第261話 楽器の適性

「……どうして、こんなことに」


 馴染みのある大きな楽器、チューバを手に持って、大月芽衣おおつきめいは半眼でつぶやいた。



###



「……音楽室は、ここ、と」


 そんなことになる少し前。

 芽衣は昼休みに拾った楽譜を持ち、音楽室の前にやってきていた。

 中からは、吹奏楽部の練習の音が聞こえてきている。今日から部活動の見学が始まるのだ。

 新入部員を獲得すべく、部員たちは張り切って音出しをしているだろう。

 しかし自分はあくまで、楽譜を返すためにやってきたのだ――そう心の中で念じて、芽衣は音の渦の中心へと再び歩き出した。

 こちらも中学のときに、吹奏楽部に入っていたから分かる。

 演奏にある程度の人数が揃わないと厳しいこの部にとって、部員の確保は非常に大きな課題だ。

 だから多少強引に来られる可能性もある。断る心の準備はしてきた。

 よし、楽譜を渡したらすぐに帰ろう――そう思ってドキドキしながら音楽室の前に立っている、先輩らしき女の人に声をかけてみる。


「あ、あの……すみません、これ拾ったので、返しに来ました」

「え?」


 振り返ってこちらを見つめてくる先輩を見て、目が綺麗な人だな、と芽衣は思った。

 穏やかな微笑に整った面立ちということもあるが、それ以上に瞳に不思議な引力がある。

 なんだか、どこまでも見通されそうな――けれど一定の距離からは近づかず、遠くで見守っていてくれるような。

 それにあてられて芽衣がぽかんとしていると、音楽室からポニーテールを揺らした、背の高い女の人がやってくる。


宝木たからぎさーん! もうちょっとでチューニング始まるよー! みなとがもうそろそろ戻ってきてって!」

「あ、うん。分かった」


 親しげに話していることからして、二人は同い年なのだろう。

 後からやってきたその女子生徒は、宝木と呼ばれたその先輩とは対照的に、活動的でどこまでも走っていきそうな躍動感を持っていた。

 けれどそれが決して、不快ではない。

 むしろどこか、その雰囲気は既に知っているような――と芽衣が思っていると、ポニーテールの先輩はこちらを見て言ってくる。


「あれ、見学希望の子?」

「いや、涼子ちゃん。その子はなんだか、楽譜を返しにきたって」

「あ――はい!」


 ここに来た本来の目的を思い出して、芽衣は持っていた楽譜を差し出した。

 ずっと持っていた上に、緊張して手汗をかいてしまったため、少しシワができてしまったが――

 そんな楽譜を見て、先輩二人は言う。


「チューバの楽譜だ! え、なになに? ひょっとして湊が言ってた子って、この子かな!?」

「あ、そうか。たぶんそうだと思う」

「みな――え?」


 さっきから何度か名前が出てくるが、その湊という人物は誰なのだろうか。

 そして自分のことが、こんな風に知らない人にまで伝わっているというのはどういうことなのだろうか。

 芽衣が戸惑っていると、突然ポニーテールの先輩が、襟首を引っつかんできた。


「そうと分かれば、膳は急げ! 一緒に行こう! 準備できてるよ!」

「涼子ちゃん。発音が同じだから大丈夫な気がするけど、それはきっと『ご飯を急げ』ってことじゃないと思うんだ。一周回って、ある意味それで合ってるけど」

「あれ? でもまあ、合ってればいいんじゃね?」

「え? え? ええっ?」


 そのまま音楽室に引きずられていく自分に驚いて、芽衣は声をあげる。

 涼子ちゃん、と呼ばれたどうもアホの子っぽい先輩のそんな行動を、どうしてかもう一人の、宝木という比較的マトモそうな先輩は止めようとしない。

 混乱のあまりされるがままになっていた芽衣だったが、ふとあることを思って、ポニーテールの先輩に尋ねてみる。


「あ、あの、先輩!? 先輩の楽器って何ですか!?」

「え? トロンボーンだよ! それがどうかした?」

「やっぱり――あ、いえ、なんでもありません!」


 予想が的中して、芽衣は納得した。

 こんな強引なのに、なぜかそれを許してしまえるのは。

 中学のときチューバを吹いていた自分にとって、その自由闊達かったつさがとても、親しみのあるものだったからだ。



###



「こんにちは。昼休み以来だね」


 と。

 その男の先輩は、にこやかな顔でいけしゃあしゃあと言い放ってきた。

 ふちなしのメガネをかけた、文化部男子らしい細面。

 男性にしてはやや小柄なようだが、女子部員だらけの吹奏楽部ではあまり気にならない。

 というか、芽衣自身の身長が低いので、そんなこと言っていられないのだ。

 だからこそもう、この楽器を吹かないと決めたのだが――などと。

 そんなことを考えながら、彼女は半眼で先輩に、持っていたチューバの楽譜を差し出す。


「……わざとですか?」

「いやあ。そんなことないよ」

「わざとです。これは絶対にわざとです……」


 この先輩が、昼休みに楽譜を全部回収していれば、こんなことにはならなかったのだ。

 ひょっとしたら本気で忘れていたのかもしれないが、この笑顔からして、こちらが楽譜を返しに来ることを予測していたのは明白だ。

 だったらどっちにしても、確信犯である。

 しかし後輩からのそんな眼差しを受けても、その男の先輩の笑顔は小揺るぎもしなかった。

 あまつさえ「ありがとう」などと言って、自分の楽器の楽譜を受け取る始末である。

 しかしこれで、ここに来た目的は達成できた。

 なので芽衣が回れ右して、音楽室から去ろうとすると。


「まあ、待ちなよ。せっかく来たんだし、吹いていったら?」

「だ……だから! 私は吹奏楽部には入らないって言ったじゃないですか!」


 その男の先輩が袖を掴んで引き止めてきたので、芽衣はたまらず声をあげた。

 チューバが一人しかいなくて大変なのかもしれないが、こちらにはこちらの理由があるのだ。経験者というだけで入れられては、たまったものではない。

 こちらの気も知らずに、勝手なことを言ってくれる――と思っていると。

 その男の先輩は「別に入部しなくてもいいよ」などと、意外なことを言ってきた。


「ただ、今日はんだ。チューバは全員を支える屋台骨――知ってるよね。だから今日だけでも、俺のことを助けてくれると嬉しい」

「……?」


 そう言われて辺りを見回せば、確かに昨日の歓迎演奏のときよりも人数が多い。

 どのパートがどのくらいというのは分からなかったが、明らかに真新しい制服の、一年生らしき姿が混じっているのが見て取れた。

 楽器を持たずに見学をしている新入生も、大勢いるものの――これは一体、どういうことなのか。

 芽衣がその太めの眉をひそめていると、先輩はその疑問に答えてくる。


「今年の部活見学はね、吹けそうな子はどんどん合奏に参加してもらって、一緒に楽しんでもらうことにしたんだ。人数が来すぎて見学のスペースがなくなりそうってこともあったけど、その方が、本当の雰囲気を体験してもらえるはずだから」


 ただ見て聞くだけより、そっちの方が感じを掴みやすいでしょ――などと言うその男の先輩に、芽衣は少なからず驚く。

 その方がいいなどと軽く言うが、実際にやるとなれば大変だろう。

 合奏に参加する新入生は恐らく大半が経験者だろうが、それでも自分のように数ヶ月はブランクのある者ばかりのはずだ。

 それを、下手をしたらバラバラになりそうな演奏を――

 一人で、支える?

 そんな、馬鹿な。

 これから彼がやろうとしていることに芽衣が愕然としていると、その先輩は隣の席を、ぽんぽんと叩いて言う。


「だから、さ。今だけでいい。きみの力を貸してくれないか」

「……」


 その席の傍にはご丁寧に、彼女が中学生のとき散々吹いてきた楽器――チューバが置いてあった。

 金色に輝く、大きくて重いそれを見て芽衣は黙り込む。

 けれど、心の中に。


「……ひとつ、訊いていいですか」


 ひとつの疑問が浮かんできて、彼女はそこにいる先輩に尋ねてみることにした。


「……先輩は、私が楽譜を返しに来なかったら、どうするつもりだったんですか?」

「来るでしょ。きみは」


 絶対、来るって信じてたよ――と言う。

 そんな先輩の笑顔にため息をついて観念し、芽衣はその隣に座る。


「……どうして、こんなことに」


 馴染みのある大きな楽器、チューバを手に持って、彼女は半眼でつぶやいた。

 分かっている。

 自分はこの先輩の言う通り、人を見捨てられないからここにいるのだ。

 自ら戦場に突っ込んでいく馬鹿を見たら、追いかけずにはいられない。

 誰かが近くで悲しんでいるのを見たら、手を差し伸べずにはいられない。

 それがこの楽器を吹く人間の、適性なのだから。

 でなければ、こんな目立たず疲れるとんでもない楽器を、やろうなんて思わない。

 なら――


「……」


 この人なら、自分を裏切らないでいてくれるだろうか。

 そんな風に思って、芽衣は隣の先輩を見た。

 この、策士のようでいて屈託なく笑う、賢いかと思いきや、真っ先に修羅場に突っ込んでいく――

 何よりこの楽器の本質を知る、この人なら、と。


「よーしおまえら。始めるぞー」


 そこまで考えたところで、隣の音楽準備室から顧問の先生らしい人が出てきて、彼女は思考を中断した。

 曲は先ほど楽譜を渡した『八木節』。

 昼休みに少し譜面を見たくらいだが、果たしてちゃんとできるのだろうか。

 久しぶりの合奏に芽衣が身をこわばらせていると、隣から声が聞こえてくる。


「ああ、そういえばまだ名前を言ってなかったか」


 そう言って、その男の先輩はこちらの不安を吹き飛ばすように、笑って。

 迷うこちらに手を差し伸べるように、自分の名前を告げてきた。


「俺は湊鍵太郎みなとけんたろう。一応、この部活の部長だよ」

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