第263話 ほんとうのこと

 目の前の小柄な一年生がぽかんと口を開けるのを、湊鍵太郎みなとけんたろうは笑いを堪えながら見つめていた。

 今、この子はこっちのことを何て言った?

 身長がある?

 楽器を吹くのが上手い?

 おかしいにも程がある。

 どれだけ笑わせてくれるのだ。これまで散々、逆のことばかり言われてきたのを思い出して、鍵太郎はまた吹き出しそうになった。

 そして改めて、隣に座る女子生徒に言う。


「俺は言われるほど背も高くないし、上手くもないよ。楽器だって、高校から始めたし。その前はちっちゃいちっちゃいって、周りから馬鹿にされてたくらいなんだから」

「――嘘」

「嘘じゃない」


 そう断言するとその一年生は、信じられないといったように絶句した。

 けれど、嘘だと思うなら他の部員――特に、自分の同い年たちに聞いてみればいいのだ。

 こっちがどれほど小さくて、どれほどの初心者だったか、彼女たちなら懇切丁寧に語ってくれるだろう。

 色々あって部長なんて立場になってはいるが、自分の根本は当時からそんなに変わっていない。

 そこにいる一年生と同じ――小さな自分が嫌で嫌で、何とかしてやろうともがいていた、あのときのままだ。

 そう言うと、その新入生は自分の言い分が崩れて困ったのだろう。

 「だ、だって、私は……!」と、取り繕うように言ってくる。


「い、今まで、散々……言われてきたんです。『おまえはその楽器に合ってないから、違う楽器に変えた方がいい』とか、『パワーのある音を出すには、体格的に無理だ』とか……」

「うん」

「またそんな風に言われるのも思われるのも、私は本当に嫌なんです。思ったようにできなくて、吹けなくて――そんな思いをするのは、もう絶対に嫌なんです……!」

「うん、けどさ」


 悲鳴のような彼女の叫びに、まるで別のものが含まれているように見えて、鍵太郎はそこでセリフをさえぎった。

 今日の昼休み、この一年生が拾った楽譜を、じっと見ていたのを思い出す。

 勧誘に困るほどの、ほとんどの人間が見向きもしない。

 大きくて重い――自分と彼女が抱える、この楽器の楽譜を。


「きみはこの楽器を吹くの、好きなんだろ」

「――」


 膝の上にあるそれに触れながら言うと、後輩はこぼれる何かをこらえるように、ぎゅっと唇を引き結んだ。

 あのときこちらが彼女に声をかけたのは、経験者だから、できそうだからという理由ではない。

 そのときの眼差しが、リズムを取るその様子が。

 この上なく真剣なものに思えたから、この子に声をかけたのだ。


「誰が何を言ってもさ。周りからはどんな風に見られてもさ。しょうがないよなあ。だって、やりたいんだもん」

「……」

「できないと思うなら、できるまでやればいい。思ったように吹けないようなら、そうならなくなるまで何かをやろう。俺が付き合う」

「……――」


 こちらの言葉に一年生は、小さく口を動かした。

 けれど、まだ声にはならない。

 自分の声と他人の声の区別がつかなくなって、どんなことを話せばいいのかも分からなくなっている。

 『ほんとうのこと』が見えなくなっている。

 この分だと言わないだけで、もっとキツイことも言われたのだろうな――と、昔の自分のことを思い出して、鍵太郎は息をついた。

 そのことを責めるつもりはない。

 誰にだって、話せないことのひとつやふたつ、あるものだ。

 自分と同じように――そう、同じように。

 だったら。

 仕方がないけれど、自分と同じく無理矢理にでも背中を押す、何かが必要だろう。


「――くまさんパンツ」

「は? ……――っ!?」


 『それ』を口にすると、女子生徒は何かに気づいたように、はっとしてスカートを押さえた。

 そう――本当はこんな手段は採りたくないのだが。

 けれども、この子に本音を吐き出させるには、これしかない。

 そう思って鍵太郎は、昼休みに見えてしまった『ほんとうのこと』を、後輩に対して言い放つ。


「いやあ、高校生にもなって、くまさんはマズいと思うなあ。こんなこと、周りのみんなにバレたら大変だなあ。でも、見えちゃったものはしょうがないよなあ」

「さ、最低……っ!?」

「そうさ。俺は最低なのだよ」


 涙目で睨んでくる一年生に、笑ってそう返す。

 部長なんて肩書きを持ってしまってはいるが、本来自分はこの部活における、立場と音域の最底辺である。

 それは、本当の話だ。

 だから彼女にもそれを知ってもらいたくて、鍵太郎はそのまま続ける。


「けどね。だからこそきみは、そんな最低な人間以上に上手くなれると思うんだ。こんなセコい手段なんか取らなくったって、肩の力を抜いて、姿勢よくして。胸を張って前を見て練習してれば――なんだこんなもんかってくらいに簡単にできちゃうもんだから」


 かつて最初に自分を教えてくれた先輩は、そんな風に言ってくれた。

 小さくてボロボロだった一年生に、力強い音で応えてくれた。

 その他にも余計なことまで散々教えてくれた、お節介な先輩たちの姿が脳裏をよぎる。

 だったら――どことなく、自分に似ているこの新入生は、この記憶を糧にさらに遠くに行けるはずだ。

 こちらが失敗してきた、痛々しい記憶まで。

 『ほんとうのこと』を包み隠さず伝えることを決意して――鍵太郎は後輩に言う。


「最初は俺のせいにしてもらって構わないよ。先輩に脅されて、渋々入ったんだって思えばいいさ。俺もそうだったよ。吹奏楽部に見学に来て、きみみたいに先輩に丸め込まれて――なんやかんやあって、気付いたら二年経ってた。そんな感じなんだから」

「……後悔しますよ?」

「後悔なんてしない」


 少なくとも、自分はこの部活に入ったことを後悔なんてしていない。

 だからこの子に出会ったことも、きっとそうなるのだろう。

 まあ、もうこの一年生は、ここに来たことを後悔しているのかもしれないけど――そこはこんな最低なやつに見つかったのが運の尽きだと思って、諦めてもらいたい。

 もはや懐かしさすら感じる、二年前のあの日から。

 今日に至るまで――出会ってきた身勝手な、たくさんの人たちの顔を思い浮かべ、鍵太郎は言う。


「やりたいことを、やればいいのさ。ここは、そういう場所だから」


 そんな人たちが心を寄せて、本音を言い合って。

 何かを創れるなら――こんな楽しいことはない。

 少なくとも自分が部長である以上、ここはそんな場所にしていくつもりだった。

 好きなものは好きと言えばいい。

 その気持ちを邪魔するものに惑わされて、やりたいことを諦める必要なんかない。

 それが自分の本心で――それこそが『ほんとうのこと』なのだから、それに従うまでだ。

 するとそんなこちらの思いが、少しは伝わったのだろうか。

 しばしの間を置いて、新入生はぽつりと、自分の思いを口にする。


「……本当に、それでいいんですか」

「いいよ」

「才能がなくても、いいんですか」

「才能なんて、ある人間の方が少ない」

「小さくても。向いてなくても。大きな音が出なくても、努力が無駄だって言われても、他の楽器をやれって言われても――私は、この楽器を吹いて、いいんですか」


 段々、堰を切ったように溢れてくる言葉を、鍵太郎はうなずきながら聞いていた。

 たぶん、これでもこの後輩まだ、自分の意思をはっきり見つけたわけではないのだろう。

 『好き』という気持ちですら、また別のものが混ざり合って、よく分からなくなってしまっている。

 その感情は、きっとそう簡単にほどけるものではないはずだ。

 けれど――


「当たり前だ、いいに決まってるだろ!」


 迷いながらでも、苦しみながらでも。

 一生懸命やっている人間のことを、見捨てたりなんかできないのだ。

 そう思って鍵太郎が即答すれば――その一年生は、あっけに取られたように口をぱくぱくさせ。

 やがて大きく息を吸い――そして、大きくため息をつく。


「……変な人」

「あはは。よく言われる」

「最低な人。気持ち悪い人。腹黒い。執念深い。諦めが悪い。こんな人、初めて見た……」

「うん、大体全部言われたことあるな、それ」


 分かってきたじゃないか――と鍵太郎は、隣にいる後輩を見た。

 すると、彼女は思いつく限りの悪態にすら動じない先輩に根負けしたのか、呆れ返ったのか。

 本当に、渋々といった調子で言ってくる。


「……大月おおつき芽衣めいといいます。これから――よろしく、お願いします。湊……先輩」

「うん。よろしく」


 そして、そんな後輩が最初に導き出した答えを、鍵太郎は大きくうなずいて受け取った。

 そういえばまだ彼女の名前も聞いていなかったことに、今更ながら気づく。

 なのにこうも踏み込んだことを話してしまったのは、この子が他人と思えなかったからかもしれない。

 そう、確かに似ているのだ。

 自分にはないものを持っている人間が、うらやましくて、悲しくて。

 ひどくみじめで、悔しくて――そんなことを考えている自分自身が、本当に情けなくて。

 だからこそ、その痛みが分かるからこそ、彼女になら全部を譲り渡せると思えたのだから。


「ようこそ、吹奏楽部へ。俺は部長の、湊鍵太郎。大月さんを歓迎するよ」


 さあ、だとしたらひとりの時間は、もう終わりだ。

 ここに来るまでに、もらってきたものや、託されてきたもの。

 その全てを、目の前でぽかんと口を開けている一年生に持っていってもらわなければならない。ボサッとしている時間はないのだ。

 そう考えるとなんだか嬉しくなってきて、鍵太郎は初めてできた、同じ楽器の後輩に言う。


「俺たちと一緒に――音楽しようぜ!」

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