月に咲く花

@lily_skymoon

1.序章

変わりゆく 花の色こそ 眩しけれ


かの望月も かなふまじかし




そこは海底。無論は人間はいない。私は普段から人間の姿をとっているが、決して人間ではない。これから話をする上で一つ解って頂きたいのは、私たちの役割についてだ。まず雨はひとりでに降るものではない。山からの使者が持って来る木の実を媒介に、その地域を担当する力の強い者が土地に雨を降らせるのだ。此処ではその方が、我が主、月夜様である。お強いだけでなく美しく、独りで生きようとしていた幼かった私を拾って下さった優しい方だ。


「空月」名を呼ばれて側に寄る。「絶対おかしい。こっちから連絡しようにも繋がらないし…」彼女が眉を曇らせていらっしゃるのは、まさに雨についてのことであった。「もう陸には三月雨が降っていないということになりますからね。どう致します、また海岸まで様子を見に行ってみましょうか?」海岸まで山からの使者を迎えに行き、また送り届けるのが彼女に長く遣える私の役目である。しかし、一度待ち合わせに使者が現れなかったきり、もう三月の間海岸に使者の方はいらっしゃっていないのだ。「何度行っても何も分からないしまた同じだろうけど…、何もしないよりはね。それじゃ、お願い出来る?」「お任せ下さい」一礼して背を向けた。「待って」突然呼び止められて振り返る。「繋がる…かも」小さく呟いた彼女の翳した手の前には、細かく振動しながら青白く光る玉のようなものが現れていた。「…様、月夜様、お聞こえか」低く力強い声が届いた。「その声は、長ね」「いかにも。長く連絡が出来ず申し訳ない」「心配したわ。何があったの?」「それが…」


そうして源山の長が話したのは、人間たちの生活の変化による悪影響だった。人間はこれまで育てた野菜や米、それに狩猟によって食べ物を手に入れていた。それが近頃、街で別の物に換える為に余分に狩猟で動物を捕る者が増えているという。私としては食糧以外の目的での殺生など理解出来なかったのだが、そういうことで源山の方々は迂闊に山から下りられない状況を強いられているらしい。「使者の中でも被害が出ていてなぁ。不甲斐ないのだが、海までは行けそうにないのだ。無理を承知でお尋ねする。どうにか山から下りずに木の実をお渡しする方法は無いだろうか」長は懇願するように言った。「そうねぇ、転送できる術はあるけど送るほうだけだし…」「此方から受け取りに行ければ良いのですが、陸では長くは生きられませんし…」月夜様に続いて言うと、彼女はばっと此方をご覧になった。「それよ!人間の姿をとれる私たちならよほど可能性がある」指を指されて思わずのけ反る。「長、此方から人(の姿をした者)を遣るわ。それで良い?」月夜様は青白い光に向き直って仰る。しかし、私たちのように海のみで暮らす者は陸では一刻と生きられないと言われている。まさかお忘れではないだろう。「それは有難い。しかし大丈夫なのか?従者殿が難しいと言っていたが」その言葉に彼女はもう一度此方をご覧になるが、すぐにふいと光のほうを向かれる。「良いわ。気にしないで」「何故ですか、月夜様!」「時間がないのでしょう?すぐに準備するわ」「分かった。皆にも伝えておこう。ご慈悲の程感謝する」「いえ、ではまた」呼び止める声に反応もなさらず、話はあっという間に決定してしまった。連絡が切られ、辺りに静けさが戻る。


月夜様は光の玉が消えたほうを見たまま少し俯かれた。「もっと良い方法が、あるんだと思う?」お話が終わった直後で普段よりも静かに思える海に、声が響いて沈んでゆく。「はい。貴方のお決めになったのは最終手段かと」一呼吸おいて彼女は表情も変えずに仰る。「例えば?」「すぐには…」代替案があった訳ではない私は言葉を濁すことしかできない。「じゃあやっぱり仕方ないわね。あんまり悠長なことも言ってられないし」彼女はぱっと顔を上げたが、仕方ないとは言っても命懸けの方法に納得するのは難しい。やり場のない思いが胸に残っている。「しかし、何方をお遣りになるおつもりですか?山は遠いと聞きます。短時間で往復出来る者などいないのではないでしょうか」「そうね、空月…」月夜様は一つ瞬きをして目を伏せられた。そして、決心したように此方を真っ直ぐに見る。「私は、貴方にお願いしたいと思っているわ」小さく息をつく。その目を見ていたくなくて下を向いた。私は他の従者と比べるとずば抜けて力が強いので、薄々予想はついていた。案の定といったところだったが、残念に思ってしまったのだ。「嫌…です。行きたくありません」駄目だ。我が儘を言って困らせてはいけない。彼女が驚いたのが気配で分かった。「それほど驚かれることでもないでしょう。月夜様、貴方は私に、死ねと仰るのですか!」月夜様は目を丸くしている。「ごめん…なさい、そんなつもりじゃ…」彼女の申し訳なさそうな表情を見て平静に戻る。自分はなんてことを言ってしまったのか。「いえ、申し訳…御座いません」少しの沈黙の後、月夜様は身を乗り出して膝に頬杖を付いた。「ねぇ空月、貴方何か誤解してない?」…え?何のことを言われているのか分からなくてその目を見つめ返す。「陸って、案外普通に生きれるものよ。一刻も無理なんてのはただの噂。実証済みなんだから。まあ、力の弱い子が行けばどれくらい平気でいられるか、分からないけど」そう言って彼女は顔を傾けて微笑まれた。もう長く生きてきたが、そんな話は一度も聞いたことがなかった。驚きの後に、そのことで取り乱してしまった恥ずかしさに襲われて顔が熱くなる。たまらなくなって片手で顔を半分覆う。「すみません。そうとは知らず…醜い姿をお見せしてしまいました」「良いわ。久しぶりに貴方の本音が聞けたことだし。それに、貴方が行かないなら私が行けば良い話なんだから」私は拳を握った。この方はいつもそうだ。さらっと仰った言葉で私の逃げ場を失くしてしまう。「貴方が行くと仰ったところで、それではお願いします、と申し上げることが出来ないのはご存知でしょう。貴方には貴方のお役目があります。元から行ける者は私しかいなかったのですね」彼女は私の言葉に笑みを消した。「…否定はしないわ」目を瞑り、そっと息を吐いて覚悟を決める。丁寧に目を開けた。「ではそのお役目、この空月がお受け致します」膝を折って下げた頭に、手が乗せられた。そのままくしゃくしゃと頭を撫でる。「月夜様…?これは一体…」月夜様は軽く微笑まれる。「大丈夫、って意味。…人間が言ってた」人間という言葉が、耳に残る。彼女は何故だか人間に好意的な感情をお持ちだ。人間は突然海にやって来ては大量に民を拐って行く敵だ。今回だって分別なく山の民を狩っているというのに。私は人間の形は便利だとは思うが、人間という生き物を好きだというのはあまり理解が出来ない。彼女の前で、それを口にすることはないが。私の頭に乗せられた彼女の手をそっと戻す。様々な感情の上に普段通りの笑顔を貼った。「このようなことをして下さらなくとも、私はもう平気ですよ。先程は勘違いをしておりましたが今はもう─」「嘘」月夜様はじっと此方をご覧になる。そして私に捕まれたままの手で私の顔を指差した。「不安で堪らないって顔に書いてある」上から貼りつけただけの笑顔は容易く剥がれ落ちた。思わず目を逸らす。彼女はふっと笑うといつもの調子で仰った。「私に隠し事は通じないって、忘れた?」それを見て私も自然といつもの調子に戻る。いつの間にか空気が張りつめていたようだ。はぁ、と一つ溜め息をついた顔にはひとりでに笑顔が滲んだ。「一体、何の術をお使いで?」「さあね。てか術じゃないし」半ば呆れたような半ば楽しそうなご様子だ。飽きるほど慣れきったその雰囲気にほっとする。「ちょっとしゃがんで」一つ息をついたところで月夜様が仰った。「なんですか」彼女の意図は考えても分からないことは解っているので、もう深く考えず言われるままに膝をついた。そのとき、ふわっと視界で金糸の髪が揺れた。次の瞬間私は彼女の腕の中で呆然としていた。月夜様は突然私を抱きしめなさったのだ。そして、私の耳のすぐ側となった唇でそっと話し始めた。「ごめんなさい、こんな任務を与えてしまって。私だって、あなたを陸に遣りたくはないの。勿論行くこと自体は言った通り噂ほど無謀ではないわ。でも陸と海じゃ環境が違い過ぎて…思い通りにいかないことがきっとたくさんある。ここじゃ当たり前に満ちている水だって探さないと無いし、あちらには人間だっている。その容姿によっては歓迎されないかも知れない。…でも忘れないで、貴方は独りじゃない。困ったら周りを頼りなさい。源山の方たちもいるし、人間だって悪い者ばかりじゃない。勿論貴方が"頼る"ということを全っ然知らないのは百も承知よ。それでも…」彼女は腕をほどくと私の肩に手を置き、真っ直ぐに私を見た。その真剣な眼差しに吸い寄せられるように、考えることも忘れてただ見つめ返す。「それでも、差しのべられた手はとるのよ。拒んでは相手を傷つけてしまうから。きっと損は無いわ。でも相手が敵だと思ったら遠慮なく逃げなさい。自分の身の安全が一番大事」そこまで言うと月夜様は一つ瞬きをされて視線を落とした。肩にやっていた手も下ろし、項垂れるように力なく斜め下を向く。そのお顔は髪で隠されてほとんど見えなかった。やはり心配事が多いのだろうか、彼女はそのまま溜め息をつくと小さく呟いた。「本当に、私が行ければ良いのに…」はっとして唇を噛み締めた。そうだ、今までずっと私にその任務を果たす能力がある前提で考えていたが、そうとは限らないのだ。瞬間的にはだいぶ強い力を発揮できるようになってはきたが、持つ力としてはまだまだ月夜様の足元にも及ばない。あぁ、私にもっと力があれば良かったのに。陸に行くことに臆したり、月夜様を不安にさせたりする必要が無い程に。しかしそれは考えても仕方がないことだ。申し訳ない気持ちで腰を上げた。一体自分に何を言う資格があろうか。それでも少しでも彼女を安心させるために笑みを作る。そうして彼女の顔を覗きこんだ。「…今教えて下さった様々のこと、常に心に留めて全身全霊臨ませて頂きます。月夜様からすれば、私ではまだまだ気がかりかとは存じますが」すると彼女は予想外にも焦ったようなご様子を見せた。「あっ違うの。私は、貴方なら絶対に出来ると思っているわ。私が行きたいっていうのは、やっぱり貴方に何かあったらって思うし…それに今回のは普段海辺まで行ってもらうのとは違ってとっても時間がかかるじゃない。だから……その…」珍しい、月夜様が良いよどむなんて。彼女は言葉を探すように目を逸らした。後ろめたいことがあるようには見えない。何がそんなに言いにくいのだろうか…。そのとき、もしかしたらと、思い付いたことがあった。「…お寂しいのですか?」月夜様はぱっと目を丸くしてこちらをご覧になったあと、また目を逸らした。「あまり…、待つのは嫌いなの」その頬が少し赤らんで見えて、思わずくすっと笑った。「なるべく早く戻りますね」月夜様は目だけをこちらにやって、軽く微笑まれた。「当然」


それからも月夜様は、彼女の持つ知識を目一杯伝えて下さった。陸ではこまめに水を摂らねばならないこと、水に触れていなければ術は使えないこと、源山へ行くには人間の村を通らねばならないこと、道中の立派な大木のある林に休憩しやすい池があることなど、知らなければ困るであろう内容ばかりだった。しかし同時に、いずれも経験した者しか知り得ないものだったことが気になった。思えば先程も人間から直接聞いたかのような物言いをなさっていた。こんなもんだったかな、と考えている彼女に、躊躇いつつ口を開いた。「あの、月夜様。…貴方は、陸へ上がったことが、人間に会ったことがおありなのですか?」彼女は空をみたまま動きを止めた。数秒間、瞬きもしなかった。そうして彼女はやがて目を伏せると、僅かに微笑んだ。「ええ。以前、人間と会話をするのが楽しくて陸に通った時期があったわ。山からの使者の案内役を貴方に任せるようになって少しした頃かしら。…もう会わなくなったけどね」「全く…存じ上げませんでした」あまり詳しく聞いてはいけない気がした。そのとき見た彼女の表情はどこか自信無さげで悲しそうで、影のある笑みを浮かべていたから。まるで知らない誰かを見ているような気分だった。


話が決まってから出立までは非常に早かった。「ちょっと見てて」月夜様は背筋を正して正座すると、見えない壁に触れるかのようにすっと目の前に手を翳した。「貴方も何度か見たことあると思うけど、これがものを転送する術ね」月夜様は説明しながら術を完成させて行く。ただの水だった所が振動し、間もなく穴が開いた。「穴の大きさは、気合いで押し広げたら良いから」そう言って穴を大きくすると、彼女はもう一度空いているほうの腕で私を抱き締めた。「気を付けて」その腕を離れると深く礼をして穴を潜った。出た場所は、立つと腰程までしか水に浸からない浅さだったので、穴の前に膝を付いた。「必ず、任務を果たして戻って参ります」「でも自分の身の安全が優先だから。絶対よ」不安そうなお顔で念押しする主に頭を下げる。「承知致しました」数秒間そのままで、顔を上げると穴は無くなっていた。


立ち上がってもっと浅瀬の、手頃な岩に腰掛ける。しばらくすると身体が適応し、髪と瞳の色が変わるらしい。「暇だ…」それを待つ間、特にすることの無かった私は仕方がなく海岸で拾った竹の欠片の加工に精を出した。そうしてどれだけの時間を過ごしただろうか。満足いくまで加工した竹で髪を束ねたときに毛先が見えて驚く。たいしたものだ、本当に黒くなっている。月夜様が陸に上がられたときは、髪色は暗くなったが黒にはならなかったそうだ。その点この髪はほとんど真っ黒に見える。内心喜びながら確認を続けていると、鮮やかな青が見えた気がして目を疑う。恐る恐る見えた辺りの髪を取って私は、先程喜んでいた自分を恥じたくなった。むらもなく黒い髪の中に一房、不自然に青い髪が混じっているのだ。大きくため息をついた。どうやら、ご丁寧に頭から毛先まで、それもまたむらなく鮮やかな青一色のようだ。これは隠せないか。諦めて海岸に上がる。海の中と比べると陸は驚く程体が重い。軽く跳ねたり舞ったりして多少慣らし、源山へと歩き始めた。少しだけ振り返り、遥か遠くにいらっしゃる月夜様を想う。「これでも貴方の右腕、必ず成し遂げて参ります。」応えるように、海からの風が鬱陶しい髪を揺らした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る