた母親の声は突然そこで止まった。彼女には、父親がふと伸ばした左手が母親の額に触れた瞬間に、その声が止んだように見えた。

「ママ。どうしたの。ねぇ。」

園子はおそるおそる聞いた。だが、母親の答えは。

「どうしたの園子。おとなしく座ってなさい。」

あまりにも平然としたその物言いに園子は身体をぶるっと震わせた。

「マ...マ...。」

 父が振り返る。

「そのちゃん。すわっていなさい。」

 その目を見たとき、園子は全てを悟って凍り付いた。父のはずのその男は、昏く殺意に満ちた眼差しを湛えていたのである。

 恐怖が園子の口をこじ開ける。その呟きは、彼女にとって残酷極まりない事実を語った。

「パパじゃない。」



 瀟洒な住宅が続く街の一角で、クール達の車は停まった。そこは、つい今しがた最土親子の乗った車が入った家の脇だ。

 午後のその時間、辺りには丁度人通りが無くなる。彼らの車がそこに停まっても、まだ一人の通行人も見ていない。

 それが警戒心を緩めたわけでもあるまいが、窓を開け放って、クールはその家をしげしげと眺めた。いつの間にか、クールはミリタリールックに着替えている。

 低い塀に囲まれた狭い前庭には、彼らが追ってきた車が、エンジンのくすぶった音をまだたてて停められている。その奥の建て屋はさほど大きくはない二階屋で、鉄筋の白壁が午後の日差しを眩しく反射している。そしてなにより、玄関に付けてある表札には、”最土”と書いてある。


「まさか、堂々とMODOの家にくるとは思いませんでしたね。」

アインが呆れて言った。最土をジャッカーが乗っ取っていたのなら、明らかに自分達のことは気付いていたであろうに、道中撒こうとする素振りすら見られなかったのだ。

「それだけ奴も急いでいるという事か。」クールが答えた。「それとも、俺達を倒す自信があるのか。」

 あるのかもしれんな。クールはふとそんな考えがよぎった。家の中には間違いなくあのジャッカーが罠を張っているだろう。

 二人は無言で銃を手にし、各々弾創に弾が溢れていることを確認した。それでも足りないと思ったか、アインは後部席に手を伸ばすと、大きなケースの脇にある小さな箱を引き寄せた。開け放たれた箱は弾薬が山と入っていて、アインはその幾つかを胸のポケットに無造作に入れた。

 黒猫が、塀の上からそれを眺めている。

「行くぞ。」一瞬の後、クールの声が静かに、戦闘の開始を告げる。


 先制攻撃は意外なところから来た。

 クールが車のドアを開けかけたとき、窓から何かが入り込んできたのだ。

 彼はそれを無意識に避けた、は良かったが、それが点火したままのライターだと認識して愕然とした。それは弧を描き、アインが今さっきシート脇に置いた箱の中に入る...。

「出ろ! アイン!!」


 クールがドアを開けるのと、爆発は殆ど同時だった。

 バン!!

 彼は爆風を背に受けて塀にたたきつけられた。

「ぐぅっ!」

思わず音を上げるクール、背中をしこたま打ちつけたためだ。それでも彼は、何とか体勢を立て直して車の方を向く。

 車は爆圧で屋根をも吹き飛ばされた状態で燃え盛っていた。アインは車の脇に逃げ出すことには成功していたものの、服の中の弾が暴発し、腹部を抉り取られて転がっている。

「......。」

クールの無言は、普段の彼からすると意外なほど長かった。彼は自分が遂に一人になったことに、どこかで気付いていたのだろうか。

 しかし彼は次の瞬間、塀の方に素早く向き直り、振り向きざまに塀上に銃を撃つ。

 ギン! 黒猫が一瞬早く家の中に逃げ、弾は塀を削って空に舞う。

 あの男、猫に転移してきたのか。クールは、プリンスホテルで息の根を止めたはずの成木がどうして生きていたのかが薄々判った。そして同時に、今回の事件を舐めていたのは、自分の方であった事を思い知らされた。

「ジャッカー!!」

クールは塀に向かって叫んだ。



 クールはゆっくりと最土家の門を過ぎた。だが、いったいどんな度胸をしているのか、いつ襲ってくるやも知れぬ罠を前にしているのに、彼はまだ手にした銃を構えようともしていない。

 だが実際のところ、彼の大胆さには根拠があると言わねばならない。クールの落ちつきは、自分がまだ狙われていないことを感じとっていることにあるからなのである。

 クールの表情は今、これまでに増して無表情になっていた。それは、彼が全神経を外界に向けて解放している事を示すものだ。もし彼をよく知っている者が見たら震え上がるだろうその状態は、実はクールが最も戦闘の才を際だたせる時のそれなのだ。

 クールがこれまで数多の戦地、幾多の死地を何度となく切り抜けてこられたのは、己の感覚を究極まで研ぎ澄ますことで、自身に注がれる殺気をいち早く察知する能力を身につけたからだったのだ。そしてその能力は、人体能力を活性化させる人工細胞の身体を得たことによって、人間の感覚を遥かに凌駕するまでになっているのだ。

 クールは玄関ドアを大胆に開け放った。してみると、彼のセンサーはまだ己をつけ狙う敵を感知していないようだ。

 クールはフローリングされた廊下に土足で上がり、奥まで続くその廊下をゆっくりと歩く。彼の足音の微かな声の他は、遠く街の息づかいしか聞こえない。

 ふと、彼は左側にドアを位置して立ち止まった。その部屋は玄関脇に面した応接間だろう。彼の腕は自然銃を持ち上げてゆく。

 クールはドアに銃を向け、慎重に狙いを付けてから一発放った。


 バン!

 クールは発射後すぐにドアを蹴破って部屋に入る。そして何よりもまず銃を突き出す。

 部屋は十畳程の洋間で、ソファやら書架などが整然と配されている。左には玄関からも見えるガラス戸があり、右には奥の廊下に通じるらしいドアが付いている。

 ドアから見て一番奥の壁に、女が凭れていた。最土の妻だ。両手で銃を構えているが、みぞおちのど真ん中に壁向こうが見えるほどの穴を開けている。

「ぐはっ。」

最土の妻は血を吐いて膝を屈し、もんどりうって倒れた。

 即死だ。

 ロシア流れの銃か...。女の手にした銃を見てクールは即断した。なまじ俺に殺気を向けたことで無駄死にしたな。

 クールがそこから視線を外そうとしたとき、女の銃に手を伸ばす何者か...。

 ダダダッ。ソファの後ろを這っていく人影、最土だ。

 ジャッカーか。それと認識するや、クールはソファごと最土を撃つ。

 ぐっ。弾け飛ぶソファの破片越しに、またも短い悲鳴が漏れる。最土はたまらず、クールから向かって右手に逃げ出し、奥のドアから部屋の外に出た。クールが発射した弾丸が後を追う。

 クールは急がない。ドアの横に成木の影を見ているからだ。彼は素早く銃のマガジンを入れ替える。

「き、貴様...私の位置が見えているのか。」壁越しに最土が叫んだ。流石の成木も驚きを隠せないようだ。

「おう。お前が座り込んで横っ腹から血を流している事も判るぞ。」クールは姿を見せぬ相手に言い放った。「だが俺は見ているんじゃなく、感じているんだがな。」

 計算が違う。クールの声を聞く成木は混乱していた。あの男の...クールの攻撃力が、先回とはまるで違う。

「仲間がいなくなったんで久しぶりにこの状態になれた。」まるで成木の心を読んだかのようにクールは言う。「殺人を最優先にするから、少しハイになってるんだ。感謝するぞ。」

「じょ、冗談はよしたまえ。君は人工転移の力を欲しているのだろう。この最土を殺しては手に入らないぞ。」

「そんなことはない。」嘲笑気味にクールは言う。「そんなことはないよ。俺はただ、あんたの首さえあればいいんだから。」

 クールが最土の居場所を突き止め得たのは、おそらく死んだはずのギルバートから何らかの方法で情報を聞いたからだろう。それが察せられるだけに、クールが発したセリフの信憑性には疑うところがない。成木は震え上がった。

 生死を問わずということか...。殺されるな。


 成木はドアの脇から不意に半身を出して、死体から奪った拳銃を撃った。だが、そんな闇雲な攻撃に対し、クールは既にそれを察知し、正確に狙いを澄まして反撃する。

 結果は明らかだ。最土の右腕は二の腕からもぎ取られ、最土と共に廊下に転がる。

 最土の頭がクールから見て無防備に曝された。クールはその首の付け根に狙いを付ける。

 最土...いやこのジャッカー...。何故笑みを浮かべている?

 クールは狙いを一瞬中断して視線をずらす。最土は左手を伸ばして右腕を掴んでいた。その右腕に握られた銃の狙いは、正確に彼の眉間に付けられている。

「!!」

クールは思わずしゃがんで攻撃を避ける。弾はミリ秒前まで彼の頭のあったところを通り、天井で跳弾して外に過ぎた。

 今だ。成木は慌てて半身を起こすと、廊下の先に飛び退いた。そして音からして、地下室への階段を転がる様にして降りたようだ。


 一瞬の間をおいて、地下への階段を前にするクール。手にした銃のグリップが悪い。緊張による発汗のためだ。クールといえども、今の攻撃に驚嘆したということだ。

 床に銃を固定して一撃必殺を狙ったか。クールは思う。だがそのために利き腕を捨てるとは...。このジャッカー、いや成木黄泉...。

 狭い地下への階段は、セメント壁むき出しの粗雑な造りで、とてもプロの仕事には見えなかった。最土から流れ落ちた血が紅く染めたそんな階段を一歩一歩、クールは降りてゆく。

 成木が、腕一本を犠牲にしてまで、逃げ場のない場所に行く以上、そこに罠があることは間違いあるまい。

 地下室は階段左手に位置し、踊り場に淡い光を漏らしている。クールはその光の直前、最後の階段で足を停めた。地下室は妙に暑い。彼は額に滲みだした汗を一回拭ってから、銃を構えて気を飛ばす。何の目的の部屋か、アルコール系の薬品が匂う。これに嗅覚が遮られるため、感覚が散乱して敵の位置が定まり難い。とはいえ、成木が隠れていないことは察せられる。

 何を企んでいるにせよ、いい度胸だ。だが俺が一瞬でもあんたの姿を認めれば、あんたが何をしようが即死させられるんだぜ。

 クールは三つ数える。1,2...。

「3!!」(筆者注。”スリー”って読んでね。)

叫びざまクールは地下室の入り口に飛び降りるや、銃を室内に向ける。

 仄かな照明にもしっかりと判る人影が正面に...、最土だ!! クールが電光石火に行動したせいか、最土は呆然とクールを見つめるばかり...。

 俺の勝ちだ。クールは心中叫んで引き金を弾く。

 バン!!

 クールの大型銃から発射された弾丸は、最土の胸のど真ん中を正確に貫いた。


「!!」

クールは一瞬目を疑った。最土の顔面に一直線に亀裂が走ったからだ。

 それが鏡だと判断するのに100分の5秒。だがクールは、次の攻撃に移る前に最土と...いや、鏡に映った最土の中の成木と目を合わせてしまった...。

 最土が笑う。ヒビの入った鏡の中で、それはシュールな絵の様に奇妙なレイアウトをとる。

 う、動けん...。クールは己に起こった変化に気付いた。

 そんなクールの動揺を見て取ったように、ピカソな口が彼に語りかけた。

「催眠術だ。どうかね、気分は。」


 地下室は四畳程度と狭く、嗅覚を遮断していたアルコールなどの薬品類は、しまいこまれているのか、見あたらない。寧ろ、パソコンが置いてある机や書架などがあり、研究室の印象が強い。そんな部屋の真ん中に、割れたガラスを背にした最土が立っている。

「ここが最土の研究室だ。ご苦労なことに自分でこさえたようだよ。頭の上がらない婦人から離れた場所が欲しかったのか。まぁそんなことはどうでもいいが...。」成木は動けないクールに向かって話を続けていたが、次の一言だけ口調が変わった。

「奴はこんな蒸し暑くて陰気な部屋に閉じこもらなければ自分が許せなかったのかもしれないな。」

 妙に同情的なその言葉は、過去の常盤との付き合いが去来したか...。

「彼はここで悪魔の研究に再び手を染めたのだ。」再びクールに向かう言葉に、最早弱さはない。「君の求めている人工転移と、私の求めている集団転移の研究にね。」

 クールが僅かに反応した。

「ふふ。気になるようだね。そうでなくては面白くない。」

「?」

「疑問があるようだね。何故私が君にこんな話を聞かせるのか...。いや深い意味はないよ。私は君の間違った行動を訂正したかっただけでね。」

 最土の中の成木も昔は学者だった男だ。話し方が妙に説明的になる。

「いいかね。君は最土の頭から全ての情報を引き出せるつもりでいたようだが、それは大変な誤解なのだよ。

「研究とは一般に言って、理論と証明とから成ることは判るだろう。ある研究の完成度を上げるには、思考実験のようなものは例外として、何らかの実験をし、データを蓄積しなければならない。実証学的なきらいのある医学ではそれはなおさら重要だ。計算式ではメスは握れないからね。

「転移心理学もそのように、実験で次第に理論を固めてゆく点ではやはり医学に準ずるのだ。つまり...」

 成木はクールに近づき、強調した。

「理論のみ入っている最土の頭だけでは、君の願望を充足する事は出来ないのだよ。」

 成木はクールの前に黒い板切れをかざして見せた。

「彼のこの部屋の研究成果の入った、この光ディスクがないとね。」


 クールの眼が怒りに燃えだした。

「ほう。分かりましたか。私が君にこんな話をしているわけを。」

「俺に...見せびらかすためだ。」

「そうそうそう。その通り。」施術されながらも洩らしたクールの必死の言葉を、成木は心底喜んだ。「君は自分の夢を目の前にしてそれを得ることが出来ない、全てを失ってまで追い求めた願いを叶えることが出来ない、何故か。」

 成木の喜悦はここに極まる。

「私が掠め取ってゆくからだよ。」

 クールが口から血を滴らせた。怒りで奥歯を噛みしめすぎたのだ。

「無駄だよ。陥催眠剤であるイマジノールの中で、私が術を掛けたのだから。」

 原尾や馳が一歩も動けなかった成木の催眠術は、脳細胞の活動を緩和させる働きを持つ薬品であるイマジノールを使うことで、効果をいや増すのである。

「プリンスホテルでも、今でも。君は私に恐怖と屈辱を与えた。ならば、私が君に同じ程度のお返しをして上げないと失礼というものでしょう。

「欲しいものが目の前にあるのに、その価値が分からないなんて惜しいじゃないか。そして、それが手に入らないものだと分かっているのなら、なおさら詳しく説明して上げなくてはと思うのは最早人情というものだよ。」

 筆者はそこまで根性悪くないので、念のため。


 成木はゆっくりとクールの脇を通り過ぎざま、彼の耳元で言った。

「催眠術というのは、普通は自分に危害を及ぼすような命令には無意識に反対できるものなんだがね、私のは特別製なんだな。何せ元転移療法士なもんで、被術者の精神の弱い部分は見ただけで分かってしまう。だからこんな風に言っても通じてしまうのだよ。」

 その声は、凍るほどに暗く...。

「自殺しろ。」

 クールを踊り場に残し、成木はゆっくりと階段を上ってゆく。クールがどうやって死ぬかを想像しながら。


 クールは身体の何処からか湧いてくるあらがい難い衝動と闘いながら、その身を震わせていた。

 衝動。言うまでもない。死への誘惑だ。

 自分の右腕がゆっくりと、手にした銃を持ち上げていく。それを彼は停めることが出来ない。みるみる沸きだす額の汗も拭えないまま、カッと見開かれた眼でそれを眺めるしかない。

 安楽。消滅。終息...。死に奉ろうイメージの群が、闇の奔流となって彼の脳裏に囁きかける。だが、術中にはまった彼にあっては、その言葉は甘美な響きを持って織りなされるハーモニーにすら聴こえるのだ。とはいえ、よしんばそのメロディに流されてしまえば、行き着く先は黄泉の世界だ。

 クールの幽かな理性は、なんとかしてこの場を乗り切る手段を思いつくことに必死になっていた。

 脚を撃ち抜いて、激痛で催眠を解くか。指...引き金を弾く人差し指の一本でいいから動かせないか...。

 彼は精神を腕に集中して、動きの制動を試みるが、その動きは全く停まることはない。だがそれは当然であろう。成木が敵に対して背を向けているのだ。その姿勢は自分の攻撃に絶大の自信を持っていることの証なのだ。

 クールが確実に死ぬという、絶対なまでの自信。

 そんな成木に取り残されたクールの腕は、手にした銃を己の左胸に突きつけた。

 心臓に。

 だがクールはまだ諦めてはいない。無意識の底にある、絶望という名の刻印は、この状況に於いても尚、彼の胸を覆い尽くせないでいるからだ。

 バンッ!! 銃声はしかし、容赦なく地下室に響きわたった...。


 成木はその銃声を、階段を上りきったところで聞いてニヤリとした。

 クールはもう死んだな。

 後はもうここを去るだけだ。あいつが来る前に...。

 大野はきっと来る。奴が来たら厄介だ。彼の思いは既に次の敵に飛んでいた。

 しかし、彼が玄関に向かうために居間を抜けようとしたとき、つと、女の死体の前で足が動かなくなった。

 ちっ。嫌っていたくせに。妻の死が悲しいか。成木は心中、最土に悪態をついた。

 被転移中といえども、依童は己の見たもの聴いた音を認識しているのだ。最土の無意識に届いた自分の妻のショッキングなイメージが、最土の身体を硬直させたのだ。

 成木は最土の身体制御の回復にかかる。無意識からの指令をシャットダウンし、成木自身の意識をその統御に割り込ませるのだ。彼ほどのジャッカーには、それは造作もないことではあるのだが...。

 そこに費やした時間、劇的な戦いを避けるには、些か長すぎたようだ。


 成木が再び最土の制御を回復し、その身を玄関に向かわせたときだ。彼はけたたましい音の発せられたすぐ後に、背中に激痛を感じてそのまま壁に叩きつけられた。

 な、何だいったい...。成木は、突然起こった衝撃の原因を、それでも何とか突き止めようとして視線を巡らす。

「!!」

 成木の驚愕。彼の見たもの。

 居間への裏からの入り口扉の横に、クールが立っていた。



「この先か!」

 大野のタイヤが何度目かの悲鳴をあげた。

 彼らの乗る車の走っている街、雰囲気からして最土の自宅のある街とそう離れてはおるまい。もう少しだ。

「主役そっちのけで目立ちやがって。章のタイトル変えなきゃいかんだろうが!!」

「何言ってるの。」原尾の疑問ももっともだ。



 最土の左肩の肉を丸ごと取られた成木は、何とか身構えて立ち上がったものの、その顔には信じられないといった感情が浮き出ている。彼は思わず叫んだ。

「いったい...。何故生きているのだ!」

 成木の驚きは無理もない。彼の術中で自殺を強要されれば、確実に即死できる方法をとるはずなのだ。そしてそれが実行されたことも間違いない。

 何故なら、クールはその心臓から、服を染めるほどの血を流しているではないか。

 クールは左手で胸を押さえ、しかも戸口の柱に寄り掛かってではあるが、右手で構えた銃口はしっかりと成木に狙いを据えている。

 クールは、成木の驚きに少し心を動かしたのか、その唇を開いた。

「俺自身...人工細胞の身体の心臓が、この位置に無いことは知らなかったのさ。」

 人にとって、心臓のあるべき位置に手を当てながら、彼は言った。その響きには、どこかしら寂寥が篭って...。

 豹と化した河合の突きが胸を貫いても生きていたわけだ。クールは苦笑いをしつつ思う。

 俺は死なない...。あの時も今も...死ねない...。

「人と違う...。思い知らされたよ...。」彼の一瞬の呟きは、彼自身の心に染みてゆく。

 しかし、クールの次の言葉には、再び殺気が入っていた。

「俺は貴様のおかげで自分が何者かを知った...。この礼はするぞ。」

 クールがまた一発撃った。最土の右肺をそれは貫通する。

 ぐっ。血を吐きながら、成木はまた立場が逆転したことを思い知らされた。こうまでダメージを喰らった以上、自分の憑いている最土はもう長くは無いだろう。この男の頭脳を、それでも惜しいと思えばこそ今まで憑いていた成木だったが、今となってはそうも言っていられない。どのみち集団転移は、成木自身が最土の脳を探り回って得た情報と、胸にあるディスクをもってすれば、充分解析可能なのだ。となれば手は一つ。

 奴に...憑く!

 プリンスホテルの地獄絵図を再び展開するつもりだ。成木は最土の目に敵意を漲らせてクールに突進する。

 彼は更なる弾丸が自身に撃ち込まれるのにも構わず、クールの首に手を伸ばした。

 転移?

 一瞬で、しかしクールは彼の視界から消える。直後、成木は凄まじい衝撃を受けて吹っ飛んだ。そしてソファに当たって一回転、書架に叩きつけられる。

 成木は自身がクールの拳にカウンターにあったことは何とか理解したが、その時には既に眼前にクールを見留めている。

 逆さまになった成木はそれでも、次のクールの拳が繰り出されるところを再度転移を仕掛けようと狙う。が、今度クールが攻撃したのは脚だった。成木は横殴りに蹴り付けられ、またしても壁にぶち当たる。

 それに暇を全く与えず、クールは銃を二連射する。弾丸は最土の両足を貫いた。


 は、速い...。成木はボロボロになった最土の体の中で舌を巻いていた。とてもじゃないが、転移している時間がない。こいつ、本当に怪我をしてるのか。

 両足を奇妙な角度に向けて座り込んだ最土を見留めて、クールは次の攻撃にワンテンポを置いた。銃口を最土の胸の中心に据えて語りかける。

「ホテルでの惨敗から、俺がなにも得ないと思ったのか。お前は転移するために、コンマ3秒程の間相手に接していることが必要なんだよ。となれば対処は比較的簡単だ。遠隔攻撃か、高速連続攻撃が有効って事だからな。」

 成木は愕然とした。自分の転移に必要な時間を、勿論彼自身は知っていたものの、他人が、しかもたった一戦交えただけの男に見抜かれるとは...。彼はクールという男の評価を低く見すぎていたことを今更に後悔した。

 このままでは殺られる。成木の脳裏に死期が閃いた。クールは、死んだ最土の頭を持っていって命を吹き込む手段を持っているのかどうか知らないが、もしそうなっても私の意識が残っている保証はない。

 少なくとも、己の命は消えているだろう。

 その時、成木の心に浮かぶものあり。

 消える...残留...?

 何だ...? こんな時に湧く不可思議なイメージに、成木は戸惑いを隠せない。

「今度は俺が言う番だな。」そんな成木の心を余所に、クールがニヤリとして言った。

「死ね。」


「動かないで!」

クールの持った銃はしかし、突然の声によってその発射を止められた。

 クールが声のした方に視線を向けると、今さっき二人が入ってきた居間の裏口側の入り口に、最土の娘の園子が立っていた。幼いその手に銃を持ちながら。

「パパを殺さないで。」

園子はもう一度叫んだ。

 確かにパパはいつものパパじゃないが、パパであることに替わりは無い。

 だからパパは私が守る。彼女のそんな小さいが固い決意は、クールという怪物をも止めた。震えるその銃口は、それでもしっかりとクールの頭に据えられていたからだ。

「ふふふ。私が丸腰だったことがおかしいと思わなかったのかい。」成木は心中意外な展開に感謝しつつクールに語る。「その子はね、地下室に隠れていたんだよ。見上げたもんじゃないか、ジャッカーにのっとられた親を救いに来るなんて。」

 クールはしかし、微笑んでいる。

「おいおい。これで今の状況が好転したと思ったら大きな勘違いじゃないのか。

「お嬢ちゃんがあの細腕で撃てるのはせいぜい一発、それも撃った瞬間に反動で両腕を折る。もし俺に当てなければ二人ともそれで終わりだ。」

「ふふ。だからまだお嬢ちゃんは撃ってはいないだろう。」

成木は言った。つまり、ひとまず戦況は膠着したということだ。


 座り込んでいる最土、それを狙うクール、そして、そのクールを狙う園子。

 三人の中で、意外にもクールの反応が思いの外大きい。うそぶいていると言うより、動揺が大きいのだ。そして、成木がそれを見逃すはずがない。

「やはりね。」成木が口を開いた。「思いの外、上手くいったようだ。」

「どういうことだ。」クールは、今度は確かに動揺している。

「私がその娘を生かしておいたのには理由がある。すなわち...、

「君は子供は撃てない。いやもっと言えば...、

「撃たせたくない。」成木は小さいが、確信をこめた声でそう言った。

 成木がクール隊にジャックしたときに得た情報の一つに、クールの過去の戦績のそれがあり、クールには仲間には語らないものの、子供に関して微妙な感情があるというそれがあった...。

「貴様。」クールは歯がみした。的を射られたことが悔しいのだ。確かにクールは、娘が手にした銃を撃つことでその腕を折らせたくないと思っていたからだ。

 俺ともあろう者が...仏心か?

 彼の殺した少年少女は、彼が思った以上に、彼に深く入り込んだようである。


 思わぬ膠着が続く。

 気を抜くわけにはいかない。成木は次の手を必死に考えている。何せ自分は出血多量で間もなく死ぬ最土の中にいる。持久戦は不利だ。園子の銃を持つ手も苦しそうだ。だがそんな彼を更に絶望させているのは、クールの胸の血が既に止まっているという事実だ。人工細胞の恐るべき治癒力!!

 時が経つほど不利になる...。血の気が引いていくように感ぜられるのは、絶望感が出血を助長しているからでもある。

 どうする。このままでは、あの男まで来てしまう...。

 その時だ。成木をしてクールと同じくらい厄介な、”あの男”が現れた。

 大野が来たのだ。



 逃げ切れるか、成木。

 その首を取れるか、クール。

 そして、二人の野望を挫けるか、大野。


 大野は最土家の玄関が開いているのを見て、車が止まるか止まらないかのうちに飛び出して、走り込んできたのだ。

「最土さん。無事か!」

 そう言って居間に飛び込んだ大野だったが、返答には三発の銃弾が還ってきた。

「わわわ。」

壁に開いた穴の大きさに、クールの銃だと判断した彼は、慌ててソファの下に隠れる。

「マキちゃん来んな!!」

 眼前の壁にボコボコと穿たれていく穴を見た原尾にしてみれば。

「頼まれても行くもんですか!!」


 女性が倒れてたな。壁の血が乾きかけてるところを見ると、残念だがもう...。踏み荒らされた児童用の絵本とその脇の人形を視界に入れたまま、大野は状況把握のために頭を回転させる。壁際にへたりこんでる男性は最土修と見た。クールとの位置関係からいって、彼はまだ生きてるだろう。向こうの入り口にいた女の子は銃を手にしていたが...。だが...、あいつは何処だ。

「クールの旦那! 黄泉は誰に憑いてる?」

「ほう。俺に憑いてると思わないところは大したものだ。」クールは苦笑しつつ、最土の方に顎をしゃくった。「死にかけたこいつに憑いてるぜ。」

 最土修にか...ということは電話したときと状況は同じ。

「で、旦那は最土さんをどうするつもりなの?」

「判りきったことを聴くな。」

「そう...か。」大野は立ち上がって、ソファの影から身を出した。「黄泉と闘うのはどうぞってとこだけど、最土さんは俺の依頼主なんでね。」

「ほう...。」クールは得心した。「俺を止めるというのか。面白い。」

 そしてクールは、園子に向かって言った。

「お嬢ちゃん。パパを殺すのは少し後にする。勝った方を殺しな。」

 園子は銃を降ろした。大野はそれを見て少し気になったが、クールの殺気が自分に向けられたことに気づき、すぐにクールに集中する。

 クールが突進してくる。大野は身構えるが、両者の攻撃範囲に入るギリギリ手前で、突然クールは銃を放った。軌道は真っ直ぐ大野の中心を捕らえている。

 逃げられない。

 ガンッ! 大野の目の前で火花が弾け、そのまま彼は後ろに滑る。

 ザザザ! 壁を背にしてようやく止まった。

 不敵に微笑んで、大野は無言で手にした銃弾をクールに示す。前にかざした左腕で受けとめたのだ。

 手で掴みやがった。クールは少し感心した。だがそれより驚くのは、俺の銃の威力を支えきったことだ。

「あんたは狙いが正確だもんな。」大野は弾を捨てた。「俺に当てるこた出来ねぇよ。」

「上等だ。」クールも脇のホルスターに銃を納める。「ではこれではどうかな。」

 接近戦にするつもりか。大野は攻撃範囲の中に入ったクールに再び身構える。そしてクールが繰り出した拳を受けとめようとする...。

「えっ!」

咄嗟に大野は身を躱した。

 拳は大野の背後の壁に大穴を開けた。読者が忘れてるといけないのでもう一度記すが、この建物は鉄筋だ。とんでもない威力だ。空けられた壁穴からの午後の隙間風が心地よい...。

 大野は冷や汗が出てきた。う、受けないで良かった。

「は、あはは。こないだは、ひょっとして手加減してくれたの?」

「良く判ったな。」

「判るわ、んなもん!」それから。大野は思った。あんたのその怪我、同情してやれる余地が全っ然、無いこともな。

 大野はクールの二撃目を避けるために横っ飛びした。しかし、全く同じスピードでクールもついてくる。そして繰り出された拳、辛うじて大野は躱せたが、なんと袖の辺りが切れた。

 速い上に、鋭い。

 そして掠った。だけで、大野は吹き飛ぶ。

 ついでに重いときてる。書架にぶち当たりながら、彼はクールと闘おうとしたことを早速後悔した。これだからプロとやるのはやなんだよ。


 原尾は玄関の脇に潜んで中の乱闘を伺っていたが、今はとにかくどうすることも出来なかった。中の二人は既に常人の戦い方ではない。助けに行きたくても、寧ろ足手まといになるだけだろう。

 しかし、大野は確実に追い詰められている。パワー対パワーでは勝ち目は無いだろうことは、プリンスホテル地下の二人の攻防を幽かに記憶している彼女にとって、火を見るより明らかだ。そしてなればこそ、それは我が事のように身に詰まされる思いなのである。

「大野さん、真っ向から闘っちゃ駄目よ!」


 原尾の叫びは聴こえたか。

 判ってるよ。大野は書架に小さく八つ当たりすると、首筋に繰り出されたクールの拳を躱してクールの脇をくぐり、床に手を突きつつすり抜けた。

「こいつ、ちょこまかと。」

クールは悪態をついて大野に襲いかかる。大野は再び回り込んで何やら引っ張る。

「それっ!」

 うっ。短い言葉と共にクールはもんどりうって倒れた。

 大野が何かの電気製品のコードを使ってクールの脚に巻いたのだ。引きちぎられたコードの先は、銅線がむきだしになっている。

「で、これをこうすると。」大野は手にしたプラグの先をコンセントに差し込んだ。クールの身体に電流が走る。

「ぐっぐぐぐぐぐ!」クールがたまらず呻吟する。

「よし。」これで少しは体力削れるだろ。大野とて、クールがこれで参るとは全く思っちゃいない。

 流石のクールもこの攻撃はきつい。こ、このままでは...。クールは銃を再び手にすると、無我夢中で大野に向けて乱射する。側のガラス棚には当たるが、大野には当たらない。

「無理無理、当たんないって。」

大野は余裕で避けるが、棚の上の置物が頭に当たる。痛っ。

 そして、割れた巨大なガラス片は、鋭利な刃物となって床に落ち、コードをギロチンの如く切断する。すぐさまクールは脚のコードを引きちぎった。

「うわーもう解かれちゃったの。」大野は頭をさすっている。「だけどこっちがあるもんね。」

言うと、今度は別の紐を引いた。それはピンと張ると、さっき大野がぶち当たった書架まで繋がっていて...。

 書架はまだ体勢を立て直していないクールの頭上に襲いかかった。見るからに重そうなそれは、雪崩をうってクールを潰す。


 少しは時間が稼げるだろう。大野は部屋の奥を見た。なんとか最土氏に生きてもらわないと、あの子のためにも...。ついでに、俺の借金返済のためにも...。

 これだけの攻撃を仕掛けたのだから、大野の一瞬の隙は無理もないが、クールがそれを見逃すはずもない。大野がふと目をやると、彼の真横に壁のように巨大で黒い物が襲いかかる。

 げっ。大野は何とか受けとめながら、それがクールの持ち上げた書架だと気付いた。

「な、な、な。」

戸惑ううちに、大野は壁まで押され、書架との間に挟まれた。

 怒りに燃えるクールの反撃だ。彼は書架越しに大野に語りかける。

「なかなかやるじゃないか、小僧。」

「そ、そんなに怒んなくてもいいじゃない。ほんの茶目っ気なんだからさぁ。」

「お前は茶目っ気で相手を感電させるのか。」クールは突っ込む。「よかろう。そのお礼に、俺はお前を今度こそピクルスにしてくれる。」

 まさかね。ははは。大野は冗談ぽく聞いていたが、書架が重くなったような気がして笑いを止めた。

 それは気のせいではなく、ずんずんと力を増してゆくばかりだ。おいおい、こんなでかい書架を押すだけで力がいるってのに、加えて俺が反対方向からも力を加えてんだぜ、それに勝る力で押すなんて...。

 大野の額に冷や汗が浮かんだのは、自分がいつの間にか左腕の力すら出しきっているという事に気付いた時だ。

 それはクールの言葉が全く冗談から出たものでないことを示すのであり...。

 つ、潰される...。大野はひきつりながら思った。


 大野とクールの戦いの中、二人の敵の攻撃の矛先からしばし逃れ得ている成木は、瀕死の最土を動かそうと懸命になっている。

 逃げる機会は今しかないことは身に染みている。だが、彼がほぼ確実に身体制御を掌握しているにも関わらず、最土の身体は既にピクリともしない。

 くそっ。動かん。

 そうこうしている間にも、最土からは多量の血流が吹き出し続けているのだ。成木が焦らないはずはない。園子に憑こうにも、クールに最後に見据えられてからの彼女は、凍り付いたように動かない。呼びつけたくても、呻き声しかあがらない。

 成木の意思は少しずつ弱まっていく。

 死ぬ...。死ぬ...。

 運命は最土の中の成木を見捨てようとしている。それはもう止めることは出来ない...。

 彼の意思はしかし、まだ物語からの撤退を欲していない...。


 力を抜いた瞬間にぺちゃんこになる。書架と壁に挟まれて、大野は今や全力で踏ん張らねばならなかった。だが時折掛けてくるクールの励ましの言葉からは、彼が一向全力ではない事を窺い報れる。

「戒名は思いついたか、圧潰院薄紙居士なんてのはどうだ。」

 お、面白く無いぞ、第一あんた何でブディズム知ってんだ。と言ってやりたいが、大野には冗談を言ってる余裕が無い。

「ぐぐ、ぐ。ぐ。」

大野は自身に迫る危機に対処するのがやっとだ。だが、それに対してとりたてて策があるわけでもなく、ただ一秒一秒生を延ばすのみであることも事実。

 腕が痺れてきた。骨が軋む。長くはもたんぞ...。大野は自分に言い聞かせる。

 どうする大野。


 クールはまたしても書架にかける力を強める。

「俺を相手にしたのが間違いだったな。」

「...馬...鹿...言うな...あんたの目論見は...俺が阻止する...。」大野も必死だ。

「フフ。」低い笑いと共に、クールの力が僅かに緩んだ。クールが書架から片腕を外したことが大野にも判る。

「阻止? 駄目だね。何故なら俺はこうすることも出来るからな。」

 バン。銃声が轟いた。大野は自分が撃たれたのかと肝を潰した。が、どれだけ待っても痛みが迫る気配はない。あれっ。じゃあいったい何処を狙ったんだ。

「!」

 大野は、書架と壁との僅かな隙間から部屋の奥を見た。そこには、大きく目を見開き、呆然として立ち尽くす女の子と...。

 首の落ちた最土の姿が...。


「ふふふ。俺は奴の首さえあればいいのだ。」クールの声が勝ち誇って言う。

 な、何てことを...。その言葉が染みてくるにつれ、大野の感情が極度に不安定化してゆく...。あの子の見てる前で、あの子の両親は...それを俺は止めることも...あの子の哀しみを防ぐことも...。

 大野の中の何かが、切れた。

「あああ。」大野が低く呻きだした。それはすぐに絶叫となる。「あああああ!!」


 突然、クールと大野の間の書架がバラバラに吹き飛んだ!

「ぐっ。なっ!」

自分が押さえていた筈の書架が消え去ったことに驚く間もない。破片を避けるため、クールは手をかざしつつ後退する。木片がその腕や身体に降り懸かる。

「何が起こったんだ。」混乱を隠せないクール。だが、そんな状態では状況把握もできない。

 大野は、いったい何をしたというのか...。

 その次の一瞬、あたりを沈黙が包み、破片の落下する音のみ響いた。

 やがて、破片の散乱が止んだとき、クールが顔の前から腕を降ろすと、

 クールの正面、書架は最早跡形もなく消え失せ...。

 大野が立っていた...。


「クール。...貴様...。」

左腕を拳として繰り出した格好の大野が、その体勢のまま震える声で言う。心なしか、髪が逆立っているようにすら見える。

「何をしたか判ってるのか。」

「ほう。」クールは治まりきらぬ動揺を隠してうそぶく。「お前には見えなかったのか。最土の首を取ったんだよ。

「そんなに怖い顔をするな。厄介な敵が一人減ったんだぞ。お前には寧ろ感謝して貰いたいくらいだがな。」

 大野の左腕の袖が変色している。同時に、焦げ臭い匂いがそこから立ちのぼり出す。

「お前は...そこにいる小さな子に...何をしたが判るか...。」

 クールが一瞬だけ眉をひそめる。氷と炎の男の中の、それは何処に触れたか...。

 俺はあの子を撃ったのではない。

 その一瞬のみで、再びクールの表情は殺気を増した。頑なな心は、既に躊躇いを呟きの中に置き去ったようだ。

 そう。確かにクールは、園子を直接は撃たなかった。それは不幸な過去達が、彼に唯一植え付けた慚愧だったか。

 だが哀しいかな、その叫びは、彼の全てに届き損ねたが故に不幸であり...。

「お前は...あの子の心を傷つけたんだ!!」

 その傷は、見えないからこそ深く、悲しい...。


 大野の叫びが、表にいる原尾に届く。

 大野さんが怒っている。また子供が発端だ...。

 原尾とて悲劇に咽んでいたが、脳のどこかの冷静な自分がまた、あの若きハンターの持つ謎を露呈する...。

 あの優しさが、敵につけ込まれなければいいのだけれど...。


 睨み合う大野とクール。

「俺は...。」大野は普段からは考えられないような敵意を見せてクールに宣言する。「お前を倒す。」

 対峙する、大野とクール! 二人の気合いがぶつかりあい、目に見えぬ雷光が弾け散る。

「面白い。」クールの意志が再び敵意に満ちてゆく。自身への敵の挑戦が、彼の心を戦人に戻したのだ。「返り討ちにしてやる。」

 二人の放つ気の衝突が起こした火花が最大の明るさを持った瞬間、大野とクールは同時に駆けた!


 駄目よ。原尾は心中叫んだ。熱くなりすぎだわ。

 力じゃクールには勝てない!


 クールの拳が飛んだ。スピードに乗ったそれは更に威力を増して大野を襲う。それはこの戦い、クールを俄然有利にする確実な先制となるはずだった。だが、意外なことにそれは奇妙な方向にそれた。

「!」

 いや、そらされたといった方がいい。クールの腕が、すっと掲げられた大野の左腕にブロックされたのだから。

 クールの腕はまるで滑るように、大野の脇をすり抜けていく。そしてバランスを崩して彼自身も、大野の背後に転倒してしまう。

 その事に、クール自身が一番意外だったのは言うまでもない。だが、彼はそれでもすぐに体勢を立て直して大野に対向する。

「うっ!」

 その時、クールは右腕に走った激痛に、思わず呻いた。

 見ると、彼の袖が捲れた右腕の内側の殆どの皮が、べろんと大きく剥がれているではないか。

 な...。これにはいっかなクールも驚きを隠せない。いったい何が起こったんだ! 大野のあの腕が原因なのか。

 困惑するも、他の理由が思いつくはずもなく、クールは眼前の男に目をやる。

 クール注視の中、ゆっくりその男、大野が振り返る...。

 クール相手に大野は今まで背中を見せている...。彼の絶対の自信をそれは示すのか。

 見ればいつの間にか、大野の左腕を覆っていた衣服の袖部分は、まるで墨のように焼けている。

「あんたの負けだ。」大野はクールに言った。同時に、袖がボロリと焼け落ちた。

「俺に触ると...、火傷するぜ。」




 火傷...。クールはその言葉に反応した。熱だ! 奴のあの熱はいったい何だ。

 クールの険しくなる表情に気付いたのか、大野はクールに言う。

「俺の左腕の核磁気共鳴電池は、俺の心臓にシンクロして制御されているんだがな。あんたへの怒りでオーバーヒートしちまった。」

 そして不敵に微笑んだ。

「覚悟しろよ。もう冷めない。」

 小癪な!

 クールは再び大野に飛びかかる。負けん気の強い彼のこと、攻撃は敢えて皮の向けたままの右腕だ。

 だが大野は一歩も動かずにそれを受けとめる。

「おおおおおおお!」

クールは絶叫した。大野の左手が掴んだ彼の右腕が焼けているからだ。肉が焼け、血管内の紅き奔流が煮えたぎる。

「がぁあああ!!」

 たまらず、クールは左足を繰り出した。その攻撃は大野の脇腹に当たり、掴まれた手もようやく放れる。僅かに繋がっていた右手の皮がちぎれ飛んだ。

 吹き飛ばされた大野はしかし、なんとか倒れずに持ちこたえた。クールの方がダメージが大きい証拠だ。

 今度は大野が攻撃する番だ。


 憤怒の炎熱を伴った破壊力のある左腕と、威力は劣るがスピードに勝る右腕の攻撃、大野はそのコンビネーションで、間断なくクールを攻めたてる。

 こ、こいつ...。クールは戸惑いと怒りに震えている。目の当たりにした事実が信じられないのだ...。当然だろう。人工細胞を纏っている無敵の自分が、パワーで押されているのだから...。

 信じられないのは、様子を窺う原尾も同じだ。何て事なの...。彼女もその瞳を大きく開いてその光景を理解するのがやっとだ。

 勝てる...? 勝てるかもしれない。原尾の期待もいきおい膨らむ。

 原尾の思いはしかし、突然蟠った小さな疑問に一瞬でかき消されてしまう。

 原尾は思ったのだ。それなら大野は、何故今までこの攻撃を取らなかったのだ...。

 そしてその疑問は演繹的に暗い結論を導く。この攻撃、大野に無理を強いているのではないか...。


 戦闘のプロであるクールも、それに気付かぬはずがない。大野の攻撃が性急なことも気になる。

 もしかしたら...。

 クールは一歩下がった。大野の攻撃は一発空を切る。

「どうしたよ。怖じ気付いたのか。」

 大野が怒りを伴って言う。だが、大野の挑発はかえって、クールの推理に裏付けを与えてしまったようだ。

 クールの表情が笑みを湛える。

「ふふ。馬鹿言うな。」

 クールはそういうと、リーチを深く取った姿勢に切り替えた。アウトボクサーのそれである。

「!」

しまった。大野は舌打ちした。これでは迂闊に近づけない。

「俺はお前の腕の電池が切れるのを待つことにした。」そう語るクールの声には、既に強さが戻っている。

 見透かされている。大野は思った。まずいとこに気づきやがったな。

 だが、ぐずぐずしてられねぇ...。

 彼がそこで思いついた手段。それは普段の彼ならとても実行はしなかっただろう程の危険な賭だった。が、自分がジャッカー達の中で、どう呼ばれているかを思い出すとき、結局やってしまうだろうことが、自分の本分だろうかとも思うのだ。

 肝を据えろよ。ピンぞろハンター...。

「流石だねえ。旦那。」大野はわざと口調を戯けて見せた。「仰るとおり、俺の腕はもう保たないよ。

「だが嬉しいよねぇ、力でも旦那に勝てたんだから。」

「何。」

「思い残すこたないよねぇ。一片の悔いなしってね。」大野は天井に指を掲げて上を向いた。

「...。」クールは無言だ。挑発に乗るか、という気持ちであろう。

「いや、でも、ちょっとだけ悔しいかな...。」

 少しだけ、大野は口調を変えた。

「だってそうだろう。

「俺が後一発当てられたら、旦那をノックアウトできたんだから。」

 クールは、軍人ではあるが、ファイターでもある。この挑発を受けないような奴は男じゃないと思うタイプ...だといいなー。と大野は思う。

 間...間...。クールの表情が僅かに変わった。それは殆ど気付かないほどではあるが、紛れもなく怒りにひきつっているそれである。

「貴...様...」クールの震える声。   そして...。

「よかろう。俺を一発で倒せるかどうか、やってみるがいい。」

 ラッキー! とは、大野はとてもはしゃげない。これあくまでも賭だ。失敗したら、確実に死ぬ。

「行くぞ!」言い終わる前に、大野はダッシュした。

 両者の思いが重なった。決着を付けてやる!!


 大野は左腕に全体重を載せてクールに迫る。

 大野の左腕の攻撃は遅い。クールはこれまでの大野の攻撃からそれを推考する。しかもワンパターンのボディブローだから軌道も読める...。俺は袖を寄せて右腕でブロックするだけで持ちこたえられるのさ。

 クールは受けの体勢を取りながら笑みを浮かべる。彼はあくまでも勝算あって行動をする軍人なのだ。そして今度とて、それは例外ではない。

 動きが止まったら、俺の攻撃で貴様の身体に穴を開けてやる!

 この冷静な怪物に対し...大野、お前に勝算はあるのか?


「おおおおおおお!」

 叫びつつ、大野は左腕を繰り出した。それは重いが、クールの見立て通り、彼にとっては余りにも遅い。

 勝った!!

 クールは心中叫んで勝機を確信した。その攻撃は確かに彼の右腕で押さえられる軌道にある...。「ワンパターンなんだよ。」

「おおおおおおお!」

大野は更に叫ぶ。クールの挑発を吹っ切るためではない。叫ぶことで怒りを頂点にするためだ。

 大野は思う。そうすれば、不安定性は極大に達して...!

 バン!!!

 とてつもない大音響が轟いた。大野の左腕の肘にある核磁気共鳴電池が、精神の揺動に堪えきれず、暴発したのだ。

 大野の狙いは当たった。爆発は重い左腕を一気に加速する。

 何!! クールは我が目を疑った。それは、彼が出した腕を僅差ですり抜け...

 爆風だけでベンツを横転させかけるほどの威力、そのパワーを全て載せた左腕が、まともにクールの腹部に入った!!

「ぐううううううううううううううううっ!!」

クールが叫ぶ! 大野の左腕が食い込む!

「おおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」

大野が負けじと絶叫する! 彼の左腕が更に食い込む!!

 何という破壊力! 左腕は、腹部に入ったままにクールの身体を浮かし、なおも加速すらさせつつ深々と食い込む。

 大野はそこに更に、自分の体重すら乗せて全身全霊の力をそそぎ込んだ!

「ブチ抜けー!!」


 !

 大野の身体が伸びきって、遂にクールがその腕の先から離れた。


 大野を置き去りにしてクールは吹き飛んだ。巨体がまるでピンポン玉を思わせる勢いで、弧を描いて弾かれる。その勢いは部屋奥の壁まで飛ばされてすら全く衰えない。

 轟音!

 クールの頑丈な身体が壁をもぶち破った。しかも、そうしてなおあり余る攻撃のエネルギーは、まだ収まることを知らない。大野の意志をのせた一撃は、その咆哮を叫びきって、廊下を横切った先、裏の勝手口脇のコンクリ壁にクールをたたきつけた!

 (そのさまは、長島に殴られた番場の様であったという...。)

 更なる轟音! 崩れ落ちる壁塊...。


 その音が止んだとき、土埃の舞うその先に、クールは倒れ伏していた...。

 ピクリとも動かず、ただ俯いて背景に溶け込んでいる彼...。

 遂に...、遂に! 本当に大野は、クールを一発で倒したのだ!

「必殺技ってのはさぁ。」もうピクリとも動かない左腕をだらしなく下げたまま、大野は息を切らしつつ言いきった。

「ワンパターンだからこそ必殺技って言うんだぜ。」



「大野さん!」

原尾が駆け寄ってきた。彼女を見て大野は気が抜けたのか、ふと笑いかけると同時にひざまずいて倒れかかる。

「ご免なさい。私...私...。」

大野を助け起こしながら、原尾は非力だった自分を詫びる。

「いい...よ。隠れててくれて...、かえって気を配らなくて済んだ...。」

そう言いつつ大野は、まだ自責している原尾から離れた。

 そして、ソファのカバーを最土の亡骸にかけつつ、少しだけ強い口調で叱咤した。

「しゃんとしろ。あの子が見ている。」

 原尾は内心はっとなるとともに、羞恥で顔を染めた。あの子の方が何倍もショックなのに...。

 そう。あの子はどうしている?


 しかし、確認しようと、同様に部屋奥のドアの方に振り返った大野と共に、原尾は絶句した。

 廊下に立っている園子が、手にした銃を、同じく廊下に瀕死の様相で倒れているクールに向けていたからである。

「なっ...。やめなさいお嬢ちゃん。」原尾は思わず叫ぶ。

「やめないわ。」園子は厳しい表情を崩さない。「このひとはパパとママを殺したんだもの。私、許さないわ。」幼い口から発せられる決意は哀しいほど力がある。

「いけないわ。」原尾は走りよった。だが。

「邪魔をしないで。」

 園子の銃口は原尾に向けられた。彼女も思わず動きを止める。

 どうする。原尾は横目で大野を見やる。大野は既に立ち上がっていたが、呆然と立ち尽くすその様は、原尾以上にショックを受けているようにすら見える。

 大野さん...。

 だがそれは、原尾に続いて自分に銃口が向けられたからではなかった。

 その答えは、大野自身の口から出た。

「成木...。」


「えっ!」原尾は思わず後じさった。「えっ?」

彼女の戸惑いは無理もない。

 だが大野はその考えに、微塵も疑いを抱いていない。

「けなげな子供の真似なんかすんなよ。黄泉。」

 語る毎に、ボロボロの身体に闘志を再び募らせてゆく大野。

 そして、それを聞く毎に邪悪な笑みを増してゆく...園子!

「よく...判ったじゃないか。」

園子の中の、成木は、真剣に感心したように言った。

 二人は銃口を間に挟んで、再び邂逅した。


「よく...判ったじゃないか。」園子の中の成木はもう一度言った。「私自身にすら、判らないことだったのに。」

「ふふん。」大野はあざ笑う。「”勝った方を殺しな。”ってクールは英語で言ったよな。」最土が娘に英才教育を施しているとは、マキちゃんの閻魔帳には無かったもんな。

「そ、そんな...。」疑問を呈したのは原尾。「いつ転移したの...。」

 原尾の疑問はもっともだ。少なくとも、彼女と大野がたどり着いてからは、園子は成木の憑いていた最土に全く触れていなかったでのである。

 湧いた疑問の大きさに困惑する原尾に対し、大野は静かに言った。

「もともと憑いてなかったのさ...。いや。既に転移していたと言うべきか。」

 解せぬ表情のままの原尾に、大野は続ける。

「つまり、俺達が来る以前に、成木はどこかで女の子に憑いていた。それ以降最土氏を動かしていたのは...。」

 そんなことができるのは。あぁ。原尾が震えを伴ってその答えを呟く。

「集団...転移!」

 首肯する大野も、内から来る焦燥を隠すことは出来ない。敵が遂にその力を手にしたことが、如何に危険なことかは彼が一番良く判っているのだ。

 その不安を打ち払うかのように、大野は己の推理を成木にぶつける。

「他人の意識中に自分の意志を残留させることで、擬似的に転移と同等の効果を為すのが集団転移だ。お前はおそらく、それによって最土氏を操っていたんだろう?」

 黙って聞いていた成木だったが、その答えには心底驚いていたようである。

「流石だ...。流石は超A級のジャッカーハンターと呼ばれた男だ。」

幼い声帯から発するその声は、称賛で震えをも伴う。

「君の指摘通り、私は地下室でこの娘に転移した。そしてその上で、そこにあった資料を元に、急遽集団転移を試みてみたのだよ。あの男の目を眩ますために。」成木はクールの方に、小さく首を振って見せた。

「だがなにぶん始めての事だったので、私にさえ、要素体に流出する意識の勢いを制御することが出来なかったのは誤算だった。実際は、実在としての私自身がこの娘の身体にいたままで、最土に宿すべき残留意志とシンクロすべきだったのだ。だが、あまりに急速なその変化に意識混濁を来してしまったのだ。

「つまり私は、自分自身の意識の実在がこの娘の中にあることが判らなくなってしまったのだよ。」

「最土氏が集団転移を操れたのは特殊な才能があったせいで、あんたにゃ操れないって事なんじゃねぇのか。」大野が訝る。

「鋭いな。」苦々しげに成木は言い、側にある最土の死体に顎をしゃくった。「彼は二重人格を分離させることで、要素体への意識の過度の流出を防いでいたのだ。」

 やはり最土氏と万丈は...。大野は自信の推理がほぼ当たってしまったことを苦々しげに噛みしめた。

「じゃあ、なおさらあんたにゃ無理だ。」

「馬鹿を言ってはいけない。」成木は嘲笑する。「君にだって判っているんだろう。最土が何故集団転移を更なる悪行に使わなかったか。渋谷での集団転移が何故小規模でしかなかったのか。」

 二人は知る由もないが、クール隊を襲撃したのも少人数だった...。

「最土氏にはそれが精一杯だった。」

「そう。」成木は大野の答えに満足して頷く。「そして君ならこのことも知ってるんだろう。集団転移を行う上で彼が越えられなかった限界は何処にあったのか。」大野は口を閉ざしている。認めたくないのだろう。だから成木が答を出す。

「最土の限界...、それは、彼が生まれながらの転移可能者ではなかったことだ。」

 大野は気取られまいとしてはいたが、明らかにその瞬間、ビクッと身体を震わせた。人工転移は大野の拒絶波を受け付けないという驚くべき優位性も持つが、当然そこにはデメリットがあってもおかしくない。そしてそれが集団転移に於いてあるのなら、それは最悪の事態が今後起こりうることを示しているではないか。

 すなわち、上限のない集団転移がジャッカーによってなら起こされうるという...。

 それはジャッカーである成木が、データを持ってこの場を逃げ切ってしまうだけで起こるのだ。

「一つ聞いていいかい。」大野は成木に話しかけた。園子の沈黙は、受容を意味するか。「あんたがわざわざここまで取りに来たデータな。」

 原尾は大野が提示してみせた黒い板を見てあっと小さく叫んだ。いつの間に...。

「最土氏が持ってたこれのことか。それとも...あんたの胸ポケットに入っているそれのことか...。」

 成木は片手を銃から外すと、胸ポケットに入っているものをチラリと出して見せた。それは確認するまでもなく、光ディスクだった。

「残念だったね。君のは外れだよ。」

 大野は心中舌打ちした。

 こっりゃぁまずいわ...。

 成木は既に園子に、昏く殺意に満ちた眼差しを湛えさせていた。


 こんな時は...。先制あるのみ。

 大野は半ば無鉄砲に突進しようと、殺気を成木に向けた。

「おっとハンター君。ちょっと待ちたまえ。」その勢いを、成木が制する。「君の依頼主はもう死んだのだよ。君の仕事はもう終わったんじゃないのかね。」

「ふん。」大野はせせら笑った。「もう一度言ってやろう。俺の受けた依頼は、”ジャッカーを狩れ!”ってもんだ。」彼は成木を見据える。「そして俺はまだ、その仕事の終了を告げられてはいない。」

 終わる日が来るのか? 大野は瞬間自問が走った。

「君に金を払う筈の男はもう死んだのだよ。私への攻撃は君にとってメリットが無いだろう。」

「俺は取り立ては厳しい方なんだ。依頼主が死んだなら、たとえ子供からでも取り立ててやる。だから...。」

 ダッ。銃を向けられながらも、大野は園子に向かってダッシュした。左腕を右手で掴んで盾にしながら...。

「その子には無事で生きてもらわないと困るんだよ!」

 心臓も首も死角になった。この状態で撃ったとしても無駄弾になる。成木は頭をフル回転させる。どうする。

 成木がリアクションする。

「!」

大野は止まった。止まらざるを得なかった。

 成木は、その銃口を自分自身、園子に向けたのだ。

「き、汚ねぇぞ。お前。」これでは大野もどうすることもできない。

「ふふ。今の私が君と闘って勝てるとは思えないのでね。」成木が笑う。「動いても構わないよ。もっとも、この子の無事は保証しないがね。」

「き、貴様。」

大野の声にも力がない。

「せっかちな人間はこれだから困る。私はこれでも、君に感謝しているのだよ。」

成木はそう言うと、大野に判らせるためにちらりと最土に目をやる。

「私の始めての集団転移が失敗した結果、私は本当に、最土に転移して行動していると思っていたのだ。だから、最土の死が決定的になるまで、私はこの娘の制御を為し得なかった。」

そして、皮肉っぽく語る。

「となれば、感謝して当然だろう。君がこの男に、最土を殺すチャンスをつくってくれたことにね。」

 歯がみする大野を後目に、成木はその銃口を再び倒れているクールに向ける。

「まぁ、そこでゆっくり見ていたまえ。君を殺す順番を後に回すのは、せめてものお礼というところだよ。」

 成木は慎重にその狙いをクールの額に合わせる。幼い手に握られた銃は、微動だにせず獲物を捕らえる。

「このバケモノも、頭を撃たれればただでは済むまい。」

 クールが狙われている。その事は、彼を大敵としている大野には複雑な思いを抱かせる。しかし、眼前で人が殺されるのを見過ごすことが苦悩であることに違いはない。

「好敵手だったよ。君は。」

そこには、それでも、嘗ての親友を殺した者...、という想いもあったか...。

成木は引き金を絞る。ここにクールの命運も尽きたか。


 銃声!!

 思わず目を背ける大野と原尾...。

 だが次の瞬間、鮮血に染まっていたのは、クールではなく...園子!!

 成木が憑いた園子の前、クールの倒れている更に向こう側には、裏口から入ってきたアインが、構えた銃から硝煙を燻らせていた。全身火傷を負い、抉られた腹部から内臓が半ば露出した、彼の瀕死のその様相を見れば、ここまでたどり着いたことすら奇跡に等しいだろう。

 アイン...。クールは朦朧としながらも、自分を助けた者を認識した...。

「ぐっ...。」

成木はたまらず血を吐いた。銃弾は園子の右脇腹を貫通したのだ。

 もう一発受けたらこの身体はもたん...。

 成木は躊躇いなくその銃口をアインに向けなおすと、今度こそ引き金を弾いた。

 園子が反動で吹き飛ぶのと、アインがその眉間に風穴を開けるのはほぼ同時!

「いかん!」

叫んで、大野はすぐに園子に駆け寄る。

 原尾もすぐに従って、園子の側にしゃがむ。

「大野さん。その子の容態は?」

「触るな!!」

大野は叫んだ。原尾はビクリとする。

「この子には今成木が憑いてることを忘れるな。マキちゃんは絶対に触っちゃいけない。」

 原尾は得心がいかない。そ、それは判るけど...、じゃあ大野さんは触っても大丈夫だって言うの?

 大野はもう一度じっくり園子の容態を診る。腹部からの出血は服を瞬く間に染めていき、銃を発射した腕は、反動で両方とも骨折している。

 まずいな。大野は素早く懐から取りだした止血テープを銃創に貼りながら原尾に言う。

「一刻も早く医者に見せなきゃ駄目だ。車運転してくれる。」

「判ったわ。」言いつつ原尾も、携帯無線を取り出している。ここから一番近い病院を探すためだ。

 大野はその対応に満足すると、ゆっくりと園子を抱きかかえた。右手一本ながらもその作業を器用にこなす。

 その様は園子の中の成木を再び目覚めさせる。

「わ...私を...助けるのか...。」

 大野は忌々しげに答える。

「あんたを助けるんじゃねぇ。この子の命を救ってやるんだ。」

大野は玄関に向かって歩き出す。病院を調べ終え、電話を切った原尾が、先に立ってドアを開けている。

「それは結構...。だが君は大変な過ちを犯したよ。

「私に触れたことだ。」

言うや、成木は園子の折れた腕を高く掲げ、大野の頬に触れた。

「この間は君の左腕に触れたために転移出来なかった。だが今度こそ!!」

 転移!!!

 しまった。原尾は取り返しがつかないこの一瞬、全身を絶望感が浸走ったのを感じた。もうお仕舞いだわ。

 だが...。だが!!

 凍り付くような時間...の後...。

「どうしたい? 成木の旦那。」

大野は呟く。そして、その視線に捕らえられた、園子の驚愕! それは同時に、彼女の中に憑いた成木の驚愕であり...。

「なっ!」成木は思わず叫んだ。「転移出来ない!!」


 えっ! 原尾も成木同様呟いた。えっ?

「転移出来ない...。」成木は呆然としている。「転移出来ない...。」

「......。」原尾に思い当たる事は一つしかない。「...意志の強さ次第では転移を跳ね退ける事が出来る。」

 大野は小さく頷く。

 確かに理屈はそうだ。原尾は思う。だが、原尾を驚愕させているのはそのことではなく...。

「だけど...。だけど本当にそれが出来る人がいたなんて...。」

 大野の自身が笑みを作る。

「あんた。俺を舐めてんじゃないのか? 俺は一応、ジャッカーハンターなんだぜ!」

 こ、こいつ...。成木の目が怒りに燃えていく。


 凄い! 原尾は思った。ジャッカーの侵入を拒める人間が、本当にいたなんて!

 転移可能者が転移を行おうとした場合、被転移者は例外なく、一瞬己の精神を麻痺させられたような状態に陥るのだ。それは侵入者に対して完全に無防備な隙を作ることになるのである。そしてそれは、以降身体制御のイニシアチブを侵入者に奪われ続ける萌芽となる。

 確かに、その一瞬の隙に抵抗を行えば理屈では対抗できるかもしれないが、生理的に不可避な麻痺状態を克服し、なおかつ瞬時に侵入者に適切に対応することが如何に不可能に近いか...。それは、ジャッカー犯罪に携わる原尾なればこそ、身に染みて判っている困難さなのだ。

 しかもその相手は、あの成木黄泉であり...。

「俺の...。」大野は呟く。「あんたのやり方に対する憎悪が、あんたを拒むのさ。」 大野は叫ぶ。

「この子の一生をぶち壊したあんたに対する俺の怒りが、炎の壁をつくってあんたを跳ねつけるのさ。」


「くっ!」

成木は歯がみする。こ、このままでは...。どうする。

 成木の焦燥。しかし皮肉なことに、彼はその焦りからこそ、大野の最大の弱点を思い出すに至るのだ...。

 駆け引きに於いては冷静さを失った方が負ける。私は負けるのか...。成木がそう思ったとき、彼の心に引っかかったこと...。

 大野の方が熱くなっいる...。

 大野は自分が明らかに優勢であるに関わらず、成木に対する心的優位を為し得ないでいる。これはプロのハンターとしてはおかしな事だ。

 軽薄な会話で相手との関係に一歩置き、いつでも相手に対し余裕を保とうとしている大野の普段の行動からすれば、それは確かに妙な事に思える。

 何故そこまでむきになるのか? 成木は疑問が波となって打ち寄せる。ジャッカー達の間でその名を出すだけで震え上がらせるピンぞろハンターともあろう者が...。

 この男はさっきも子供のことで怒りを爆発させた...。この男のこだわりは子供についてだろう。となれば、それが起因する何かがあるはずだ...、何か...。

 成木は自分が知り得ているこのハンターの情報を思いつく限り挙げつらっていった。そして、ジャッカーの間では公然と流布している大野の噂...、それを成木は思い出してしまうのである。

 ということは、やはりあれか...。


「見上げた正義の心だな。」成木は大野に向かって言った。成木の確信は、既に彼の言葉に冷静さを取り戻している。

「だが、その心、お前の大切な人の元にまでは届かなかったようだな。」

「何っ!!」

 大野の顔が一瞬戸惑う。そこに、成木は非情にも、その言葉を放ったのだ。

「母殺しの男が...。」



 動きが止まる大野、その顔には生気が完全に失せてしまっている。そんな大野の行動に訳が分からぬ原尾。しかしただ一人、園子の腕が再び大野の頬に上がり...。

 転移!!

「!!!」原尾が思ったときはもう遅かった。そして、大野の表情が変わっていく様を、ただ意味もない声が描写するのみ。「あぁ...。」

 成木は大野に、昏く殺意に満ちた眼差しを湛えさせていた。


「ははっはははっはは!」大野が突然、躁の笑い声をあげた。園子が大野の腕から滑り落ち、転がりながらも原尾がそれを受け取る。

「はっはっははは!」大野の中の成木が、歓喜を抑えきれないのだ。

「見たまえ、君。このざまを。」原尾に向かって言う。「何が強靭な精神力だ。何が炎の壁だ。少し動揺を誘われただけでジャックされてしまうとは。

「絹よりも弱い心しか持たぬ男が、ハンターなど聞いて呆れる。」

 原尾は大野に、そんな隠された部分を意外に思い、何故彼が成木の言葉に反応したのかが気になった。が、現状に於ける絶望の波がすぐにそんな事を考えている時間を押し流してゆく。

「私が相手だったことがこの男の運の尽きだ。」

 そしてその言葉を最後に、成木の目の色が変わった。原尾は背筋に悪寒が走った。敵意の対象が、自分に向けられたことを感じとったからだ。

「さて、その子の胸ポケットにあるディスクを渡して貰いましょうか。」

 つばを飲み込んで原尾が後じさる。どうする...どうする!

 成木が近づく。右手をさしのべたまま。

 絶体絶命!!


 しかし、原尾の目の前まで来て、大野の様子が少しおかしくなった。動きが鈍くなったのだ。

 すぐに、大野の動きが止まる。

 間...。

 やがて大野は...、成木は、次第に表情を変えていった。徐々に...、徐々に...。

 そして、臨界点を越えた...。

「ぎゃぁああああぁぁあぁぁあああぁぁああああ!!!!」

大野は突然倒れ伏すや、あらん限りの声を出してのたうち回りだした。

「あああぁああぁぁああああ、あああああ!!!」

 原尾は呆然と、苦しみ暴れる大野の様を見つめているしかない。

「ど、どうなってるの...。」

 大野は暴れる。だが、ある時点でその声だけは止まった。原尾がハッとした一瞬、大野が口を開いた。

「何を...している......早く...行かないか......。」

 原尾はどうしていいか判らない。

「大野さんなの...。そんな。あなたを置いてはいけないわ。」

 大野は奇妙な苦しみ方をする。まるでその手足が別の生き物のようだ。

「嬉しいこと...言ってくれるけど...。あああああああ!」また悲鳴に変わる。「今俺は...黄泉と闘っているんだ...。だから...。あああああ!」

「そうか。」原尾は少し理解した。「拒絶波だ。」原尾の心に大野と初めて出会った時のこと、束横線駅構内での出来事が思い出される。あの時大野は馳に憑いた操乱を追い出すために拒絶波とか言う奇妙な技を使っていた。そう言えば、その後渋谷での操乱との戦いでも使っていたようだった。

 大野にはジャッカーに対して、拒絶波という最後の武器があったのだ!


 彼は己自身の身体に拒絶波を流し、成木をやっつけようとしているのだ。とすれば、目まぐるしく変わる身体制御の主導権争いの結果が、成木の悲鳴と大野の言葉、そして身体各部位の好き勝手な動きということになるのか...。

「く、くそっ。これが...拒絶波...あああ!!」また成木が喉頭部の制御を奪ったようだ。

 こ、これほどのものとは! 成木は大野の全身を隈無く走る、形容のしようもないほどの激痛の嵐に、今や恐怖の極限に達していた。大野の身体の細部、細胞の一つに至るまでが成木を拒んで怒りに震える。小さき悲鳴が全身で共鳴し、大合唱となって成木を責めたてるのだ。

 去れ、去れ! 出て行け!

 操乱が怖じけづくわけだ。成木は苦悶に喘ぎながらその事を思い出していた。記憶共鳴によって操乱から説明を受け、こういうものだということは判っていたつもりだが、自分で体験することがこれほどの苦痛だとは...。

 その時、彼の意識に直接語りかける声...大野だ。

 どうだ。あんたをあの子から離すには、お前を身体に引き込むこともやむなしと思ったのさ。もっとも、あの事を言われて、ホントにジャックされちまったってのも、正直なとこなんだけどな。だがともかく...

 彼の声はそこで、今までに無いほど怒りと憎悪に満ちる。

 全身で感じろよ。これが俺の痛みだ!

 成木の心にも、痛みと恐怖と同じ程度に、大野への憎悪が沸きかえる。

 ジャッカーハンター!!!


「がぁあああぁぁああ!!」大野の絶叫は続く。

「い、いけない...とにかく...。」我に還った原尾は最善の策を採ることにした。「この子を連れて病院に行くわ。」

 い、いかん...。このままこの男の中に残されたら...。駆逐されてしまう!

 成木は焦燥の極みに達する。焦るな焦るな焦るな...。集中だ集中だ集中だ...、

 集中だ!

 おおおおおお!

 成木が心中叫んだ。どんな危険に対しても冷酷非情だった男が...。

 大野は気迫に押されて一瞬身体制御を成木に渡してしまう。

 成木の執念が奇跡を起こした。大野の身体は奇妙な風で起きあがるや、この場を離れようとしていた原尾に取り縋った。

 憑くっ!! 成木の執念が、大野の右腕を動かす。その腕の先には、原尾が抱えた園子が。

 不意を付かれた原尾は、眼前に立ちはだかる大野に行き場を失う。

 ちぃぃ! 大野が叫ぶ。憑かれる!!


 横から大野の腕に当たる物在り! それは大野の腕を弾く!!

 黒猫だ!

 最土家で飼われていた黒猫が、突如として飛びかかったのだ。彼(作者注.性別は未設定)は本能的に、かわいがってくれた飼い主に降り懸かる異様な危険から、飼い主を守ろうとしたのだ。彼(?)は大野の腕に懸命に食らいつく。

 隙だ! 原尾はすかさず横っ飛びしてすり抜ける。そのまま床を滑って大野の射程から離れる。

 ええい。成木は突然の敵に苛立つ。どいつもこいつも私の邪魔をする! しかしそれでも、こうして生じた新たな状況を、彼が利用しないはずもない...。

 たまらず大野は猫を振り払った。黒猫は大野の肉を口中に残しながら床にたたきつけられる。


 原尾は園子を抱えたまま立ち上がる。大野さんはどうなった!

 大野は空を見つめている。その様が、彼女を震撼させた。

 放心...成木が遊離した! ということは...猫!

「後ろだ!!」我に還った大野の叫び。「その猫を躱せ!!」

 原尾は背後に気配を感じて身を避ける。宙を飛んでゆく黒い固まりを一瞬の差でやり過ごす。黒猫の中の成木は、二人のどちらに憑こうとしていたか、園子の服を掠めただけで反対側に飛びすさる。

 タッ! 軽やかに床に着地した黒猫。その口にくわえらている物は...、光ディスク!!

「なっ!」大野は叫ぶ。「しまった!」

 依童の対象として、瀕死の園子は論外、原尾でも大野に追いつかれる可能性が大きいとなれば、最も機動性に富んだ猫のままでいる方が、今の成木に有利なのは必然ではないか。大野はそこに思い至らなかった自分にほぞを噛んだ。

 目を細める黒猫。それが全てを物語る。


 ダッ。黒猫が駆けた。裏口に向かって一目散に。

 逃がすか。大野は追い縋ろうとする。だが、彼はまたしても、成木の計算高さに舌を巻くことになる。

 猫が逃げた先には、クールが立ちはだかっていたのだ。


「うそだろ...おい。」大野は冷や汗が出てきた。「冗談きついぜ。」

ガン! クールが撃ってきた。たまらず大野と原尾は物陰に隠れるが、その狙いは散漫だ。

 裏口から黒猫が逃げるのが判る。最悪だ...。

 しかし...悲観している暇はない。大野は自分を叱咤する。お前には為さねばならないことがあるだろう。残された命を救うという使命が...。

「おい。クール。今は闘ってる場合じゃない。お前も小さな女の子を殺したくはないだろう!」

 返礼は銃弾二撃!! 駄目だこりゃ。いっちまってる...。

 今のあいつを動かしているのは闘争本能だけだ...。

 その時、大野同様に物陰に潜む原尾は、腕の中で園子がぴくりと動いたのに気付いた。気がついたんだわ...。

「...パパ...ママ...。」

呟いた園子の表情は、現実を既に認識している。子供とは思えない厳しい目をして原尾を見つめる。悲嘆にくれようとしていても、涙の方が出ないのだ。原尾はその事が判るだけに、胸を締め付けられるほどの悲しみが湧いた。今の原尾には、彼女を静かに抱きしめてやることしかできない...。

 園子に、微衷は通じたか、その目が、微かな生気を伴い...。

「あ...。」園子は呟いた。

「えっ?」原尾が小さく聞き返す。

「ご免なさい。私...。」消え入るほどの声で園子言う。「パパが入っちゃいけないって...いつも言ってた部屋に入ったの...触っちゃいけないって機械にも触ったの...。」

 朦朧として、それでも懸命に吐露したその言葉は、園子なりの罪悪感の表明だったのだろう。それは無意識が言わせた懺悔であって、他の者が聞いても意味のないもののはずだったが。

 その内容は不明瞭ながらも、大野を驚愕させるに充分な内容を持っていたのだ。

 そうだ。大野は心中叫ぶ。確かにそうだ。成木が他の者に集団転移の資料をみすみす残していくとは思えないではないか! ここにいては...危険だ!!

「マキちゃん! この場を離れんぞ!」大野は叫ぶ。そしてその声に安心したように、園子は再び気を失った。

「判ったわ。」

クールが近づいて来ているが、奴に構っている暇はない。GOだ!!


 大野と原尾は一目散に駆け出した。大野は園子を受け取り、原尾を先に車まで行かせる。銃弾が背後から襲いかかる。

「ひーっ!」

大野は園子を庇うようにして走る。だがどのみちクールの銃に撃たれたら二人とも貫通してしまうだろう。

 原尾が大野の車のボンネットを滑って運転席側へ。そのまま流れるように乗り込むと助手席のドアを開ける。

「早く! 乗って!!」

 いいタイミング! 大野は背中を向けつつ助手席に飛び込む。

「いいぞ! 出してくれ!!」

 エンジンがかかる。クールが迫る。

「行くわよ。」

 原尾がギアとクラッチを入れる。逃げ切れるか。

 クールが車の前に来た!

「行け! 死にたくなきゃ退く!!」

 避けて!! 原尾は心中祈りながら発進した。

 !! クールは退かない。そして、原尾が交通刑務所の格子戸を連想する前に、仕掛けてきた。

 クールは大野の車のバンパーを掴んで...、持ち上げた!

「うおおおおおお!!」

気合い一閃。軽とはいえ1トンは越えるであろう車体を、クールは一気に50度は立ちあげた。

「な、なんて非常識な!」大野が叫ぶ。

「語彙の選択が変よ!」原尾が突っ込む。

 わっ!! 大野と原尾は傾いた車内で、フロントいっぱいに映し出された午後の空を見上げた途端、自由落下した。座席が荷重に耐えきれずにひっくり返ったのだ。当然、すぐにしこたま後頭部を打つ。

「何よこのボロ車。」原尾が頭を押えてぼやく。

「新米君もこぶ作った筈だ。」大野が言う。彼の車の犠牲者は多いようだ。

 ガンガンガン!

 クールが銃を連射して、一秒前まで二人がいた場所が、下から撃ち抜かれていく。本能が為した行動とはいえ、クールのそれは戦闘の理にかなっている。この状態では、中の人間が外に逃げ出すのは存外に至難だからだ。

 だが、大野の車の意外な特性が、三人を助けたことになる。

「な。」大野は冷や汗を垂らしながら言う。「古い車もいいもんだろ。」

 ガンガン! 手応えがないせいか、クールは闇雲に撃つ。フロントガラスが弾け飛び、雨のように降る。

「このままじゃ下から撃ち抜かれるわ。」

「便秘だったら治るかもよ。」

 バチン!

 冗談の通じない女性はきつい。だが、彼はへこたれない。

 頬に手形をつけた大野は、いきなり原尾の胸をまさぐったのだ。

「何考えてんのよこんな時に!!」

もう一発原尾が平手を繰り出そうとしたが、大野の目が真剣なことにたじろいだ。

「勘違いすんな!」そう言うと大野は、原尾の服のポケットから何やら取りだした。

「そ、それは。」


 大野は車を前方によじ登っていく。攻撃が止んでいるから、クールは弾を交換しているのだろう。

 この隙が勝負だ。

 大野はガラスが無くなったフロントを抜け、片腕ながら器用にボンネットに達する。

 大野さん。原尾は託された園子を抱きしめながら思う。どうするつもり...。


 車の最前部、今は最上部と化している場所に辿り着いて、大野は下を見降ろした。クールは案の定片腕で銃のマガジンを入れ替え終えたところだ。

「チャオ。」大野はクールに呼びかける。

 クールは少しも慌てず、本能的にすぐさま銃を大野に向ける。

 そうそう、これで届く。大野はそうして伸ばされたクールの腕に、原尾から掠め取ったスタンガンを、最高出力で思いきり突きつけた。

 う゛んっ!!

 ガンッ!!

 大野の頬を弾丸が掠めて血線を曳いた。だが同時に、クールの意識も遠のいた。


 バンッ!!

 クールの支えを失った車体は、当然のように前に倒れる。轟音と共にクールも下敷きにされる。

「うわわい!」前方に投げ出されそうになった大野が、素早く助手席に戻る。

「出せっ!!」通常の状態に戻った運転席、そこに座った原尾に叫ぶ。

「だって!」

「つべこべ言わない。」大野は脚を運転席に投げ出し、アクセルをふかした。

 グオン! 車体が加速する。瞬間、原尾は車の下に轢かれるクールの感触を感じ、吐きそうになった。

「このまま逃げるぞ!」園子を受け取った大野が言う。

 原尾は解しかねたが、バックミラーによろよろと立ち上がるクールを認めて、いやがうえにも納得させられた。

 今自分達が闘っているのは人間じゃないのだ...。

 クールは再びこちらに銃を向ける。

 ドカン! いくらクールの銃が強力とはいえ、この音は大げさだ。そう原尾は思ったが、そうではなく、最土の家が爆発したのだ。

 黒煙は瞬く間に広がってゆき、爆炎の中にクールが消えていく...。


 走り去る大野の車。燃え盛る炎の中のクール。何処へかに消えた成木の黒猫...。


 この章を終わらせたのは、三人を引き離した運命であったか...。

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