第333話 次の舞台はそこにある

 目が覚めて、きのうのことは全部夢だったんじゃないかと思って。

 音楽室に行ってみたら、ちゃんと棚には金賞のトロフィーが飾られていた。


「あー! 来月のホールの予約、ちゃんと入れておいてよかったー!」


 そう顧問の先生が叫ぶのを、湊鍵太郎みなとけんたろうは横で聞いていた。

 吹奏楽コンクール、県大会終了後。

 金賞、県代表という結果を経て、次の舞台は東関東大会ということになる。

 川連第二高校としては、初のステージだ。一応、予定としてはそのつもりだったし、それを想定した予算も組んでいたのだけど。

 こうして実際に行けるとなると、初めてのことづくしで何をしたらいいのか分からない。こういうのが、初出場校の浮つき感になるんだよな――と自身も頬をかきながら、鍵太郎は顧問の本町瑞枝ほんまちみずえに言う。


「じゃあ、ホール練習はちゃんとできそうなんですね。とりあえずそれで少し、安心しました」

「おうよ。実は何年か前から、東関東大会に行けることを想定して、九月のホール予約はずっと取ってた。今年はそれをキャンセルせずに済んで、マジでよかったわ」

「そうだったんですね……」


 例年通りだったら、ここからは十月末の学校祭に向けて、準備を始めるところだ。

 その場合は、ずっと学校で練習することになるので、ホールに行くことはない。学校祭は当たり前だが、会場が学校の体育館だからだ。

 コンクールのようにホールで吹くわけではない。それを想定した練習が必要ない。

 だから、ここ数年は練習会場を押さえつつも、県大会の結果が出た時点で予約をキャンセルしていた――けれども、今年はそんなことをしなくてもいいのだ。

 悔しさを抱えながら、ホールの事務所に電話をかけなくてもいい。それが、この先生にとってどれほど嬉しいことだったか――

 それは先ほどの叫びに表れているなと思いつつ、鍵太郎は本町に問う。


「先生。東関東大会って、どういう感じなんですか?」


 目標にしていた舞台とはいえ、なにしろ初めての機会だ。

 実感は多少湧いてきたが、情報やノウハウがまるでない。次の道に進むのに、自分たちはその目的地のことを、あまりに知らなさすぎる。

 けれどもこの先生なら、ずっと前から先々の予定を組んでいたのだ。色々と分かっているのではないか。

 そう思って訊いたわけだが、案の定、本町はこちらに丁寧に教えてくれた。


「東関東大会は、東関東ブロックの四県――神奈川、千葉、茨城、栃木の代表校が出場する、県大会の上の支部大会だ。当然、各県の代表が集まるわけだから、県大会よりもはるかにレベルは高い」


 会場は、四県を一年ごとにローテーションしていく。

 審査に関しては、ほぼ同じ。木管、金管、打楽器――そして指揮者や作曲家などの、各分野のプロフェッショナルが行うことになる。

 ただ、その審査レベルは、県大会よりも格段に高い。

 できることを前提として、さらに内容を厳しく見られることになる。そう言われて、改めてとんでもないところに顔を出すことになってしまったのだと、鍵太郎は顔を引きつらせた。

 これで終わりなんかじゃ、全然ない。

 むしろ、これからが本番なんじゃないか――襲い来るプレッシャーに戦慄していると、先生はそんなこちらを見て肩をすくめ、苦笑した。


「まあ、そんな怯えなさんなって。今さら背伸びしたってしょうがねえ。アタシらはアタシらで本番までに、できることをできるだけ、やるしかねえのさ」

「そ、そうですね……ちなみに今年の会場って、どこなんですか?」

「神奈川。横浜だ」

「遠いなあ……」


 よりにもよって、一番遠いところではないだろうか。

 精神的にも物理的にも、その会場はひどく離れたところに感じられた。やはり、まだ現実感が薄いというか、自分がそこで吹いている様が想像できない。

 夢なんじゃないだろうか――もう一度そう思うが、しかし金賞のトロフィーと、県代表の賞状はそこにある。

 そして、あの人からの電話の履歴も。

 目が覚めてからすぐに携帯を確認したけれども、二つ上の先輩からの着信履歴は、確かに残っていた。

 やはり、あれは現実にあった出来事なのだ。今度の学校祭で、一緒に吹きましょう――そうあの先々代の部長に言われたことは、間違いない。

 寝ぼけまなこで聞いていたため、そんなOGの先輩からの提案には、アッサリと乗ってしまったのだけれども。

 こうして一日経って落ち着いて考えてみれば、ある意味それは東関東大会に行けること以上に、鍵太郎にとって途方もないことである。

 もう一度、あの人に会える。

 そう考えると、いてもたってもいられないというか、自分が挙動不審なほどにソワソワし始めるのが分かる。どうしよう。何をしよう。どんなことを話そう――そんな言葉ばかりが頭を回って、具体的な方策が全く浮かんでこない。

 心臓の音ばかりがやたら大きく早く聞こえて、手が震えてくる。

 そんなこちらの反応を、大会へのものへと勘違いしたのか、本町は言ってきた。


「大丈夫だって。さっきも言ったけど、こうなることは数年前から予測してた。何も考えてなかったわけじゃねえさ。だからホールの話もそうだけど、準備はそれなりにしてある。安心しな」

「わ、分かりました……」

「あー。まあ、その先はおぼろげにしか考えちゃ、いなかったんだが。こうなると、東日本大会のことも視野に入れておかなくちゃいけないな」

「東日本大会?」


 初めて聞く単語に、思わず鍵太郎は首を傾げた。

 そういえば、自分たちの参加する高校B部門には、全国大会はないと聞いていたが――それは。


「東日本大会っていうのは、東関東大会の、さらに上の大会だよ。支部大会を抜けた学校、北海道、東北、北陸、東関東、西関東――それと、東京。そこの代表が集まるコンクールだ。要するにマジで、東日本を全部ぶっこんだ大会なのさ」

「へえ……そんなのがあるんですね」

「ああ。A部門は東関東を抜けたらすぐに全国大会だけれども、アタシらはそうじゃない。支部大会の先は、東日本大会――B部門の最終地点だ。つまりウチみたいな小編成の学校にとっちゃ、それこそが全国大会みてえなものなのさ」

「そっか……」


 東関東大会の先にも、まだ上の大会がある。

 全国ではないが、日本の半分を制するだけの舞台がある。それを初めて知って、鍵太郎は目をしばたたかせた。

 支部大会だけでも、大変な道のりだったというのに――まだまだ、その先がある。

 それは鍵太郎にとって、それこそ霞がかった山の頂上を見上げるようなものだった。まるでイメージはつかないけれど、頭を上げれば何かがあることだけは、ぼんやりと分かる。

 それこそ、先輩に東関東大会の存在だけは、教えてもらっていたように。

 B部門の全国大会。そんなところの挑戦権までいつの間にか手にしていたことに、もう一度首を傾げて言う。


「知りませんでした。春日かすが先輩とかに東関東の話は聞いてましたけど、さらにその上があるなんて。B部門は全国大会がない、とも聞いてましたし」

「あー。まあ、な。その辺は色々、事情があるんだよ。人間の業というか、大人の事情というか、セーフティネットというか……」


 おまえらを守るための、面倒だけれども必要な措置というか――と、本気で面倒くさそうに頭をかいて、先生は言った。

 小編成の部に、全国大会がない理由。

 それを目で訊くと、本町はため息と共に、渋い顔で言う。


「まあ、なんだ――端的に言えば、だ。B部門に全国大会がないのは、A部門の強豪校が、さらに人数を絞って小編成の部に乗り込んでくる可能性があるからだ。そういうやつらが来ると、そいつらが全部金賞をかっさらって、小規模校をぶっ潰しかねない。そうならないための安全策だ」

「……!」

「そう怖い顔すんな。だからそうならないように、システム的に守ってるんだよ――おまえらのことを。コンクールって場所が全部、競争だけで染まっちまわないようにな。どんな業界でも『全国一』っていう称号を、どんなスレスレの手段を使ってでも手に入れたいってヤツはいるのさ」


 だからまあ、大人の事情っていうか、人間の業だ――と変わらず渋い顔のままで、先生は続けた。

 守られた楽園。

 今聞いた感じだと、東日本大会はそんな印象すらある。

 けれどもその不自由なシステムは、自分たちを悪意あるものから、遠ざけるためのもので――文句を言いたいけれども、その当の楽園の番人である本町の前では、そうすることはできなかった。

 肩書きがほしいだけの人間は、どこにでもいる。

 しかし先生は、そういったものから自分たちを、守ろうとしている側の大人なのだ。ひょっとしたら自分がなっていたかもしれなかった、どんな手段を使ってでも真っ黒な勝利を得ようとする、そんな存在から。

 ならば本町に感情をぶつけるのは、筋違いである。そう考えて、鍵太郎は納得いかないながらも矛を収めた。

 するとそんな生徒を見て、先生は苦笑いしながら言ってくる。


「すまねえな。けど昔は――アタシが学生の頃は、そもそも東日本大会なんてものすら、存在しなかった。支部大会が終わったらそれで完全に終わりで、その先なんてなかったんだよ」

「そう、だったんですか?」

「そうさ。だから東日本大会は、歴史としてはそこそこ新しい。支部大会で終わりじゃ悲しいからって、後から創設された大会だ。いうなれば、もうちっとやりたいなって思いが重なって、人工的にできた願いの結晶みたいなもんなのさ」


 だから、ひょっとしたら。

 いつかそんな、くだらねえしがらみなんか消えて、B部門にも全国大会ができる日が来るかもな――なんて。

 そんな現実的に考えればあり得ないことを、顧問の先生は一縷いちるの望みをかけて、困ったように笑いながら言った。

 人工的なシステム。

 守られた楽園。

 そしてそこにある、願いの結晶――それらの要素を頭の中で組み立て、鍵太郎は本町に言う。


「先生」

「ん?」

「俺、東日本大会に行きたいです」

「だよな。決まりだ」


 そうでなくっちゃな――と今度こそらしく不敵に笑って、先生は指を弾いた。

 目標、東日本大会。

 霧のかかった、まだ見ぬ山の頂へ。

 方針が固まって、ようやくこの先のことを話し合える状況まで来た。未だフワッフワしている部分はあるだろうが、少なくとも前に進む意思だけはある。

 まずは東関東大会に挑まねばだが、それよりも先に予定の確認だ。

 今後のスケジュールを組むため、鍵太郎は本町に訊く。


「先生、東日本大会っていつですか?」

「十月の中旬だ。安心しろ。学校祭とは二週ズレてる」

「学校祭……って、そういえば、あの」


 その本番の名前に、言わなければならないことがあるのに気づいて、別の意味で頬を引きつらせた。

 大仰に、先の予定を立てなければなどと言ってはみたが、やはり初出場校――


「はあ!? OBOGが学校祭の本番に乗るかもしれねえ!? 馬鹿野郎、そういうことはもっと早く言え、早く!?」

「す、すみませんーっ!?」


 やはりバタバタするものは、バタバタする。

 何事も、最初は上手くいかない。

 そんな自身の特性を、改めて思い知りつつ今後の計画を立てていく。まあ、それもこれから想定外のことに、ペースを乱されまくるのだろうけど。

 それでも、いつも通りの流れで始まったということは――やはりこれは夢ではなく、現実のことなのだろう。


「……よし。待ってろよ」


 そんな風に忙しく話し合っているうちに、ようやく棚にあるトロフィーの輝きが、ちゃんと目に入ってきて。

 金賞、県代表。

 舞台は、東関東大会へ――

 そしてさらに、その先を目指して。鍵太郎は小さいながらも強く、そうつぶやいていた。

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