第317話 花と彼女と、ときどき妖精

 表情豊かにエスプレッシーヴォ、と楽譜に書かれているのを見て、湊鍵太郎みなとけんたろうはふと首を傾げた。

 表情を豊かに、というけれど。

 曲の中でそれをやるって、どうすればいいんだろう――と。



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「みんな、改めて県大会出場おめでとう。本番までの短い間だけど、またよろしくね」


 ひとつの本番が終わって、また次の本番が待っている。

 そんな状況で外部講師の城山匠しろやまたくみは、鍵太郎たち部員たちの前でそう挨拶した。

 コンクールの予選が終わり、今度は本選。

 つまり、県代表をかけた舞台に向けてやっていくことになる。城山の言う通り、あまり時間はない。

 本番までは、期間でいえばざっと三週間程度。それまでに、自分たちの演奏のクオリティをできるだけ高めていかなくてはならなかった。

 ああ、そうかと、唐突に自覚する。その演奏で金賞県代表にならなければ、自分たち三年生は実質引退――学校祭があるとはいえ、本格的な活動はコンクールで最後なのだ。

 これまでひとつの本番が終わっても、また次の本番が待っていたから、あまりそんな風に感じなかった。

 タイムリミットは間近に迫っている。本番までは短いが、振り返ってみればここまでも、あっという間だったように思う。

 嫌だなあ、もうちょっと吹いていたいんだけどなあ――と。

 鍵太郎が、日が暮れそうになってもまだ、公園で砂遊びをしているような気持ちでいると。

 城山が言う。


「じゃあ、もう一度この曲――『プリマヴェーラ』について、確認しながら進めていこうか。やり慣れてきたから、もうちょっと細かいところまで詰められるようになってきただろうしね」


 けれども、そこはこの指揮者の先生は――プロの大人は。

 日が暮れても砂遊びをずっと続けてきたようなこの人には、焦った様子など微塵もなかった。

 まあ、そうだよなと思って城山を見る。焦ったところでしょうがないし、そんなことしたらかえって逆効果だ。

 この人のことを、子どものまま大人になっちまった、不器用なやつ――と、いつか顧問の先生は評していたけれども。

 このまま楽器を吹き続けていたら、自分もこんな風に堂々と、目の前の状況に笑って立ち向かえるのだろうか。

 プロにはなれないし、なるつもりもないけれど。

 それでも、もう少しだけ、この楽しいことを続けられるのなら――そんなことを鍵太郎が、考えていると。

 城山はいつもの調子で、曲の要点を述べていく。


「――最初の頃は高い山。霧の中に浮かぶそのシルエットを、浮き上がらせるように吹いていく」


 見上げるような標高に、けれども決して冷たいだけではない――澄んだ空気の山の上。

 そこを目指そうとして、どうすればいいか分からなくて、森の中を遭難するようにウロウロしていた。

 やっと触れた温かさも束の間、不穏な雰囲気が流れ出して。

 頂上を目指していたはずが、どんどん深くに潜っていく。


「次に出てくるのは争いのテーマ。高音と低音が代わる代わるに出てきて、不協和音をたててぶつかっていく。パーツパーツが重要だから、それぞれが主張をはっきりと。それが結果的に音楽になっていく」


 そんな光が見えなくなっていく中、先輩たちがなんとしても一番上に立とうとして、無理やりにでも進んでいこうとして。

 そうして起こったのが、自分たち後輩による蜂起と、それに伴う戦いだ。

 それは身内同士の争いであり、だからこそ完膚かんぷなきまでに相手を叩きつぶすことは、どうしてもしたくなかった。

 だけど、絶対に負けたくもなかったのだ。

 だから言うべきことは言うことにした。ただ黙って従うだけでなく、自分たちの主張は通していくことにした。

 外から見たら、あのときの部活はどうだったのだろうと思う。果たして『音楽的』だったのだろうか。それは中からは分からないけれども――

 こうして追っていくと、本当にこの曲は自分の歩んできた道に重なるなと思う。

 だとしたら、問題はこの先――


「あとは、ここからだね。曲の最後に向けての部分をどう描いていくか、もうちょっと明確にしていこうか」


 今の自分たち、三年生のことをどう表現していくかだ。

 それまでの不毛な争いが終わって、何かに導かれるようにして曲調が明るくなっていく、そんな場面から始まって。

 ぽん、ぽん、と木琴マリンバがひとつずつ叩かれていくそのシーンは、鍵太郎にとって花が開いていくかのようなイメージだった。

 戦火で焼き尽くされてしまった荒野に、色とりどりの花が咲いていくかのような。

『プリマヴェーラ』――イタリア語で『春』という意味の曲だけに、その解釈で間違っていないと思う。

 けれど、そういえばその頭の中の光景を、誰かと共有したことはなかった。

 自分では吹いていない箇所だけに、なおさらだ。そうだよな、ここももう少し詰めていいところだよな、と鍵太郎が考えていると。

 指揮者の先生は、生徒たちに尋ねる。


「みんな、ここのイメージどんな感じ? どういうものを想像して吹いてる?」

『……』


 そしてそんな城山の問いかけに、部員たちは楽譜を見つめて下を向き、沈黙した。

 クラスでもよくある、大人数の前で、自分の意見を言いたくないときの光景だ。

 考えていることはある。

 そしてたぶん、それは間違っていないだろう、とも思う。

 けれどもそれを、人前で発表するのは気が引ける――そんなみなの心の声が聞こえてきそうで、鍵太郎はどうしたものかと渋い顔になった。

 こういうとき、先陣を切って自分の考えを言ってしまっていいのかもしれないけれど。

 部長という身分を考えると、それが周りへの意見の押し付けになってしまわないかという考えが、チラチラと頭をかすめてしまうのだ。

 別に去年の先輩たちのように、後輩たちを試したいわけではない。でもなあ、これって結局、やってることは一年前と同じだよなあ――と去年の出来事を思い出す。

 あのときは、部活の雰囲気がひどくて、自分の意見など口にしようもなかった。

『表情』なんか、作りたくても作れなかった――その先に書いてある『表情豊かにエスプレッシーヴォ』という記号が楽譜にあるのを見て、そう思う。

 けれど、今年は違うのだ。

 たくさん笑って、たくさん感情をあらわにして、そんな部活にしていこうと心に決めた。

 だったら、自分がまず思っていることを言うべきなのだ。そう考えて、鍵太郎がよし、と口を開こうとすると――

 その前に、城山が前の方にいた部員に声をかける。


「うん、じゃあ野中のなかさんは、どう思う?」

『……!?』


 よりにもよって、その人物に話しかけるか、という部員たちの驚きと。

 そして訊かれた当人である野中恵那のなかえなの、鋭く息を呑む音が、音楽室で重なった。

 二年生になったとはいえ、まだまだ恵那の引っ込み思案な気質は変わっていない。

 さらに、去年似たような状況で、前部長に詰問されたという過去もある。だからこそ、余計にこういった場面で彼女に触れることにはみな、気を遣ってしまっていたのだが――

 恵那は、どう答えるのだろうか。ハラハラしつつ鍵太郎が見守っていると、ひとつ下の後輩は「あ、あの……っ!?」と、一年前と同じように半ばパニック状態で言った。

 大丈夫、きみの考えはきっと合ってるから――と、心の中で応援するしかない。花だ。花畑だ。きっとみんなもそう思っている。

 性格はともかく、曲想や技術的なことに関しては、かなりハイレベルな彼女である。

 それが分かっているからこそ、先生も恵那に声をかけたのだろうけども――と思っていると。

 追い詰められた様子で彼女は、自分の考えていることを口にする。


「よ……」

「よ?」

「妖精……が、飛んでるみたいな……」

『妖精!?』


 恵那のトンデモビックリな回答に、部員たちどころか城山までもが、驚きの声をあげた。

 妖精。

 花も花で大概だと、自分でも思っていたが――まさかの、ここで飛び出してきたのはフェアリーである。

 てっきり同じものを想像していたと考えていただけに、後輩の答えは意外すぎた。周りが全員ぽかんとしている中で、恵那は慌てたように続ける。


「だ、だって……! ここ、神秘的にミステリオーソって書いてありますし……! 吹いててなんだか、ちっちゃくて丸い光が、ぽろぽろ飛んでいくみたいな……そんな印象があったので……! え、だ、だめですか!? わたし何か、おかしなこと言ってますか!?」

「い、いや。何もおかしくない。おかしくないよ、大丈夫」


 そんな後輩を落ち着かせるように、先生が応える。

「そっかー。妖精かー」と遠い目をして、城山は噛みしめるように言った。


「そう来たかぁ。平気だよ、間違ってないから。じゃあそれにしようか、ここのイメージ」

「先生、花は!? ここ花だと思うんですけど!? いや別に、妖精もいていいとは思うんですが!? どう思いますか先生!?」

「よーし、じゃあ花の精にしようかー」

「先生ー!?」


 日が沈んだ後も砂場で遊びすぎて、何か変なものまで見えるようになってしまった大人子どもに、必死の思いで突っ込む。

 その叫びが届いたのか、城山は向こうの世界に行きそうになっていた意識をつなぎ止めて、苦笑しながら返してきた。


「うん。でもまあ、野中さんの言ってることは、本当にそれでいいと思うんだよ。あとは、そこのすり合わせというか。みんなでその先を作り上げることに、意義があると思うんだよね」


 この先は、いろんな楽器が出てきて、それぞれがいろんな色を出して。

 グラデーションみたいに表情を変えていくような感じになるからね――という先生の言葉に、鍵太郎はハッと譜面を見下ろした。

 表情豊かにエスプレッシーヴォ

 そう書かれた楽譜は、シンプルながらも伸び伸びと、自分のやることが記されている。

 他の部員たちも、たぶん一緒だ。以前にトランペットの同い年も言っていたが、そこまで難しいことはやっておらず、それの積み重ねでこの曲は作られている。

 だったら小難しく考えずに、各々の思った素朴なものを言い合っていくことで、これからはいいはずだ。

 間違っているかもしれない、でもいい。

 ちょっとくらい他人とズレていても構わない。

 ほんの少しでも感情を表に出していくことで、曲にも表情が浮かんでくる。

 そして周りでは、恵那に触発されたのだろう。それまでの沈黙を忘れたかのようにザワザワと、さざめくように、それこそ妖精のように部員たちが意見を交わしていた。

 これでいいのだ。

 そう思って、泣きそうな顔でこちらを見てくる後輩に、大丈夫だよと視線を送る。そういえば彼女もこの一年で、こういった表情だけでなく怒ったり笑ったり、だいぶ感情の表現が豊かになった。

 かと思えばこんな風に、こちらの予想を上回ることをして、新しい発見をもたらしてくれる。

 自分自身も知らなかった表情に、気づかせてくれる。

 そうして、どんどんそれが増えていく――これまでやってきたことと変わらないその方法に、鍵太郎はどこか、安心した気分で苦笑した。


「そっかぁ、妖精かあ……」


 そんなものがいるなら、日が沈んでも、終わりが近くなっても。

 後輩の言う小さな光に照らされて、楽しい砂遊びはまだまだ続けられそうだった。

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