最終章 その島は、あなたと共に
第432話 神々の遊び
「――あれ」
と、
学校祭一日目。まだ一般客がほとんど入っていない、午前中のリハーサル中。
いったん休憩にしようという話になり、指揮者の先生が顔を上げたのだが――そこに普段にはない現象があったのだ。
コンサート会場となる体育館の、舞台の脇。
緞帳くらいの高さにある、大きな時計。
それが。
「――止まってる」
いつの間にか動かなくなっていたことに、鍵太郎も呆然と声をあげた。
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「いやあ、今年度で取り壊される体育館の、最後の本番の日に時計が止まるとはね。この会場も粋な計らいをしてくれたものだ」
時計が止まった、ということで困ったことになったと言い出すかと思いきや、城山は上機嫌なものだった。
不便さを嘆くより、言葉どおり風情を楽しんでいると見える。卒業式などの公式行事を除けば、この体育館のラストステージは今回の学校祭の演奏が最後になるのだ。
それを分かっているかのような、穏やかな沈黙。
自らの役割を悟るかのように、この会場は時を止めた。
その現象だけ見てみれば、少々出来過ぎなくらいのタイミングである。
こんなこともあるのだなと思いつつ、鍵太郎は先生に言う。
「んー、でも参りました。お客さんにも勘違いさせちゃうし、急いで電池を交換してもらいますか」
「いや、いいんじゃない。このままで」
これも演出のひとつだってアナウンスすれば大丈夫でしょう、と城山はのほほんと笑った。
この体育館の経緯とか、閉める事情とかを話せば納得はしてもらえるんじゃないかな、と先生は続ける。確かに昨今は各々が携帯などで時間は確認できるし、それほど不便なことにはならないだろう。
あらかじめこの時計は動いていません、と言っておけば大きな混乱も招かない。それに、今から学校に時計を直してくれ、と言っても今日からは学校祭だ。いち部活の都合に付き合っている暇はあるまい。
なので、このままでいいと言ってくれるなら鍵太郎としても無理をせずに済むので助かる。この偶然を無にしたくないという気持ちもあったし――と、内心でほっと一息ついていると。
城山は言った。
「よし。そういうことなら今日の宣伝演奏の曲は決まりだ。『大きなのっぽの古時計』。これしかないでしょう!」
先日の東関東大会の結果の件で、この先生にも何か一曲披露してもらう、という約束は取り付けていた。
顔だけは無駄にいい城山なので、できれば今日のコンサートの客寄せパンダ――いや、筆頭看板として活躍してもらおう、宣伝で演奏をしてもらおうと、鍵太郎は考えていたわけだが。
目を輝かせてポンと手を叩く指揮者の先生には、若干の疑わしき部分がある。
その疑問を解消するため、鍵太郎は半眼で問うた。
「……先生。もしかして今日までなんの曲やるか、考えてなかったんですか……?」
「いやいや。考えてはいたよ。でもどれもなんか、しっくりこないなあって思ってさ」
どうにも軽すぎる指揮者兼プロの奏者である城山に、部長として突っ込みを入れざるを得ない。
この先生はトロンボーン吹きでもあるわけだが、この伸び縮みする楽器の人間は、どこか天真爛漫というか、自由奔放すぎるきらいがある。
ちょうどこそこで、虹色のアフロを被ってきゃあきゃあ走り回っている同い年のように。怒られたことを怒られたと認識していないというか、その場のノリに任せてしまうというか。
それがまあ、場を盛り上げることにもつながっているのだが。だからかの楽器の人間のことは、鍵太郎も憎めないというかむしろ、好きな部類に入るのだが――
問題は、そんな行き当たりばったりで大丈夫かということだった。
しかしプロの先生は、そんな心配など無用とばかりにお茶目にウインクなどしてくる。
「大丈夫だいじょーぶ。学生時代、たまに遊んでたらできた一発芸があるからさ。今回はそれでがんばってみるよ」
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「遊んでたらできた一発芸とかさ。不穏な響きしか感じないよね……」
せっかくだからということで、城山に連れられてやってきた学校の正面入口で。
鍵太郎はコンサートの宣伝看板を持って、まだ一片の苦々しさを手放せないままそうつぶやいていた。善は急げと言わんばかりに、楽器を持った先生に体育館から連れ出されたのだ。
他にも、城山の演奏に興味があるからと、部員の何名かがついて来ている。手持ち看板やビラ片手に、宣伝半分、自分も演奏を楽しみにきたのが半分といった様相である。
土曜の昼前ということもあり、まだ外部からの一般客は少ない。
むしろ学内の生徒の方が多いのではないかという時間帯だ。そういう機会を選んでしまう辺りが、どうにもこの先生の不器用さを表しているような気もしたが――さて。
世間的にはほぼ無名とはいえ、城山もプロの奏者である。
しかも、近所の楽器屋の言によると、音大時代はトップを独走していたというレベルの。そんなクラスの人間の『遊び』と言うのだから、それは――
「――
と、そこで。
有無を言わさぬ吸引力を持つ、ひとりの奏者の声が響き渡った。
長身痩躯のタキシード姿。
金に輝く長い楽器を携えたその姿は、まるで一枚の絵画のようで、それだけで周囲の空気が一変する。
ぴり、と背筋に電流が走るような緊張感の中で、城山が言う。
「本日はお忙しい中お越しいただき、誠にありがとうございます。このように早くいらしていただいたことに感謝し、僭越ながら私からささやかなプレゼントを」
いうなれば、これはウェルカム演奏。
学校祭という場に早くから足を運んでくれた人だけが聞ける、特別な公演――。
手に持ったトロンボーンをくるりと回し、先生は楽器を構えた。
金色の長い楽器は、この人が持つと見慣れたそれではなく魔法の杖のように見える。
カン、と音をたてて留め金が外されたのは、始まりの合図であったのか――
城山は最後の口上を述べ、演奏を開始する。
「本日、この学校のどこかで、ひとつの時計が動かなくなりました。その働きに敬意を表し、『大きなのっぽの古時計』を」
すう、と息を吸って。
出てきたのは、歌うように伸びやかな、それでいて綺麗な旋律だった。
よく響く音は、力強いくせに決してうるさくはない。むしろ耳に届く振動は優しいといっていいくらいで――本当に『上手い』というのはこういうことなのだと、傍で聞く鍵太郎は改めて思い知ったくらいだ。
「すげえ……」
そんな言葉がつい出てしまうくらいに、練度が高い。
いや、そんな言い回しが陳腐に思えてしまくらい、目の前にいるプロの奏者は素晴らしい。プロ。そう、プロなのだ。これに比べれば同い年のあのアフロなどまだ足元にも及ばない、そんな境地にこの先生はいる。
普段の言動がアレだけにすっかり抜け落ちていたが、城山はやはり、とんでもない人間だった。
聞こえてくるのはよく馴染みのあるメロディー。
ただ異常に純度が高い。分かる人には分かる。そしてこの道に詳しくない人だって――どこかで、この演奏のすごさを、肌で感じている。
先ほどから来る人来る人が立ち止まって、曲に耳を傾けているのがその証拠だ。
老若男女足を止め、周囲は徐々に人垣ができ始めていた。
時計も足も止まっても、今ここで生まれるロマンに目を向け続けている。
聞いたことのある曲だけに、胸の奥に染み入るものが演奏にはあった。ただ、知っているからこそ同時にまだ足りない、という気持ちが湧いて出る。
もう少し聞いていたい。
まだあるだろう、という思いが、三番ある歌詞の一番が終わる辺りでふつふつと――と、そこで。
ゆったりとした城山の腕の動きが、突如別のものに切り替わった。
トロンボーンという楽器は、スライドを動かすことによって音程を変える。
そういった特性上、あまり早いメロディーはできない、やらないのだが――このプロ奏者に、『できない』なんてことはなかった。
ゆるやかな伸ばしだった音は、小刻みに様々な音色を生み出していく。
それでいて早くなった焦りなど感じさせない。遊び、と先ほど言ったとおり、軽くなんでもないことのように城山は『大きなのっぽの古時計』のアレンジを吹いていた。
ただ、素早い音程の上下は尋常の技ではない。
以前に同い年の吹きっぷりを『玉乗りをしながらナイフでジャグリングをしているかのよう』と鍵太郎は称したが、この先生はそれよりはるかにすさまじいことをやっている。
何がすごいって、
技巧を隠していないのに、何をやっているかサッパリ読み取れない。
全てにおいて高すぎて、深すぎる。
本当に上手い人は、はるか天上のことを何でもないことのようにやってのけるのだ――そういう意味では、この人も神さま、と呼ばれただけあるということか。
いや、あるいは。
「化け物……」
かつて同期の心を無制限に折った天才児。
本人に自覚はなくとも、周囲がゾッとしてしまう災厄のような才能。
同業者なら今の鍵太郎のように、戦慄していただろう。かつてはあの楽器屋もそうだった。
無邪気に極大の力を振るう。
その天衣無縫の化身が――
「あ……」
吹きながら楽しそうに笑っていて、鍵太郎は自分の恐れが間違いであることを悟った。
この人はただ吹いているだけ。
心のままに、こんなことできたらいいな、と思ったからやっているだけ。
それはまるで、神さまの遊び。
こんなことしたら盛り上がるよな、みんな喜んでくれるよな、なんて純粋な願い。
それが――
「――ありがとうございました!」
周囲からの万雷の喝采を聞いて、確信に変わった。
優しくて楽しくて、そして少し恐ろしい。
そんなこの人の本質を、如実に表した演奏だった。
でも全ては、誰かの笑顔のために。
そのために音楽に殉じたプロ奏者は、技巧だけは果てしなく神さまであり――そしてどこまでも、人間だった。
自分のやっていることに自覚があるのか、そうでないのか。
城山は観客の声援に応えながら、鍵太郎に言う。
「いやー、本当はこれ、ユーフォーニアムのための曲なんだけどね。学生時代にできるかなーって思って、練習してみてよかったよ」
「他の楽器のための曲だったんですか……道理で一発芸とか言ってたわけだ……」
異常性に頭痛すらしてくるが、反響が大きいだけに怒るに怒れない。
だからこの楽器の人間は憎めなく、むしろ好きな部類に入るのだ――と鍵太郎は、集まっていた人たちに持っていたビラを手渡した。今日明日と、体育館で行われるコンサートの。
これだけのことをやってくれたのだ。ある意味ではさよならコンサートともいえる本番は、さぞ人が集まってくれるだろう――
と、鍵太郎が思っていると。
「みなさーん! 本日の吹奏楽部の演奏、見に来てくださいねー!」
城山の笑顔の口上に、周りにいた観客が――特にマダム層が反応した。
アイドルに群がるがごとく、先生の周囲に女性客が押し寄せる。結果的にもみくちゃにされる城山に、もうこれ以上余計なことをしゃべるなと全力で忠告したくもなった。
思い出すのは二年前、同じようにたかられていたこの先生を助け出したこと。
時が止まっているのはこっちなんじゃないか、と変わらない城山を見て思うが、まあ、こっちもあの時と変わらずレスキューはするのだ。どっちもどっちと言えるかもしれない。
苦笑いして、「はいはいすみませんねー!」と人ごみをかき分ける。
それでもまあ、あのときと違うことを挙げるなら――自分がこの残念イケメンのすごさを、多少なりとも分かるようになったということだろうか。
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