片柳隣花
大学を卒業して、
「裁判官とか、普通に公務員でもよかったかもしれないけど」
やはり、誰かの味方になれるような仕事が良かったのだ。
若くして司法試験に合格した、ともてはやされることもあったが、そんな立派なものではない、と隣花は思う。
人より感情のルールが小さいからこそ、社会のルールが入り込む余地が多かっただけなのだから。
親から長期に渡って受けた
今は理由をつけて離れて生活をして、大学も実家から遠くのところに行ったから話すことも少なくなったけれども、それでも小さな頃からのクセはなかなか抜けることはない。
「『正義』を持っていない人間の方が、この仕事は向いているのかしらね。どうなのかしら」
何かの拍子に、感情の電源がパチン、と落ちることがある。
それはたとえば、疲れているときとか、ストレスが溜まっているときとか。
冷徹な思考に、頭が支配されることがある。
隣花はひとりごちる。
「あなたは、どう思う?」
机の上にある、無表情な少女の写真に問いかける形で。
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資料にはこうある。
少女の母親は、学校の教育に疑問を覚え、校舎を訪問。担当教師と口論になり、備品を投げつけるなどをした。
教師は軽い怪我を負い、かつ精神的な損害を受けたため病院を受診。
本件は、その治療費、壊れた学校備品の修繕費、かつ精神的な慰謝料を請求するものである――
どこかで見たような事件の経緯に、隣花は半眼になる。
「まあ、表ざたになっただけよかったのかもしれないけど」
よかった、のだろうか。
母親は学校側から訴えられることになり、事件は明るみに出て法廷で主張が争われることになった。
社会的に見れば健全であり、いいことなのだろう。内々に処理されて事件が闇に葬られるよりは、よかったかもしれない。
ただ、この少女にしてみればどうなのだろう――と、似たような境遇だけに隣花は思ってしまうのだ。
「肩身が狭いわよね。こんな親ほしくないって思ってるかしら」
それとも、堂々と表舞台で母親に正義の鉄槌が下ろされることを、内心で喜んでいるだろうか。
彼女の心中は、資料に添付された写真だけでは読み取れない。そして、隣花自身も自分の気持ちを正確には把握しきれていない――モンスターペアレント。毒親。
世間でそう呼ばれている存在が生みの親であるという事実は、それだけで彼女の奥底をざわめかせる。
自分のときは、同い年と先生と、色々な人が守ってくれたため大丈夫だったけれど。
この子は、誰か味方になってくれる存在はいないのだろうか。感情を何も映していない、写真の中の少女を見る。
彼女の中でまともな感性が育っているとは、正直考えにくい。
そのことが、個人的に非常に腹立たしい。そして、さらにうんざりすることに、この子の母親の弁護人は自分なのである。
せっかく平和な場所まで逃げてきたと思ったが、やはり現実はそう簡単にはいかないらしい。
せめて学校側の弁護だったらよかったのに、と隣花はため息をついた。そうすれば母親の巻き起こした事件を責めるだけで済み、ここまで複雑な心境になることはなかった。
しかし、それでも仕事は仕事である。
法廷では情けは無用――感傷を心の奥底にしまい込み、彼女は再び書類を見た。
被告は原告に出された茶碗を投げつけるなどし、軽いやけどを負わせた。
他に頭部への切り傷も負わせている。心療内科への通院にかかった額、出されている診断書を見る。慰謝料の額は、まあそれなりだった。向こうにもまともな弁護士がついているに違いない。
世間的に見れば明らかに状況は不利であるが、被告である母親はそんな訴えを受けるいわれはない、と突っぱねていた。
となれば、こちらとしては彼女にいく請求を、なるべく軽くするしかない。
学校側の対応に落ち度はなかったか。
原告の娘への日頃の指導に、不備はなかったか。
戦法としてはこうだろう。あれこれ持ち出して、母親の行動に正当性を持たせるのだ。
あんな行動を起こしても、無理はなかった――そう裁判官に印象付けることができれば、こちらの仕事は成功したと言える。
当日の話し合いの様子、学校側の日頃の指導の状況。
場合によっては少女のプライベートにも踏み込んで調査をすることになるが。
これも依頼人の利益のためである。仕事なのだから、責任は果たさなくてはならない。
当たり前のことだ。文書で取り交わされた契約を破ることは、弁護士としてあってはならない。
依頼されたのは被告の利益の尊重であり、感情に流された社会正義の執行ではないのである。それは私刑であり、法の番人には固く禁じられていることだ。
義務を果たし、権利を主張する。
言い方を変えれば、みながやっていることでもある。
お金を払わなければパンは買えないし、労働がなければ報酬がもらえることはない。
全てはルールの元、目的と結果を求めて行われることだ。善悪などは入り込む余地がない。
利益の最大化のために、依頼人の言動を最優先に――と、今後の方針を書類に、隣花が書き込みかけたとき。
『片柳』
その手に。
彼の温かい手のひらが触れたような気がした。
『ダメだ』
声は。
どこから聞こえたのだろう。
「……
ふいに脳裏に響いたセリフに、隣花は顔を上げる。
もちろんあの同い年は死んでいないので、心霊現象ということはあり得ない。
つまり幻聴である。きっと彼がこの場にいたら、こう言っていただろうな――などという、こちらの妄想が生んだ産物に過ぎない。
ただ、そんな風にはっきりと感じられるほど、あの同い年がくれたものはこちらの心の中で息づいているらしい。
その呼びかけに応じるように、書類に置いた手はぴたりと止まっている。感情もなくただ機械的に導き出した結論は、実行するべきではない――昔のようにそう言われているようで、隣花の顔が呆れ気味に歪む。
「……じゃあ、どうしろっていうのかしら。一度裁判になってしまったら、私はもうこうするより他にないのだけど」
かつてのように馬鹿みたいに怒って、彼女の親に立ち向かってくれた彼は、いま遠く離れた場所にいる。
ここで助けを求めても、応じてくれるわけはない。第一、部外者にこの案件を漏らすわけにもいかない。
現実的に考えて――だ。
過去に散々口に出した言葉を、今度は心の底に投げる。遠い昔、乏しい感情のまま湖のほとりで語り合った、あのときのように。
どうにもならない状況をここにいない人物に相談しているのだから、自分も大概情緒豊かになったものだ。
こういうのをイマジナリフレンドというのだろうか。彼流に言うならスタンドというやつだろうか。馬鹿みたい、と鼻で笑う裏にある気持ちは、もう少し違うものように思える。
もう少しして、口に出せるくらいその感情が育ったら、形にできるのだろうが――と、ほんの少しリラックスしたからだろう。
これまで思いつかなかった解決法が、隣花の奥底から浮かび上がってきた。
「……裁判にしない、か」
つまり、和解である。
双方が互いに譲歩し、条件を調整することによって解決に導く。
実にあの同い年らしく、また面倒くさい方法だ。一応あいつも社会科の先生になったのだっけか。その目で現場と現実を見て泣けばいいのに。
「難易度としてはかなり高い。仕事としても、個人的なものも」
学校に怒鳴り込みに行くような人間に、説得が通用するのか。
さらに隣花個人としても、自分の母親のような人物を相手にするのはかなり荷が重い。
独立をしたとしても、まだまだ抱いている思いは整理しきっていないのだ。そりゃ、いつかは向かい合おうと思っていた記憶だけれども、なにも今こんな形でやらなくてもいいのではないか。
文句も言いたくなる。
けれど、まあ――実現できる可能性は、ゼロではない。
「……材料はある。聞き取り調査とか、似たような例を探して持ちかけることはできる、わね」
持てるものを総動員することになるが、やってできないこともないだろう。
そうと決まれば、今後の行動もはっきりしてくる。先ほども考えていたが、関係者への聞き込み。そして他の解決例との相似性。
紐付けられるものは全部紐付けて、依頼人に結果として叩きつけてやろう。
そのときに、彼女の娘とも会うことがあるかもしれない――最初に手に取った写真を見て、隣花は思う。
というか、会えるものならば会って話してみたい。
そして、こんな風な道もあるよとこの子に言ってあげたいのだ。今はまだ、分からなくとも。
その言葉が、いつか彼女の力になるなら。と、そこまで考えて、隣花は写真を鞄の中にしまった。
「さて――いきますか」
正義など知らないが。
今そこにいる人間を、守ることならできるだろう。
遠く離れたところにいる同い年のように、戦い続けることはできるだろう――と彼女は、軽く微笑んで外へと向かう。
そういえば今度、OBOGバンドの練習があるらしい。いつまで経っても泥のように汚くて、嫌になるような現実ばかりだけれども。
がんばって休みを取って、また彼に会いにいこう――同じ楽器の先輩のように、誇り高い象のような音を出しにいこう。
住んでいるところが遠い遠いと言われるこちらだが、あの先輩には及ばない。あとは先日、なにやら同い年の双子姉妹から確定申告のやり方を教えてくれ、などという悲鳴のような連絡ももらった。
OBOGバンドも団則を作ったから、不備がないか見てほしいとかどうのこうの――専門職を便利に使いすぎではないだろうか。金を払え。
「あとはみんなで――そうね。テーマパークに行こうかしら」
少しだけ成長した自分は、今度こそ心の底からあそこを楽しめるだろうか。
かつて教えてもらった、強さと温かさを胸に秘め。
それを与えてくれた存在に、キャラクターの耳をつける自分を想像して――隣花はくつくつと、おかしそうに笑った。
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