第8話 憑かれた者たち
クールは闇の中に落ちていった。彼の身体は重力加速度をまともに受けて見る見るうちに加速する。頬がひきつり、心拍数が上がる。もう堪えきれない。彼は手にした紐を引く。
バッ。背中のパックから飛び出た布は、瞬く間に10mを越える大きさに膨れ上がり、ためにクールは落ちる速度を一気に殺され、身体にベルトが食い込んだ。
そのまま落下傘は静かに降下を続け、地上すれすれの重い風に運ばれはしたものの、クールを無事に地面に送り届けた。新月の闇の中、満点の星以外何も見えなかったが、軍靴を通じても判る砂の感触は、今もはっきりと記憶に残っている。
中東チラク領内、ダード南西15キロ、バグダ砂漠。
チラク共和国の隣国クルートへの突然の侵攻から半年、1992年1月に始まった湾岸戦争は、その圧倒的物量と最新兵器によって国連軍の圧勝に終わったが、連日報道されるハイテク兵器による派手な戦勝報告の陰に、終戦まで完全に極秘とされた作戦があった。
後にバグダ砂漠ミサイル基地破壊作戦と称されるこのミッションは、開戦日に展開された作戦の内でも、後の戦局に与えた影響は最も大きかったとされる。というのも、この作戦で事実上、チラクは国連軍への反撃の切り札を失ったからである。
「何でこんなに敵の数が多いんだ。」サブマシンガンのマガジンを取り替えながら、隣の兵士がクールに怒鳴った。
「ダードにあれだけ大規模な援軍を出したにも関わらずこれだ。こりゃぁ、ただの工場じゃないぜ。」クールは怒鳴り返して横を向いたが、その兵士には返答を聴く頭が無くなっていた。
「ちぃ。」クールは手榴弾を投げた。数人の敵が吹き飛ぶ手応えがあった。
何だ。群がるなんてセオリーを知らねぇのか。彼は訝った。敵は手勢は多いが、訓練が浅いようだ。
この作戦を特異たらしめたのは、情報入手のタイミングにあった。軍事物資を作っているらしいというのみの内容、しかも開戦予定時刻の僅か一時間前とあっては...。ミサイル基地があるとされるダードに大規模な空爆を行う予定だったことから、その空爆部隊と連携する形で制圧部隊を降下させることにしたのは、敵はダードに反撃力を集中させているから小部隊でも十分やれる。程度の目算だったからであろう。だがここがこの日の作戦中、兵士の帰還率が最低の戦場となったのだった。
仲間が五人にまで減ったとき、漸くクールたちは工場に潜入した。だが想像外に深いエレベーターを降りきって出た先の光景は、彼らの息を止めた。工場内遥か向こうまで林立するミサイルの群が、黒光りする姿を闇に聳え立たせていたからである。
「こ、これは。」
「ミサイル基地はこっちだったんだ。ダートのは囮だ。やつら都市を囮に使った偽情報を流したんだ。」
クールは壁際に隠れ、攻撃を避けつつ叫んだ。
「これだけのミサイルが一斉発射されたら国連軍も危ないかもしれんぞ。」
よくこれだけ密集して置く気になる。もっとも、この工場の大きさなら衛星写真ではノーチェックにするだろうがな。クールは敵軍のこの捨て身の作戦に震撼した。
この位置で届くとは思われなかったが、クールは一応無線機で現状報告と救援を依頼した。そして、また一人撃たれた。このままでは全滅だ。この小隊で、ミサイルまで50mのところまで来れたというのに。
「苦しまずに死ぬってのは、どうやればいんだろな。クール。」撃たれた男はそう言って笑うと、手榴弾を抱えてミサイルの方に突撃した。
この男が爆死したとき、ミサイルの一基が爆発し、これによる誘爆で工場は跡形もなく消し飛ぶことになる。だが...
全身の骨が折れ、体中に火傷を負ったものの、クールは生きていた。彼には周囲を取りまく黒煙と、砂の感触が鮮明に残っている。そう、クールは爆風に飛ばされて、奇跡的に地上まで吹き上げられたのだ。彼は瀕死の重傷を負いながら、這うようにして動きだした。生への執着が、彼を駆り立てていたのである。だがそれも、彼の進む眼前にそれを見るまでだった。業火に燃える建物の明かりで照らされた敵兵の死体があったのだが、それは...。
「こ、...こども。」
学徒動員でもされたのだろう。十歳を越えたかの程度から十五歳位までの男の子の死体が累々としていた。それは明らかに、自分たちが敵対した兵士の服を着ていた。
こ、こいつら全て...。俺達が殺したってのか。
「く、空爆の街に連れていかなかったのは、大人共の最後の良心って訳か。」
流石の彼も眼を背けた。だが目を向けた先、彼の向かって左には、目を開けたまま死んでいる少年の姿があった。
「!!」
全身黒くただれ、血塗れになったその少年の、瞳だけが透明にこちらを見つめていた...。
クールは吐いた。
そこに、あぁ、何ということだろう。ダートから戻ってきた爆撃機が、辛うじて残った宿営所にも爆撃をしてゆく。そこにはおそらく女の子が...。
「お、俺の連絡の...せいなのか...。」クールは絨毯爆撃の中、意識を失った。
液体中に気泡が多量に排出された。クールのつけたマスクから漏れ出たのである。悪夢にうなされ、予定外に排出された二酸化炭素を、防水マスクに付いた細いチューブでは処理しきれなかったのだ。
クールはもがいた。アドレナリンが分泌し、大脳が悲鳴を上げる。
うっ。
そこで、クールは目を開け、眠りから覚めた。
クールはそうしてやっと少し落ちつくと、自分が何処にいるのかを思い出した。
東京都内に三年前建設されたカタストロフ社日本本社、ここはビジネス面での仕事が主目的であるのは勿論だが、本国の研究所にも勝るとも劣らない設備を有した実験専用のフロアーも備えていた。ここでクールはヤムのサポートの下、細胞活性浴槽に全身を沈めていたのだ。自身の90%を構成する強化細胞の寿命を延ばすために...。
疑似細胞として世間の耳目を一心に集めた人工細胞の発明は、組織的に培養する時点で実用性の難しさを指摘され、見捨てられかけていた。この難題を、人間の精神を同調させて自己組織化させてゆくという方法を編み出して克服したのが、誰あろうケーシー・ヤムである。現在同調増殖と呼ばれる一連のこうした手法の確立によって、アメリカの医療技術は50年の長足の進歩を為すはずであった。が、一般にはそのノウハウは流布しなかった。
なぜか。その方法によって生み出された人工細胞は、儚い短所と、悪魔の長所を持ち合わせていたからである。
90年代初頭に行われた、同理論によるラットを用いての組織再生の実験は大成功だった。そこではなんと、頭だけの生体からの自己完全回復すら出来たといわれる。しかも、これによって再生したラットは、普通に見られる同種の成体の実に500%の運動能力を有したのである。人間の新たな可能性への第一歩だ。ヤムたちは当時色めき立った。しかしそれは彼らにとってあまりに束の間の喜びでしかなかった。スーパーラットとさえ名付けたくなるほど度外れた活発さを示していたそれは、ヤムたちが次の朝に研究室に戻ってみると、あっけないまで静かに死んでいたのである。分不相応な力を、身体の方が維持しきれないことが原因であった。
その後の研究により、人間などのようにラットより遥かに大きい生物では人工細胞の寿命も延びることが示されたが、とんでもなく高価な抽出液体の中で細胞自身に活性を与え続けなければならないことがわかり、とてもではないが実用に供し得ないことが示されたのである。
研究者たちはこのテーマから去っていった。ヤムは研究のリーダーとして、この研究にかける熱意は尋常ならざるものがあったに相違ない。が、先の見えた研究に金を出すほど世間は甘くない。
高運動性を持つ人工細胞。=強化細胞。最強の兵士を造り出す研究として軍から話を持ちかけられたとき、去来する良心に構わず彼が縋ったとしても不思議はない...。
「どうかしたか。クール。」クールの心拍数の変化を計測して、ヤムが来た。
「何でもない。」クールは水面に顔を出しもせずに言った。「いつものことだ。」
そう。いつものことだ...。水面深く沈んだクールは、思索も同時に深く沈めていた。あれもこれも、消える筈がない。この身体である限り...。
静かな目覚めとは裏腹に、大野の体調は最悪だった。鈍い痛みが常に彼の身体のどこかを走る。ぼんやりと意識に浮かんでいるのは、クールとの闘いだ。大野はふと転移学会会場でクールの言った言葉を思い出した。人工細胞だとよ。といったらもう...。確かにヤムさんとやらは見くびれんよな。あんなバケモンを作っちまうんだもんな。
彼は薄暗い部屋に閉じこめられているようだった。が、今の姿勢では殺風景な白壁しか見えない。大野は体の向きを変えようとしたが、体中に走る痛みにたまりかねてとても出来なかった。特に直接拳の当たった頬は下手に笑うことすら出来ない。くそ。クールの奴、手加減位すりゃいいのに、あ、奥歯グラグラだ。暫くスルメは喰わん方がいいな。大野は更に自身の状態を注意深く調べた。手が少し前まで後ろ手にされて手錠か何かを掛けられていたらしく、肩が抜けるように痛かったが、何故か今は外れていた。
結局、大野は現状ではどうしようもないと判断して、またふて寝しかけた。
「起きたの。」
背後から声がした。原尾の声だった。
「...マキちゃんか。無事か。」
「あなたと同じ状態だけど、怪我はしていないわ。」彼女は静かに言った。
「ここは何処だい。」
「おそらく、カタストロフ社のビルよ。車に乗せられている間は僅かにしか意識がなかったけれど、そんなに長い時間ではなかったもの。」
「なるほど。痛っ...。」大野は腕のことを思い出して聴いてみた。「ひょっとして俺にかかってた手錠...。」
「私が早く自分の分を外せれば、もう少し早くあなたを楽にしてあげられたんだけど...。」
ひゅー。大野は頭の中で口笛を吹いた。大したもんだ。警視庁エリートは伊達じゃないってことか。
「いや十分感謝してるよ。これで俺達二人、逃げられる可能性も出てきたってもんだ。」
「ちょっと待って、逃げるのは二人じゃないわ。」
原尾がそう答えたとき、彼女の声の更に後ろで微かに呻く声がした。
声に聞き覚えがあり、しかもその記憶は脳の中で危険を連想させるものだったため、大野は痛みも忘れて本能的に振り返った。
十畳ほどの広さであろうか、壁と同様、窓もない殺風景な部屋だった。光源は出入口らしき扉の上の蛍光灯のみ。どうやら、物置のような部屋らしい。主人公閉じこめマニュアル(狂文社発行 現在絶版)に載っていそうなそんな部屋の、床の中央に身を起こしている原尾と...自分同様に芋虫のように横たわっている...河合がいた。
「!」
「身構えなくってもいいわ。まだ彼女寝てるもの。それより大丈夫その顔。」原尾が大野の顔を見て不安げに言った。
「力石徹と殴り合ったときは今の三倍に膨れたよ。」大野は冗談を言ったが、いかんせんネタが古すぎて通じなかったようだ。
気まずい時間は河合が消してくれた。うまいタイミングで目覚めたようなのだ。彼女は、大野と戦ったときの黒いレザーウエアに、体の線を悩ましげに浮き立たせながら寝返りをうった。が、身を起こそうとして床に着いた腕がなかなか落ち着かない。まるで酔っぱらってるようだ...いや、薬を飲まされたのか?原尾は思った。
辛うじて四つん這いになることに成功した河合は、大野を見るなり、
「あ。黄泉じゃないの。先に起きてたのね。」
と、微かに呂律が回ってない口で言った。
反論しかけた大野を原尾が手で制した。寝ぼけている内に情報を聞き出せると踏んだのだろう。河合は四つん這いのまま大野に近づいてきた。
「待ってて。食事の支度をするわ。」
だが、そう言った河合はその腕の力を失い、大野の上に倒れ込んだ。
河合は大野に口づけした。
俺は成木じゃ......どうでもいいや、そんなこと。
「ちょっといい加減にしなさいよ。」
僅かにむっとした声で原尾が言って、二人を離した。軽く突き放されて床に尻餅をついた河合は我に返った。その眼に生気が沸き起こる。
河合はいきなり大野の頬を平手打ちした。
「何すんのよいきなり!」まだその手に威力はないが、大野は死ぬほど痛いだろう。
「そりゃあこっちの科白だ。大体そっちが間違えたんだろうが。」大野は泣いている。彼は原尾にも弁解の応援を頼んだのだが、何故かそっぽを向かれた。
「なんてことなの。デリケートな黄泉とあんたを間違えるなんて...。」
「おうおう悪かったね。俺はどうせがさつだよ。」
「ふん、まったくだわ。」河合は実も蓋もなく言い放って、二人から離れて座った。「でもいいわ。ツケにしといたげる。」どんな気紛れか、その声にはもう怒気は含まれていなかった。
「これだけ殴られても清算出来ないのか。高くつくな...。」大野はやれやれといった顔つきで言った。「無料でしてもらえる黄泉が羨ましいね。」
「そりゃそうよ。私は黄泉を愛してるもの。」
「くーっ。まいっちゃったねこれは。」彼は大いにニヤけて見せたが、痛みでひきつってしまった。そしてそのせいでもないだろうが、一転して強い調子で言った。
「だがあんたの信頼も、ダーリンには通じてないかもしれんぜ。」
東京特設拘置所。特拘と通称されるこの建物は、東京の北西部をかなり行った郊外にある。付近一帯はちょっとした台地になっていて、野草の生い茂るままになっている。だがよしんば十年後に再びこの地を訪れたとしても、たいして変わってはおるまい。それは勿論、その場所の中心にこの施設があるからである。物好きにもこの建物に近づく者がいたとして、敷地を高塀で囲っているため外から窺うことが出来るのは、その敷地内の大部分を占める、鉄筋四階建ての建物だけである。しかし、この施設の特異な雰囲気は、その建物を見さえすれば十分であろう。
とにかく、窓が全方向から見て全くないのだ。中に入って見れば一階部分にはちゃんと窓があるのだが、二階以上にはただ壁だけが聳え立っているのみである。何があるのか。これの答えは、皮肉にもこの建物から数キロも離れた街の住民の流言が正鵠を射ている。乃ち、二階以上にはジャッカーが拘留されているのである。
一般犯罪者と同様、ジャッカー犯罪においても、その人物が裁判で刑が確定するまでの間は容疑者とされ、拘置所に入れられる。が、こと対象がジャッカーとなると、処置法は一般人容疑者に対するそれとは大きく変える必要がある。牢屋などのように外界との接触手段があると、精神だけ逃亡される可能性があるからだ。離魂体は残しているのだから当然戻ってこなければならないとはいえ、証拠隠滅される畏れがある。(この点が、寧ろジャッカー用の刑務所の方が警備が薄い理由である。)このため、取り調べ(別の部屋で、インカムを通じて行う)されていないときのジャッカーは、完全に密閉した独房に入れられる。内部工作への対策は、主に監視カメラによって行う。
かように磐石な警備を誇る特拘に、夜になって一台の護送車が到着した。そして一人のジャッカーがここに連行された。馳が逮捕した(ことになっている)、成木黄泉である。
拘留された成木が気が付いたのは零時を回った頃だろうか、大野に倒されてから七時間近くも気絶していたことになる。彼は周りに目を走らせ、薄暗い豆球の下、自分が寝かされているベッドの他には便器しかないのを見るにつけ、すぐにここがどこかを悟った。しかし彼は動ずる様子もなく、ゆっくりと上半身を起こすと、黙考を始めた。破れた大野に対する憎悪を燃やしているのか、はたまたパシフィックに憑いていたジャッカーが誰か推理しているのか。いや、残念ながら全くの見当違いだ。
彼の思いはただ一つ、自分があの力を手にした後の世界への処し方だ。
「誰だ。」
細胞活性のため、水槽の中に全身を浸かっているクールが、実験室内に気配を感じて誰何したが、声を掛けたときには既に、それが誰かを見極めていた。
クール以外誰もいないかに見えた部屋の中に、男は立っていた。迷彩服を身に付けているところを見るとクール隊の一人なのだろう。男はクールの問いには答えず、素早くクールの顔の側までやってきた。男はクールに囁いた。
「三番隊が工作要員として出ました。隊長の知るところですか。」
「知らん。誰が命令した。」
男はかすかに表情を曇らせた。
「やはりそうだったか。パシフィックです。奴は暗殺隊を組織させたようです。
「ほう。誰のだ。」
「そ、それが。」
男は躊躇ったが、クールが自分に怜悧な視線を向けたのに気付き、
「な、成木です。...成木...黄泉です。」
水槽の水面に泡が一つ浮かんで消えた。底に沈むクールの眼が大きく見開かれた。
クールは何事かを小声で男に囁く。男は黙って一度だけ頷いた後、素早く立ち去ろうとした。
「待て。」クールが呼び止めた。
「奴ではなくボスと呼べ。パシフィックはまだ俺達の上司だ。」
「何故そんなことを言うの。」河合は声を荒げて大野にくってかかった。
「胡散臭いってことさ。あいつは...」
「黄泉はジャッカーの誇りだわ。転移者の社会的地位を回復するための行為が多少過激だから、あんたに理解できないだけよ。」
河合の蔑視を正面から受けとめたあと、大野は反論した。
「そうかな。あんたはいなかったから知らんだろうが、黄泉はギルバートに憑依していた奴の転移能力を欲しがってた。人道主義者のそれとは思えないほど熱心にね。」同意を求められた原尾も今度は頷く。
「嘘よ! いい加減な事言うと許さないわよ。」
恋は盲目...よく言ったもんだ。
「やれやれ、自分を客観視して見ろよ。一方的な信頼は滑稽なだけだぜ。」
「何よ。まるで私のこと知ってるかのような口振りね。」
大野は眼を閉じてちょっとの間黙っていた。可哀想だがきつく言うしかあるまい。ゆっくりと、はっきりと彼は言った。
「ソーニャ河合。日本人とロシア人のハーフ...。その生まれのために、周囲の目は常に冷酷かつ無慈悲。幼少時から疎まれ続け、友達の一人すらできずに寂しく成長した、ってとこか。」
大野は唐突に棘言を弄した。原尾には彼の推理が的を得たであろう事はすぐに判った、河合の表情が固まったからだ。
1990年代初期、ソ連の崩壊に伴い、同国国民の生活は困窮の極みに達した。そしてウラジオストックからは日本の富に羨望し、職を欲して大量の密入国者が入った。その中には当然、自身の身体をその日の糧の種とする女性もいただろう。ソーニャはそんな悲しい人々の子供の一人なのだ。
(ちょっと言い訳、世紀末って設定なのにどう考えても計算が合わんじゃん。と突っ込みたい気持ちは良く判ります。だけど敢えてこの設定にしてるのです。意味といい語感といい、世紀末という言葉は使うに値する魅力と神秘を持った言葉なのです。)
だが何故わざわざ人の心の傷を抉るようなことを言うの。原尾は訝った。大野という人は口論の勢いでそんなことまで言うような小人なの。
「根拠のない蔑視、陰湿な迫害、それに虐待。自分ではどうしようもない運命だが、逆らう術もなく自暴自棄になっていく。」
厳しい言葉が続く。それを聴く河合の薄氷の心が割れた。仮面となった表情の奥では自分の半生が渦流となり、溢れた想いが涙となって頬を伝った。
「孤独と失意の時ばかりだが、あんたを振り返るものは誰もいない。結局のところ、欠片の幸福さえも持てなかった人生。どうだ。大同小異じゃないのか。」大野は無情な言葉を言い続けたが、ここで少し間を置いてからこう言った。「あんたはそんなときに出会ったんだ。」
「黄泉!」河合の子供のような叫びだった。
「そうよ。私はいつでも死んでしまいたいと思っていたわ。」堰を切ったように彼女は喋りだした。「だってそうじゃないの。一生懸命勉強しても働いても、周りの人は決して認めてくれないのよ。挨拶しても笑いかけても、みんな私を無視してゆく。どうしてなの。私が何をしたって言うのよ。私はただみんなと違う青い眼をしてるだけで...」彼女は声を震わせた。「私が...私生児だというだけで...。」
原尾は奇妙なことに気付いた。大粒の涙を流し、全てを吐露しきった河合に、少し顔色が戻ってきたのだ。澱が出た? 一瞬、そんな比喩がよぎる。
「あの人だけが私のことを判ってくれたのよ。」河合の言葉には落ちつきが戻っていた。「あの人は私の心に入り込めるんだもの。私の全てを理解して抱擁してくれるんだもの。」
河合は長い言葉を閉じた。
大野は眼を閉じて聴いていたが、やがて話し出した。今度はさっきとはうって変わって穏やかに。
「そうだ。俺達一般人はあんたに酷いことをしてきた。そして黄泉はただ一人あんたをまともに取り扱ってくれた。
「ジャッカーはそういう意味では本当に凄い力を持っていると思うよ。普通の人間では逆立ちしたって、君と同化なんて出来ないんだから。君のことを判ってやれないんだから。」
原尾はうすうす解ってきた。大野はどうも彼なりのやり方でカウンセリングの様なことをしているらしい。
「だけどそんな俺達にも出来ることはある。」大野はそう言って河合に近づくと、突然彼女の口の中に何かを押し込んだ。
「同情なんてま...な、はにふるほよ。」
大野はもう半分を原尾に放り投げてから言った。
「俺の非常食のチョコレートさ。半日何にも食ってないんだろう。」
そうだった。原尾も作者も忘れていた。大野は原尾にウインクしてから河合にこう言った。
「俺達にも、君の心を察してやることはできるってことさ。」
河合はその瞬間、目を大きく開いた。
「完全な理解ってのは実はそれ以上はないって事でもある。ところが俺達ときたら、本人が期待した以上のお節介を焼いちまうことがある。」
河合は何も言わなかった。ただ、頬張ったチョコの甘さだけがやけに感じられた。
長きに渉った瞑想から成木は覚めた。そして、
「さて、出るとするか。」あまりにもこともなげに、彼はそう言った。
特拘における今夜の夜勤の当番に当たるのは、戸塚を含めて全部で三人だ。彼らは朝の七時に交替要員が来るまでこの建物を警備しなければならない。拘置所の警備にたった三人とは非常に心許なく思われるが、ハイテク装備を満載したこの施設内では、彼らのやることといえば、殆ど集中監視室でモニターを見ているだけで事足りた。後は、気紛れの散歩がてらに見回りに行くぐらいであり、現に今一人外に気晴らしに行っている。人数の少ないのには実はもう一つ隠れた理由がある。日本人でここに忍び込むような愚かなことを考えつくものはいないというのが、それである。
「おや。」
「どうした。」同僚の峰の声を聞いて戸塚が問うた。
壁一面に設置されたモニターの一つをさして峰が答える。
「これ、真っ黒だ。壊れたのかな。」
「本当だ。」戸塚はそう言うと、手元の機器に触れた。「何時からか巻き戻してみるよ。」
彼がダイヤルを操作すると、真っ黒い画面に白い筋が入り、やがて画面が正常に部屋を映しだした。再生させると、画面中で、フラフラと男がカメラに寄ってきて、親指を近づけたところまでで終わっていた。
「何て奴だ。確か...成木黄泉っていう、さっき入った男だ。」峰が言った。
「好奇心で悪戯をして壊してしまったんだろう。俺がちょっと行って注意してくるよ。」戸塚はそう言うと、管理室を出た。
超大物ジャッカー、成木黄泉は、今までに捕まったことなど無かったのだ。職員達の油断も詮無いこととはいえ、悲劇でもある。
三階の12号。そこが成木の収監された独房だった。戸塚はエレベーターで三階にまで上がると、他の房を見回りつつ、12号室まで来た。
ここの拘置所にある房は、全て個室である。四畳半一間でベッドとトイレのみが調度品だ。そこが普通の独房と決定的に違うのは、窓がないことにつきるだろう。部屋を外と繋げるのは唯一入り口のみだが、その入り口は頑丈な鉄扉でしっかりと蓋をされ、電子式のロックを外さなければ開けることは不可能だ。
即ちこの部屋は、脱出はおろか、外部への交信さえ不可能な構造をとってあるのである。公安当局の形振り構わぬ姿勢を、構造そのものが端的に表している部屋であり、ジャッカーへの人権侵害が議論されるべきところでもある。しかし、そういった疑問提起がされないところが逆説的に、一般の人々のジャッカーに対する畏れがいかに大きいかを物語っているであろう。
戸塚は扉の脇にある小さな突起物に手をやった。それは数字が刻印されたテンキーパネルと、その上にある小型モニターで構成されている。彼はモニターをちょっと確認した。よし、こちらのカメラは壊されてはいないようだ。
彼はモニターに中の様子を映しだした。
最初に白い便器が映し出された。戸塚はズームと位置を微妙に変えてゆく。ベッドが見えてきたが、そこに成木は横たわっていなかった。更に角度をずらしてゆくと、いた。壁に頭をつけた男が視覚に入ったのだ。
戸塚は早速監視カメラを壊したことを注意しようとしかけたが、男の表情の妙なことに気付いた。虚ろにどんよりした眼、ポカンと開いた口...。彼はカメラを引いていった。たっぷり全身がモニタに映し出されたとき、戸塚は愕然とした。
壁にもたれかかり、脚を投げ出した成木は、その左腕から鮮血を滴らせていたのだ。囚人服は上下とも灰色なのに、成木のズボンは赤く染まっている。
自殺!
戸塚は咄嗟にそう判断した。素早くテンキーに何事か打ち込んで鉄扉を開ける。自動開閉の扉が開くが早いか戸塚は中に飛び込んだが、床の水溜まりに足を滑らせそうになった。悪態をつきかけて下を向いた瞬間、彼は言葉を失った。
戸塚は成木から出た血の海の中に立っていたのだ。革靴に染み込む血の感触に彼はパニックに陥りかけたものの、牢の扉が開けられたのを知った峰の声が、スピーカーから怒鳴ってきたために辛うじて我に返った。
「どうしたんです戸塚さん、大丈夫ですか。」
「救急車を呼んでくれ、12号室の成木が自殺を図った。」
「何てこった、判った。今すぐ呼ぶよ。」峰の声はにわかに緊張した。
しかしその言葉に対する戸塚の科白は、意外なものであった。
「いや、待ってくれ、間違いだ。」
「...どう言うことだ戸塚さん。」訝しげに、スピーカーの怒鳴り声が響く。
戸塚は壁上のマイクに手を伸ばしながら言った。
「俺の見間違いだったよ。モニターで見たら変な格好で寝てるから、死んでるように見えて思わず開けてしまった。」
「だってそんなこと...」
「マイクの調子が悪いようだな。よく聞こえないぞ。」
彼はマイクを引き抜き、同時にスピーカーからの声も途絶えた。
戸塚は無表情に成木を見つめ、ゆっくりと彼に近づくとその手で成木の頬に優しく触れた。
「全く。ほんとに死ぬかと思いましたよ。のろまな男だ。」
「ううっ。」戸塚は混乱が頂点に達していた。突如として自分を襲った意識混濁から我に返ると、自分を見下ろしているのは自分だったからだ。いったい、どういうことだ...。彼の混乱は治まるはずもない。だが、見下ろしている方の自分は、触れていた手を自身の顔から離すと言った。
「いやぁ。戸塚さん...とおっしゃるようですね。どうですか。他人の身体に入った気持ちは。」
成木、彼が戸塚の身体の中から語りかけたのだ。傷ついた成木自身の体にいる戸塚の心に。
転移可能者の中でもごくわずかの者にしか出来ないと言われるのが、この様に他人の精神までをも転移させてしまう力、異者転移と呼ばれる能力であった。
成木の底知れない力の犠牲者が、また一人出た...。
戸塚は言われたことが理解できないでいた。いや、理解を拒んだ...とても信じられなかったといった方が適切であろう。だが、手から流れる血の暖かみは、受け入れ難いその言葉が事実であることを語っていた。そして何よりも、頭蓋を介さないで鼓膜に辿り着いた自分の声が、まるで他人のもののように聞こえたことが、更に迅速に彼の脳内にある血の気を引かせていた。
「お、お前正気か...こんな事をして...。」
成木の身体の中に閉じこめられた戸塚は、次々に死んでゆく脳細胞を目一杯働かせて成木を非難した。離魂体を自ら殺すジャッカーなど狂っている。
「私を気遣ってくれて恐縮ですね。」戸塚をジャックした成木は言った。「ご心配には及びません。私には...実体がありませんでね。」
「!」
「そう。私は離魂体を持たなくても生存していられるのです。もう、十年にもなりますか...。」
精神だけが生きている状態...それはとり憑く身体さえあればいつまでも生きることが出来るということだ。成木にはジャッカーにとっての唯一の弱点、本体が存在しないというのか。何の感傷もなく自分の身体に致命傷を与えたのは、自棄からきた行為ではなかった。そうではなく...。たった今まで使っていた身体を見つめる成木の目には、乗り捨てた車を眺める程度の感傷しかなかったろう。
「そ、そんな馬鹿な...。馬鹿なことが...。だいたい、私は近づきもしなかったのに...。」
かつて成木のいた身体の中にいる戸塚は、もはや腕を上げることさえできず、ただただ混乱の渦中にある疑問を反芻するばかりだった。
「あなたの名誉のために言っておきましょう。あなたに落ち度は全くありませんでしたよ。あなたは私の様子を見ても取り乱さなかったし、ましてや私に触れるなどということもしなかった。
「あなたが運が悪かったとすれば、私の血に足を浸したことですよ。血液は転移時に精神を運ぶのに最高の媒質でね。これを利用すれば私には遠隔転移が出来るのですよ。」
「...う...。」
自分の身体が歩き去る音を聴きながら戸塚は絶命した。
ほとんど人の手にかかったことのない草っ原の中を、分け入るようにして移動する人の群があった。中空に浮かぶ月だけが、彼らの動きを追っている。群とは言っても、それぞれがかなりの距離を置いて行動し、決して人には察知されぬように進んでいた。彼らの目指す方向には、白塀と、その奥にある窓のない聳え立つ建物がある。そう。彼らはその建物の中にいる一人の男を暗殺するためにここにやって来たのだ。パシフィックに命を受けたクール隊第三部隊が...。だが、プリンスホテルで無惨な敗北を喫した彼らが、成木に、ジャッカーに勝てるのか。
彼らは皆一様に迷彩服を着込み、手には刃渡り20cmは軽くあるであろうナイフ、消音器をつけた銃を脇に据え付けていた。が、その出で立ちの中で特に異彩を放っているのは、頭から被った奇妙な布であろう。彼らの顔を完全に隠すその黒い布は、一見して判断する限りでは手にも達していたが、実際のところ迷彩服の下全身に身につけていた。一見ダイバースーツかとも思えるこの服を着込んだ彼らの表情は、外から窺い知ることは出来ない。だがどの男たちも、自信に満ちた表情を浮かべていた。
彼らが全身を覆っている服は、基本的には先に馳が着ていた物と同じコンセプトで造られた、対ジャッカー用の転移防止スーツだ。彼らの自信はこのスーツの材質に帰着する。彼のスーツは超合金の極細繊維より成るものなのだ。思い出していただきたい。転移は肌に触れずとも、薄い有機物であればそれが中間に介在していても可能であった。しかるにこのスーツは、無機物からできているのだ。
ジャッカーの、心情面での認知の遅れは目立つアメリカも、こと科学的実用面に関しては、軍は日本の対特に決して劣らぬ装備を開発していたということだ。
ジャッキングのできないジャッカーなど畏るるに足らず。いまや彼らからは自信をも凌駕する殺意が浮かんでいた。復讐に端を発する殺意を。
自分がいた独房の扉を閉め、廊下にある監視カメラの一つに手を挙げて成木は言った。
「やぁ、さっきは悪かった。成木は大丈夫だよ。よく寝ていたよ。」
永遠にね...。心の中で、そう成木は続ける。
カメラの横にあるスピーカーが答えた。
「びっくりしたじゃないですか。気をつけて下さいよ。」
「すまん。ついでに中を少し回ってから戻ろう。」
「お願いします。」スピーカーからの声はそこで途絶えた。
成木は戸塚の記憶を探りつつ、どの方法で逃げ出せばよいかを考えていた。そして偶然、記憶の中に、自分と同様にここに収容されている男の情報を読みとった。
操乱春名...二週間前に収監...裁判は十日後...計画的転移犯罪容疑...
その男の記憶を辿るにつれ、彼はその唇を歪めていった。邪悪な計画がそこに浮かんでいる事は明らかだった。
そして歩を男が収監されている房に進め、その鉄扉の前に立ち止まった。
成木は扉横のテンキーパネルに目をやった。二,三のボタンを操作すると、パネル上部の小型モニターに中の様子が映し出される。小さな照明が一つしかない部屋の中は薄暗く、ひどく雑然としている様子で、破壊されてみる影もないベッドの破片が散らばっている。操乱と言うらしいその男は、部屋の片隅にうずくまって死んだ様に動かない...。
収容時の原始拘禁反応も一段落、目下のところ下層意識規制による擬死反射状態、と言ったところか...。成木は目の前に蹲っている男の性格を推定している。精神の未成熟、社会性の欠如、これは...願ってもない男のようだ。それなら...。
特拘の中には五十の独房がある。その各部屋の天井の一隅には一つ、監視カメラが取り付けられている。現在収監されているのは三十人であり、通路に配された分は十台ある。とすれば、現在稼働しているカメラは四十台である。ところが監視室にあるモニターは、十台しかないのだ。つまり、表示する側はどうやっても四分割する必要があるのだ。
成木は興味を失せたように操乱の房から離れたが、自分を写す通路のカメラがその動きを停止するや、素早く彼の房に立ち戻った。
表示モニターは一分を四つに、つまり一台十五秒間表示する。四階建ての一階づつを集中表示するから、操乱の房のカメラも今は何も写していない。
四十五秒間が勝負。
成木は再び素早くパネルを操作し、今度は胸ポケットからカードを出してロックを解いた。これは食事を運び入れるときや正式に出入りをするときなど、警備室のアラームをいちいち鳴らさないために用いるものだ。
小さな吐息をたてて、空気圧制御の扉が静かに開いた。
一歩中に入るや、まず成木は天井の監視カメラを見た。ズームしない。止まっているな。彼は高らかに言った。
「起きたまえ操乱春名。お前の出番だ。」
成木は操乱にゆっくりと近付き、屈んで背中越しに彼の肩に手を駆けた。
途端、操乱は素早く身体を反転させ、隠し持っていた鋭利な鉄棒を突き立てた。棒は制服を突き抜け、成木の腹部に刺さった。
操乱はすぐさま起きあがると、立ち上がりかけた成木に突進して壁にたたきつけた。体重を乗せた鉄棒は深々と黄泉の身体をえぐる。
「は、はははは、見たかこのクソ看守野郎。良くもさんざん今までこんな臭ぇ所に閉じこめてくれたなぁ。」拘禁恐怖に精神を歪めた操乱は興奮して叫ぶ。
「ベッド壊してよぉ、こいつ作んのには苦労したぜぇ。気付かねぇとはお粗末だったよな。でもよ」
彼は最後にこう言った。ぞっとするほど冷静な声で。
「許してやんねぇよ。」
が、なんということだろう。血も凍る想いをしたのは実は、操乱の方だったのである。それも無理はない。致命傷を追わされながらもその看守は超然と彼を見おろしていたのだから。そして男はゆっくりと操乱の頬に触れながら呟いた。
「素晴らしい...あらためて言おう。 お前の出番だ。」
永遠とも思える時間は、まだ三十秒しか経っていなかった。
集中監視室の扉が音を立てて開いた。峰が驚いて振り向くと、そこには血だらけになった戸塚と、彼の頚をひっ掴んで盾にしている操乱の姿があった。
「なっ、貴様!」
特拘の所員に選ばれるだけのことはある。峰は叫ぶや直ぐさま立ち上がり、腰の拳銃を構えた。
「す、すまん。」戸塚が力無く言う。
「しっかりして下さい。今助けてあげます。」峰は撃鉄を降ろした。「操乱。馬鹿な真似は止めて戸塚さんをこっちに渡せ、本体にいるジャッカーがこの特拘から逃げられると思うのか。」
峰の銃の照準は操乱の眉間。当たれば即死、どう出る操乱。
ところが意外なことに、操乱は言われた通りに戸塚を峰の足下に投げて寄こした。観念したのか...。峰は疑問が蟠ったが、とにかく戸塚さんを助けることが先決だ。峰は銃口を操乱に向けたまま戸塚をいたわろうと近づいた。
そして、彼は戸塚の容体を探るため、戸塚の頚動脈に触れた...。
「よし、俺達も出る算段をしようか。」大野が河合と原尾の落ち着いたのを見計らっていった。...も?
「えぇ。でもあなたはまだ何も食べていないわ。」原尾が心配して言った。
「心配してくれてありがと。だけどクールにやられた顎が痛くって食べられないのよ。ホント。」
「でも...。」大野は戯けて見せたものの、原尾を和ませられなかった。
膝を抱えて二人の会話を聴いていた河合は、おもむろに言った。
「それにしても、このチョコは何処に隠していたの。」
にこやかにしていた大野の表情がほんの一瞬、曇ったのが原尾には判った。そして同時にその憂いが、彼が床に落としている方の腕に起因することも何となく悟った。プリンスホテルの地下駐車場で、大野と対峙したクールは彼に何と言っていたっけ。あの時は朦朧としていたのではっきりとは覚えていなかったが、確かこのことに関係していた様な...。
「それかい?」大野は原尾を一瞥してから言った。「ここさ。」
と、彼は袖をまくり、二の腕の筋の辺りを見せた。そこは皮膚がパックリと割けているにも関わらず、傷口は血肉色ではなかった。薄明かりに更に目を凝らして見ると、中はどう見ても金属光沢を放っている様に見えた。
「お察しの通り、俺の左腕は特別製の義手でね。今電池一個で動かしてるから、余った空間にいろいろ入れるんだよ。で、今週のビックリドッキリはそれって訳。」いつもの調子で軽く大野は言った。しかし食いもん入れるか普通、主人公ならバーンと秘密のメカでも入れとけよ。と、筆者は思う。ふう。どうやって逃がそうか...。
興味を惹かれたらしい河合がぽつりぽつりと質問をしていたが、原尾にはほとんど耳に入っていなかった。この男の、ジャッカーハンターであるとしか知らぬ大野という男についての、知り合ってからの短期間に余りにも多く湧出した謎が、壁を壊すように溶けていったからだ。銃弾を弾き返し、人並み外れたパワーを放つ。全く悟られずに遠く離れた人物の声を録音し...。そして何よりも、ジャッカーに転移をさせなかった!
義手。機械製の左腕...。時折身ぶりを交えて話す大野を見るかぎりでは、あまりにも自然に動くその腕が本物でないとはとても信じられないが、認めるしかない。
原尾は漸く頭の整理がついてきたが、逆に生じた疑問もあった。元の腕はどうなったのか。
「高かったんだぜ。」
「いくらかかったの。」
「なに。ほんの八億さ。」
「八...ほんのなんて嘘ばっかり。あんなボロ車乗ってるくせに。」
「す、鋭いね...。」
河合に陽気に合わせている大野に、僅かに無理をしている気配が感じられた原尾には、その疑問を口にすることはできなかった。
永遠に閉ざされたままかと思われた扉が開けられたのは、それから五分後であった。
扉を開け放って部屋の中に踏み込んだ三人の兵士たちは、薄暗い部屋の中に差し込んだ通路の光が照らし出したのが二人の女だけだったことに、本能的に危険を察した。ためにそれぞれが手にしていた銃の引き金に当てる指に力を込めようとした...。
一人が延髄に衝撃を受けて倒れた。二人目は頭上からまともに重量物を受け、体制を大きく崩す。三人目は銃を落下物に向けたが、引き金を引ききる前に手刀によってたたき落とされた。原尾がその兵士にとりつく。まだ活発に動けないために攻撃に参加せず傍観している河合も、逃げられるかもしれない可能性が広がっていくことに興奮を隠せない。
天井に貼り付いていた大野を端緒とした奇襲攻撃は成功したかに見えた。が、大野が体重を乗せている兵士は大野の落下速度を加えた全体重に、膝を屈せず堪えきった。
「ち!」
そしてあろうことか、逆に大野の足を掴んで床に叩き付けた。頭から落下した大野は辛うじて手を床に突いて体勢を立て直したが、既に相手が自分に銃を向けていることを知り、動きを止めた。視ると原尾も後ろ手にされて抵抗できなくなっていた。唯一倒れた男も、すぐに起きあがって体勢を立て直した。大野は自分の計算が甘かったのを痛感した。プロ相手、それも選りすぐりと言われるクール隊に、力押しは甘かったか。大野は舌打ちした。
捕集者たちの一瞬の抵抗は終わり、緊張に満ちた静寂の数瞬がそれに続く...。
「済んだか。」通路で交わされた話し声がその静けさで部屋にも聞こえ、そしてその声の主が二人の兵士を伴って入ってきた。パシフィックだった。
「無駄なことをする。彼らが誰だか知らなかったのかね。」大いに皮肉の篭った言い方でパシフィックは言った。後ろ手に組んだ手が、立場の絶対的有利を演出していた。
「今思い出したところだよ。だがまさかあんた直々にお出ましとは悼みいるね。」
「クールはお前たち相手に十分働いたからな、休憩させているのだ。」
だからわざわざあんたが出て来るってのか。危険が去ってからのこのこ出てくるような指揮官殿に、本来表情を伏せるべき兵士達があからさまに不満顔してるぜ。大野は内心笑みを浮かべていた。これならいつか、隙ができる。
「あの旦那を残業させなかったこと、後悔するかもしれないよ。」
パシフィックは世間話を打ち切り、本題に入った。
「ミス原尾。ご同行願えますかな。」
「彼女はあんたたちが探しているジャッカーについては何も知らない。たとえ自白剤を使ったって何も出てこんぞ。」
パシフィックの返答は、大野の予想した中でも最悪のものだった。
「ハンターのお前が知らぬ筈があるまい。この女性はジャッカーに憑かれた。それだけで十分なのだよ。」
イド催眠だ。心中歯がみしつつ大野は思った。イド催眠にかけて深層意識での活動の航跡を辿るつもりなのだ。イド催眠法は被験者に対しての精神的苦痛が甚大なために、臨床試験時でも許可されることはまず無い方法であるが、囚われの身である原尾には、否も応もないということだ。彼女は正気を失うかもしれない...。
兵士は、原尾を羽交い締めにしたまま連れ去ろうとするが、大野にはどうすることもできない。
「そうそう。」パシフィックは脇に従っていた兵士に目配せした。「そこのお嬢さんは既に用済みになっておったな。」
三人の兵士がが銃を河合に向けた。彼らは躊躇いもなく引き金を引く。
「ば、馬鹿野郎!」
大野は横っ飛びする。彼を牽制していた兵士がすかさず弾を撃ち、大野の右足に当たった。構わず大野は左腕を大きく広げて河合の心臓を庇った。いずれ劣らぬ射撃のプロたちの撃った三発の銃弾は、正確にその急所を狙っていたため、二発は大野の左腕に当たったが、残りの一発は無惨にもそれを掠めた。
勢い余って壁にぶつかった大野が足の痛みも忘れて振り返った。河合は自分の胸にできた銃創を呆然と見つめる。黒いスーツに包まれた胸に、深紅の花の蕾ががゆっくりと開いていくのを視て、彼女は床に伏した。
「こ、この野郎。」大野がかつて無いほどの怒りの表情でパシフィックを睨みつけて立ち上がった。弾丸がどこかを故障させたのか、彼の左腕はだらしなくぶら下がっている。状況はさらに悪くなった。四人の兵士の銃口が既に大野に向けられていたからだ。
「やれやれ。しょうの無い男だな。」パシフィックは平均以上に張り出した腹を揺らして冷ややかに笑う。「ハンターとしての知識を素直に提供する気があるなら、もう少しだけ長生きができたものを。」
その言葉が合図になったのであろう。大野は四人の兵士に殺意が加えられたことを本能的に感じとった。パシフィックの背後で口を押さえられた原尾が、何かを訴えかける視線を自分に向けていた。これまでか。しかし大野は最後まで彼らに対して眼を逸らさない。
「!」兵士らの視線が自分から外れたことに大野は気付いた。何を視てるんだ。思う間もなく大野は目を剥いた。自分に近い方にいた二人の兵士の頭が無くなったのである。
いや、頚から上の物体は無くなったのではなかった。それは壁にぶつかってバウンドし、残りの二人の兵士の足下に転がった。その横に立つ黒い影...。
「ひ、ひいぃ。」二人が死んだのはその影のせいだと本能的に悟った兵士は、銃をそいつに向けて狂ったように乱射した。影はあっと言う間にそれを避け、跳弾が部屋を駆け回って大野の肩を抉る。影はその間になおも取り乱している兵士に近づくとその腹部に攻撃を仕掛けた。
その凄まじい破壊力は背中まで突き抜けるだけでは飽きたらず、男の身体を真っ二つにする。
「な、な、何が起こったんだ。」
周囲の誰もが思ったその言葉を代表してパシフィックが吐いた。今や下半身のみで立っている兵士の名残を後にしたその影は、恐怖心を露につっ立っているもう一人の兵士の脇に電光の如く近づき、そこで一瞬動きを止めた。
通路からの光とのコントラストに漸く慣れた人々の目に映ったその影の正体、それは河合であった。
さっきまでの彼女の、寧ろ華奢とさえ思えたその体躯はなりを潜め、運動能力に必要と思われる部分の筋肉のみが見事に浮き出ていた。今、次の攻撃のために来るべき跳躍を待つ彼女のその蹲る全身は、芸術的とすら思える流線型を映し出している。
全身が攻撃心の固まりのようなそれが、プリンスホテルのエレベーターで見せたあの姿だということを、大野はすぐに気がついた。いや、見間違えようがない。暗い壁をバックにした彼女の目は、淡い光を放っていたのだから。
河合は再びその身体を動かした。
速い!!
瞬く間もなく自分の脇にすり寄られた兵士は、命請いをする事もできずその喉を失った。
「ば、化け物め!」原尾を抱えたまま、最後の兵士が銃を撃つ。河合はそれを易々と躱して、攻撃態勢に移ろうとする。
どん。兵士は原尾ごと部屋の中に突き出された。パシフィックが突き飛ばしたのだ。二人は床にバラバラに倒れる。
ちっ。大野はそのやり方に頭にきたのか、小石のようなものを投げつけた。
しかしパシフィックには抗議の意思も届かなかったらしく、
「後は頼んだぞ。」それだけ言うと扉を閉めてしまった。
「畜生。」残された兵士はそれでも何とか河合をしとめようと起きあがって銃を向けようとするが、挑戦空しくその腕は既に宙に回転しているところだった。
「やめ!」戦闘力を失った兵を助けようと大野が制する間もなく、河合の一撃は男の心臓を壁にぶちまけていた...。
河合がそのテンションをゆっくりとだが下げてゆく。部屋に静けさが戻ったのはしかし、目の前に飛んできた肉塊を見て、原尾が胃液まで吐き出した後だった。
獲物がすべて死んでしまったことで退屈したのだろうか。殺戮の悪魔は姿を隠し、河合が再び己を取り戻した。だが同時に、最後の生気にひくつく肉体の残骸が転がる部屋の真ん中に、彼女もまた倒れ伏した。大野は、華奢な身体に戻った彼女の頚に手を回してそっと抱き起こす。河合は苦痛のために苦心しながらも話し始めた。
「あなた...客観的に自分を見ろなんて、偉そうに言ってくれたわよね。...私の中にはね、本当に別の心がいるのよ。」
漸く冷静になった原尾はその言葉を聞いて、河合が自分のことを多重人格者であると言っているのかと思ったが、大野は事実を見抜いていたようだった。
「豹...か。」
河合は微笑んだ。
「そうよ。黄泉は私の弱い心を守るために、豹の心をくれたわ。それは夜か漆黒の闇の中になると現れて、私の身体を変身させるの...。どんな動物よりも華麗に、しなやかな強さを持つ豹の姿に...。」
「あまり喋ってはだめよ。」苦しげな表情を見かねて原尾が制する。
「いえ、私はこの傷でもうすぐ死ぬわ。だけど豹の心は死にはしない。そして私が死んだらもう、獣の心に歯止めを利かせるものは無くなる。だから...
逃げて...。私に近づかないで。」
最後の言葉を吐いて、彼女はぐったりと頭を垂れたが、大野は彼女が自分の腕の中で別のものに変わっていくのを肌で感じた。盛り上がり、堅くなってゆく筋肉。そして妖しく輝きだす瞳...。彼女は再び獣になろうとしている。
「ま、待て。どうして俺を助けてくれたんだ。一人で逃げれば意識のあるうちに手当できたかもしれないのに。」
彼女の目に僅かに河合が戻った。浮かんだ表情は、意外にも穏やかなものだった。
「あなたが、私と同じ匂いを持っていたからよ...。」
河合は自らの唇を大野の口に当てた。ジャッカーではない大野にさえ、彼女の命の火が消えてゆくのが分かった...。
バンッ。弾かれたように河合は飛び退いた。意識を無くした自分の、最初の犠牲者として大野を選ばないようにするためのこの行為を最後に、彼女の意識は消えた...。
豹と化した河合は着地するや、風を切る跳躍を扉の方向に向けた。その脅威的なスピードは、体躯のブチ当たった扉を破るのに十分だった。
六人目の犠牲者は、扉をいましも開けようとしていた兵士だった。鉄扉が彼に大型トラックの衝撃力でもってぶつかり、扉は兵士ごと反対側の壁に音を立ててめり込んだ。
ザーッ。
壁と扉に挟まれた兵士の血流が、シャワーとなって降り注ぐ。時ならぬ紅い驟雨は、河合の起こす惨劇の幕を切って落とした。
一番に飛び込んで部屋の中に機関銃の速射を浴びせる役割だった男が、扉に貼り付いていた河合と眼があった。
「うっ!」男は危うく心臓を止めかけたが、間一髪の所で引き金を引いた。だが河合は弾が出る瞬間、その細い指先で軽く銃口の向きを変えた。一秒間に三十発を連射するその銃は、扉の反対側にいた三人の兵士をなぎ倒すのに十分な弾丸を放った。
自分のミスに呆然とする兵士。男は協力した謝礼に、河合からその喉に口づけを受け取った。しかし彼女が離れたとき、彼の喉笛はなくなっている。
た、たった五秒で俺たちクール隊が五人も...。腹部に八発の銃弾を喰らった男は、自分の死すら忘れて恐怖した。
野生の雌豹は、河合の優しき心の裏面として、長く虜となっていたその心をようやく解放した。転移は長期に渉るほどその精神は身体になじむ。今や彼女は河合の身体でもその能力を120%引き出すことができるまでになっていたのだ。そして昼なお暗い密林での孤独な狩りで培った一撃必殺の殺傷技術は、慈悲を消し去った人間の頭脳を得て神域にさえ達した。
「に...、逃げられた。バケモノに...。」自分の頭を掠めて、通路を風の様に飛び去っていった河合の報告を辛うじて通信してから息絶えたこの男は、寧ろその精神力に敬意を表すべきほどだったろう。
「逃げるぞ、マキちゃん。」
大野はよろよろとおぼつかない足どりで立ちあがった。太股から流れた血が足を染めている。
「な、何てこというのよ。彼女を助けないと。」言って、原尾は後悔した。俯きっぱなしだった大野の表情がやっと見られたからだ。その顔は自責と悔恨のみで構成されていた。
「俺は、生きていて嫌なことが一つだけある...。それは自分の非力を思い知らされることだ。」
力無い大野の独白は、原尾に不意に既視感を湧かせた。自分が警視庁で、成木にノヴァを殺されたときに感じたあの思い...。
「俺は彼女に助けられたのに、彼女を助けることはできなかった。だからせめて、彼女の行為を無にしたくない...。」
原尾は黙って大野に肩を貸した。大野はポツリと言う。
「俺は、残酷な男だ。」
「クール! クール!!」
取り乱したパシフィックが実験室にやってきたとき、クールは自分の軍服を着終えた所だった。
「河合が...、成木とかいうジャッカーのオンナが...大変だ!」
「ほう。」クールは眼を細めた。
「殺せ! あいつは人間じゃない。」バシフィックの声は恐怖に染まっている。
やはりな。クールは河合を捕まえたときのことを思い出していた。あの時、奴は俺すら反応できないほどの速度で俺の脇に近づいた。あれはやはり奴の隠れた能力だったのだ。
「OKボス。」クールは頷いた。そして賺さず部下に命令を下した。
「女はこっちに来ているのだな。臨戦態勢抜かるな。二番隊は残りのジャップ共を捕らえろ、無理なら殺しても構わん。」
クールは笑みを浮かべた。思わぬ好敵手の再登場に、彼の気分は昂揚しているのだ。来い。屈辱は返してやる。
床に、壁に、天井に...。あらゆる場所を駆使して突進する河合に、拳銃は無力に等しかった。照準がつけ難いことは勿論、彼女は兵達の手元を見て弾道を計算することさえやってのける。そして一発外したら最後、隼の如き速度で影が脇を掠め、結果、身体のどこかは確実になくなるのだ。たといマシンガンを乱射していても、彼女のスピードは一向に衰えない。当たっている弾もある筈なのに、彼女が過ぎ去った後には原型すら留めぬ無惨な死骸が散乱していくばかり...。それは、バケモノを起こしてしまった報いか...。
不意に、河合は横っ腹を半分ほど抉られてたまらず倒れた。倒れながらも状況判断のために眼を素早く動かす。ショットガン...。正面10mのあの男か...。彼女は脇腹の痛みも構わず突進し、男の手前にいた兵士の喉にかぶりついて全身を回転させた。男はその勢いにたまらず空中で逆さまになり、恐怖に負けて仲間ごと河合を葬ろうとして発射された二発目の散弾を、その身に一身に受けた。ボロボロになったその男を突き破って彼女は残りの距離を詰め、ショットガンの射撃手をしとめた。
放物線を描いて、射撃手の半身が地に伏したとき、周囲には河合の他に生存者はいなくなっていた。
彼女は頭を垂れて眼を閉じた。そして三秒だけ休むと、再び走り出して階段を駆け上がる。何故って? 本能だろう。上には強い奴がいるのだ。
大野は原尾に肩を借りて何とかエレベーターまで辿り着いた。地下一階がおそらく駐車場だろうとあたりをつけてそこに降る。二人が逃げ果せるとすれば、車を奪うしかあるまい。
エレベーターの扉が開くとき、二人は両側に分かれて奇襲に備えたが、薄暗い駐車場内のひんやりとした空気が入ってきただけで、人の気配はないようだった。豹となった河合がいかに派手に暴れているかが判る。
大野は一番近くにあったベンツの窓ガラスを右腕で割ろうとしたが、強化ガラスだったらしく、目から涙を出しただけだった。
「く、そー。左腕さえ動けばこんなもん。」大野は俯いてしばし痛がる。
「開いたわよ。」原尾が彼に声をかけた。
「へっ?」頓狂な声を上げて彼が振り向くと、原尾が曲げたヘアピンを元に戻して頭に着け直していた。ロングにした髪の奥に隠していたらしい。手錠もああやって外したのか。泥棒でもやってけるな。大野は大口を開けたまま思った。
原尾は瞬間サイドミラーでヘアスタイルを見てからドアを開けた。真っ先にキーの部分に目をやる。
「どうだい。そっちの細工もすぐできそうか。」
大野にもやれることはやれるが、右腕一本では時間がかかりすぎる。
「二分頂戴。ちょっと手こずりそうだわ。」
大野は口笛を吹くと、追手が来ないか見張りをすることにした。
一通り見回すが、外に向かって口を広げる出口の他には、エレベーター以外に進入路は無い。その隣は配電室だし...。
「ちょっと借りる。」
大野は原尾の髪からヘアピンをひったくると、配電室に向かった。
「ちょっと何。」
「河合にせめての加勢をする。」
大野はそう言うと配電室のドアに取り付いてヘアピンを差し込み、三秒でドアを開けた。
「動くわよ。」
原尾が叫ぶまでもなく、狭い空間にエンジン音が轟き渡った。
「こっちも済んだ。」勢いよく扉を閉め、大野は片足を引きずりながら目一杯走った。
その時、エレベーターの扉が開き、中の兵士達がマシンガンを乱射してきた。
「はやく!」原尾が叫んだ。半ばドアから出した彼女の頭を弾が掠める。
五人がわらわらと出てきた。これは多勢に無勢、逃げるが勝ちだ。
「主人公には当てるなよ!」大野は訳の分からないことを叫ぶや、兵達に左半身を向けて突っ走る。腕が四発弾いてくれたが、残念ながらそのうち二発は身体の肉を抉って跳ねた。作者、この野郎!
大野は痛みを堪えつつベンツに辿り着き、後ろ手にドアを開けて飛び込んだが、慌てすぎて運転席の方に入ってしまった。
「何やってんのよこんな時に!」
「言わなかったっけ? 膝枕が憧れだったんだ。」
「早くドア閉めなさい。出すわよ。」原尾はギアをバックに入れると、タイヤを軋ませてベンツを後退させた。近づいてきた兵士達が叫び声をあげて周囲に飛び散る。までは良かったが、大野はまだ車の外に半ば脚を出している。彼が座席の隙間から後ろを覗くと、とても退いてくれそうにない四角い柱が近づいてきた。
「わたたたたた!」大野は痛みも忘れて原尾の脚の上を這う。間一髪、柱はドアと右足のシューズを持っていった。
せっかくの防弾ドアが無くなって、兵士達の乱射の内の幾つかは車内に入り込む。
どうする! 原尾は車の後退を止め、ギアをローに入れた。兵達の中をもう一度突っ切らないと出口には...。
「とまるのはホテルだけでいいよ。」大野が右手でアクセルを押した。
「結構軽率ね、あなた!」加速に背中をシートに押さえつけられながら原尾は叫んだが、すぐに悟った。このまま車内に撃ち込まれたら、真っ先に当たるのは自分に覆い被さっている大野ではないか。
確かに原尾を庇ってやるつもりではいたが、クール隊の兵が撃つ弾が外れる偶然に期待するほど大野は楽観主義者ではない。
ベンツが自分たちの前を大口開けて横切ろうとしている。蜂の巣にしてやる。兵達はめいめいに照準を合わせた。
彼らの前に大野が尻を向けきったときだ。兵達の背後の配電室が轟音と共に弾けた。兵達は爆風で吹き飛ばされる。が、風圧は狭い空間では衰えを知らず、大野達の車もその風を横腹にまともに受けて横転しそうになる。原尾のハンドルさばきで辛うじてタイヤは地面に接地したが、バランスを無くした車は壁をいやというほど擦り、後部ドアと大野の左足シューズをもぎ取った。
天井のライトが消えたのに、僅かに明るい。大野は右座席に這いながら思った。火災になったようだ。これで奴等は追ってこれまい。
「あぁ!」
「どした。街の灯が感動的か。」
のんきに言って顔を上げた大野は目を剥いた。出口のシャッターが高速で降りてきていたのだ。火災で自動的に閉まるのか。わざわざ非常電源まで使って...。
「伏せろー!」
大野が叫ぶまでもなく、原尾は彼に折り重なった。
ガシャーン。ベンツをオープンカーにしてシャッターは背後に過ぎ去った。二人を乗せた車は、街の灯の中にジャンプした。
突然電灯が消え、臨戦態勢を取っていたクール隊に動揺が走った。
「落ちつけ、すぐに非常灯が灯る。」クールの言葉が響くと共にざわめきは消えていった。
クールはショットガンを持たせた兵達を通路の一番端に集め、伏せて三人片膝で二人、そして立ち構えで二人と、全空間を網羅する体勢を取らせた。通路の空間全部に弾丸が飛んでゆくことになる。風の速さを持つ者といえどもこれは避けられまい。
しかし。クールはこんな時に妙ではあるが、些細なことが気になっていた。すぐ目の前にある二つの光は何処から反射してるんだ。さっきは無かったようだったが...。
三秒して非常灯が灯ったが、流石のクールも驚嘆せずにはいられなかった。非常灯の赤き光が作り出す幻想世界で、二つの光を中心に忽然と河合の姿を誘ったのだから。
何人の命を用いたのか、血に染まっている彼女の全身は、悪夢から漏れ出た光の中でより鮮やかな朱に染まっていた。
眼前の河合は飛びかかるすんでの体勢ではいるものの、その表情からは獲物を追うときの殺意は読みとれず、ただクールを見つめるばかりだった。大体、暗闇の中であれば絶対有利だったのに...。
挑発している。彼は河合の意図を察し、不敵とも思える笑みを浮かべた。
脇の兵が発砲しようとした。
「待て。」クールは全員を制した。そして次の言葉で全員を凍りつかせた。「手を出したら殺す。」
好敵手同士が、対峙する。
深紅の世界に二人の戦士が対峙する。クールと河合。各々武器はその身体のみ。邪魔するものの無くなった両者は、自身の精神の全てを一つのことに集中することが可能になった。畢竟、二人が滾らせたもの、そは互いへの殺意のみ。
それはすぐにも自分自身の身体には収まりきらないほど膨張し、相手を取り込もうと隙を窺うまでになる。クールは己の影が床に定着するほど慎重に前に進み、対する河合は一秒前よりも更に姿勢を低くする。
二人が別々の光源からの影を接触させた時、丁度両者の攻撃準備は臨界点に達した。
ダッ。床を蹴って河合が跳んだ。全身をバネとした跳躍はまた、全身を矢と変えてクールに挑む。
白刃がかみ合ったかのような火花が飛び、その一瞬だけ周囲が白く染まる。クールは踏み込んで拳を放った体勢を取り、河合は天井を蹴って着地体勢を取る。
河合が二度目の攻撃のために着地しようとしたときだ。彼女は頭から床にぶつかってしまった。信じられぬといった表情で起きあがった河合はそこで初めて、自分の右腕がもげていることに気付いた。無言で腕の付け根を見る河合。
驚くべきはその時、河合が自分の身体の喪失に対する感傷よりも、クールへの攻撃を優先させたことだろう。今の彼女は悲劇というものを、敵愾心を煽る要因の一つとしてしか見ていないのだ。接地した三本の手足を使って今一度クールを攻撃する。
クールは自分の脇を掠める河合のスピードが寧ろ上がっていることに驚いた。彼は背筋が冷えるほどのの喜びに打ち奮える。戦う相手が自分への殺意を高めるほど、クールはその敵と戦うことに喜びを見いだすのだ。
次だ! 彼は心中叫んだ。天井を蹴った河合が、体重を載せた攻撃をしてくる筈だ。その威力は測りがたいが、代償として空中での動きが著しく制限されるだろう。
クールは想定される彼女の攻撃の軌道からその身を避け、振り返りざま一撃を繰り出した。
「!」しかし、クールの拳は空を切った。視ると、河合は天井をその左手で突き破り、蝙蝠の様にぶら下がっているではないか。
河合の中の雌豹とて百戦錬磨の野獣だ。駆け引きではクールにすら劣らないのだ。そして体勢を崩した彼に今度こそ襲いかかる。
ちいぃ。クールは思わず毒づく。
ズン。鈍い音が空間に響く。河合の手刀がクールの胸に突き刺さっていた。
しとめた。腕に乗った衝撃の手応えに、河合は豹の笑みを浮かべた。
だが、信じがたいことに、微笑んだのはクールも同じであった。
賭は俺の勝ちのようだな。
いっかなクールといえども、河合のスピードには一目置かざるを得ない。だから彼は、一か八かの賭に出たのだ。それは自分の身体を的にして、彼女の動きを抑えるというものだ。
そして運はクールに傾いた。豹の女にとって最大の攻撃の源である機動力は、己の腕を深々とクールの胸に沈めたことによって封じられてしまったのだ。一撃必殺が絶対条件である彼女にとって、突き抜いた筈の心臓への攻撃で、クールの息の根を止められなかったのは致命的だ。
正に捨て身だが、こうでもしなけりゃお前は倒せん!
クールは河合の腕を掴み、渾身の力を込めて壁に叩きつけた。そして間髪入れず、身体を一回転させて河合の胸部に強烈な蹴りを入れた!
決着。
クールの攻撃は完璧に入った。彼の脚は河合の身体にめり込む。
「がぁああぁああ。 ぁぁ。」豹の女は断末魔の叫びをあげたが、すぐにそれは悲しいほどにか細く、消え入った。
河合は心臓を潰されて、ぐったりと通路に伏した。その瞳から光が失せ、戻る筈のない河合の心がひとときだけ宿った。
「黄...泉...。」誰にも聞かれぬ声を最後に、河合は息絶えた...。
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