第230話 海の中の饗宴
穏やかに揺らぐ、波の下。
澄んだ水の中を、人魚姫は再び泳いでいた。
差し込む日差しに照らされた海中。
光は以前より深いところまで届いて、珊瑚を、貝を、揺らめく草を――キラキラ、キラキラと輝かせている。
ここに来るまでに色々なことがあって、辿り着くのは少し遅くなってしまったけれど。
でも、流した涙も、乗り越えてきた嵐も、ここに至るためには決して無駄ではなかったのだろう。
あがいて、もがいて、そうした先に待っていたのは。
あのときと同じ――輝く水面。
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――ここ!!
と、
広がっているのは大海原に蒼い空。
さえぎるものも、邪魔するものも何もなく――ただただ、どこまでも続く綺麗な景色。
波のうねりは力強く、けれど船を導くように曲を進ませていく。
流れを作っていくと、そんな二人に乗るようにして他の楽器の面子もそこに加わってきた。
吹きぬける風に身を任せれば、帆を張るようにしてぐんと勢いがつく。
上を見れば太陽を背に、鳥が飛んでいるのが分かる。
浅瀬に入って泳ぎながら、人魚姫は歌い始めた。
楽しくて舞うようなその様に、海の中の魚や他の生き物たちが笑ってついてきたり、手を振ったりして応える。
ときたま変化する潮の流れすら、身をひねってくるりとかわし――その拍子に鳥の影ときらめきが見えたことが嬉しくて、また泳ぎ続けた。
遠くからやってきた大きな波をひとつ越えたら、また違う世界が自分を待っていて。
さえずるような歌と共に、人魚姫は進んでいく。
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やがて海の中に潜った彼女は、いつもとは違うものを見る。
それはこれまで見ていたのと同じ、でも気づかなかったもの。
波の音で聞こえなかった、かそけき声。
泡の中で見えなかった、誰かの本当の姿。
ここから先は少しの間、木管低音やコントラバスのベースラインになる。
最初の合奏のときは葵があまりに不安そうだったので、補助として一緒に吹いたものだが――もう大丈夫だろうと思い、鍵太郎は楽器を口から離した。
そのまま、彼女の弾くリズムに耳を傾ける。
よほど練習したのだろう。初顔合わせのときとは比べ物にならないほど、葵の弦を弾く音、ピッチカートははっきりと聞こえた。
水の中でさえ響きを失わないその音に、この他校の部長は何を込めているのだろう。
向上心。優しさ。責任感。
仲間への信頼、誰かへの思い――
そんなことを考えているうちに、あっという間に自分も吹かなければならないところにやってきた。
ここから先は、こちらも同じビートを刻んでいくことになる。
人が増えて少し賑やかになった海の中を、人魚姫は泳ぎ続ける。
やがて同じ歌を歌う他の海の生き物たちは、彼女の姿を追うように陽気な声をあげ始めた。
伸び伸びと。
本来の音で。
それを聞いて、前で指揮を振る先生が嬉しそうに微笑んだのが見えたが――その理由は単純に今の演奏が、これまでより上手くいったからではないように感じられる。
しかしその奥にある繊細さに踏み込むには、まだまだ自分では足りないのだ。
忘れられない記憶。
大切にしたい思い。
それは自分も持っているけれども――大人たちのようにそれらを整理できたわけではなく、ただ大切にしまってあるだけなのは、鍵太郎自身にも分かっていたからだ。
その気持ちを完全に受け入れることができたとき、初めてこの先生と話せるようになるのだろうか。
海の底に沈めたそれに、光が当たる日は来るのだろうか。
けれどその答えを得るには、今まさに音を出していくことが必要だった。
小さくても支え続けて、やがて広がりを見せていく。
海は本当に広くて、もうどこにあるかも見当がつかないけれど、それでもそんな海底にも光が差しているのは分かった。
どうしようもない底にも差し込む光はあり、濃淡はあれど世界を照らし出している。
そのどこかに自分の求めているものはあって、進んでいくうちにいつかぶち当たるのかもしれない。
望む未来の形に。
少なくとも、こうしている限り一歩一歩は近づいている。
ゆっくりでも、力いっぱいやり続けて――
蒼く澄んだ輝きが照らす先に、あなたの。
周りにいるみんなの、笑顔があることを祈りたい。
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そしてそのことを話し合った、あの同い年のホルン吹きは笑うことができたのだろうか。
けれども、ちょっとでも唇の端を上げていてくれたらいいなと思いながら、鍵太郎は始まりの音を鳴らした。
打って変わってオープンな曲調。
合いの手であの双子の妹が叩くカウベルのとぼけた音が入って、こっちもちょっとおどけたリズムを出してみる。
ときたま驚かせるようにいきなり大きな音を出して、演出過剰に。
テーマパークで演奏する気でいるのだ。楽しくやらなきゃ損だろう。
トランペットのあの二人だって、ここに来てようやく一緒に『本当に楽しんで』音を出していた。
まあ、それでも若干追い抜け追い越せの火花を散らしている感じはあるのだが――それもまた彼女たちが真剣に取り組んでいる証拠なのだろう。たぶん。
それに何より、この場面では――
『――!!』
唯一の低音群のメロディがあって、そこを鍵太郎たちは一体となって駆け抜けた。
全員がはまって揃って、やってやったぜという高揚感が辺りを包む。
そこからはもう、ノリノリだ。
メロディーと合いの手とリズムが、それぞれ生き生きと自分たちの音を演奏し始める。
いろんな魚や、貝やヒトデ、海草がいて。
その他にもたくさんの生き物が人魚姫を囲むようにして歌い、手を叩いて、ステップを踏んでいく。
聞こえてくる歌はやっぱりお互いに合ってるようには感じないけど、トランペットの二人が泡を撒き散らして吹く様はかえって賑やかで楽しくて、こちらとしては笑ってしまった。
なんだかんだと色々あったけれど、今年の練習はこれが最後。
海の宴はひとまず終わり。
そこから先は次に向かって、また両校ともそれぞれを磨いていくことになる。
けれども今はただひたすらに――出てくる音を、歌い上げればいい。
楽しい宴はもう一度。
今度はもっと華やかに、とことんまで準備して臨めばいいのだ。
だって蒼い海の中で開かれた饗宴は、また再び。
人魚姫の笑顔と共に、いつでも仲間たちと、開かれるのだから。
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「え、ええっと……湊さん。今日は本当に、ありがとうございました!」
その後も違う曲や、振り付けの確認をして。
全員が片付けをして帰ろうとする中、鍵太郎は葵に頭を下げられた。
この他校の部長がそうするのは、おそらく単に練習のことだけでなく今日お互いの部員同士で、ちょっとした騒ぎがあったからだろう。
そう思って、その騒ぎの中心になった二人を見れば――
「年明け、見てなさいよ。あんたなんか目じゃないくらい、すごい演奏をしてみせるんだから」
「言うじゃない。まあ、そこまで言うんならやってみれば? けど私も、あんたなんかよりもっと進化してる予定だけどね」
「あっそう。うふふふふふ」
「そうよ。ふふふふふふ」
「なんであいつらは、ああいう攻撃的な相互理解しかできないんだ……?」
トランペットのトップ同士の和やかな(?)話し合いに、思わず鍵太郎は額を押さえた。
まあ、以前のように無視し合ったり言い合いにならないだけ、はるかにマシなのかもしれないが。
メロディー楽器、高音楽器の連中のことはよく分からない。そう思うと同じ低音楽器である葵や、他の伴奏楽器の人間たちがとても平和に感じられる。
演奏上の役割が主役でない分、中低音楽器の人間は比較的おとなしい性格になりやすいのだ。
その傾向通り素直に頭を下げている他校の部長に、鍵太郎は言葉をかける。
「頭を上げてください、柳橋さん。合奏前にも言いましたけど、今回のことはあなたが悪いわけじゃないですし。むしろ、こっちが感謝してるくらいです」
葵の行動がなければ櫂奈はああまで他人に物を言うことはなかっただろうし、であれば光莉も自分の過去と、あそこまで真っ直ぐに向き合うこともなかったはずだ。
だから彼女に頭を下げなければならないのは、むしろこちらの方である。
顔を上げた葵は、同じく頭を下げている鍵太郎を見て相当慌てたらしい。初めて会ったときのように半ばパニック状態で、相手方の部長に言ってくる。
「な、何を言ってるんですか湊さん!? 湊さんの方が、私なんかよりよっぽどがんばってたじゃないですか!? 頭、頭上げてくだしゃい、本当! じゃないとむしろ私の方がいたたまれないじゃないですか!?」
「ああ……中低音女子いい。マジでいい。自己主張が激しくなくて優しくて謙虚で、本気で癒される……」
「ひゃう!?」
葵の言葉を聞いて、思わず本音が出てしまったのだが――それを聞いた彼女は、なぜか耳まで真っ赤になった。
だって、本当のことだからしょうがないのだ。
そこでバチバチと水面下で牽制し合っているそこのおっかない女子部員たちに比べて、葵や他の低音パートの部員たちの、なんと穏やかなことか。
まあ約一名、たまに無邪気に言葉のナイフを投げつけてくるバリトンサックスの後輩はいるのだけれども――と、鍵太郎が考えていると。
他校の部長は何やらもじもじしながら、不思議なことを訊いてくる。
「あ、あの……湊さんて、か、彼女とか……いるんです、か?」
「いるわけないじゃないですか!?」
「そうなんですか!?」
間一髪入れずこちらが答えると、彼女はひどく驚いた様子で勢い込んで返してきた。
そのまま小さくガッツポーズをする葵だったが、それは泣きながら心の叫びをあげる、鍵太郎の目には入っていない。
「いるわけないじゃないですか!? 女子ばっかりに囲まれて、さぞいいご身分だと周りからは言われますけど、実際はそんなこと全っ然ないですからね!? 彼女ができるどころか、むしろ虐げられてますからね!? 部長なのに!? ていうかその部長だって、半分押し付けられたようなもんですし!?」
「そ、そうなんですか!?」
先ほどとはまた違った驚きを見せる他校の部長に、鍵太郎はため息をつきうなずく。
「……そうですよ。まあ、多数決でどうしようもなかったので、そのまま引き受けましたけど。本来だったら俺は、部長になるような人間じゃないんです」
「そうは、見えないですけど……」
「割と無理して背伸びしてるから、そう見えるだけです」
じゃないと、届きそうもないものがあったもんですから――
様々なものを思い浮かべてそう言うと、葵はそこで初めて、安心したように笑った。
「……私もです。本当は、部長になんてなりたくなかった」
みんなが楽しそうにしてるのを、横で見てるだけでよかったんです。
でも、それだけではどうにもならなくなってしまって――と、彼女は苦笑して続ける。
「みんなをまとめるのは疲れて、面倒くさくて、嫌なこともいっぱいあるけれど……でも、私が見たかったその景色は、私が動かないと、もう見られないのかと思って。それで部長、引き受けたんです」
「同じですね」
「はい。同じです」
似た者同士だったんですね、私たち――と葵はくすりと笑って、鍵太郎も釣られて笑った。
これまでどうして、彼女が部長を引き受けたのかは疑問だったのだが。
その答えは簡単で、葵もあがいてもがいて――そうしようとする決心を自分と同じく、心の中に秘めていたからだったのだ。
そして今回のことで、彼女は自分が望んでいたものの一部を垣間見ることができた。
見たかったその光景を目にすることができた以上、この他校の部長はもう迷わず、そこに向かっていくことができるのだろう。
それを羨ましく思っていると、葵はこちらを見て言ってくる。
「意外でした。湊さんはもっとすごくしっかりしてて、私なんかとは全然違うんだって思ってたので」
「いやあ、そんなことないですよ。やっぱり心のどこかに、もっとしっかりしなきゃって思いは常にありますし」
「そうなんですね。えーと……じゃ、じゃあ、そういう部長ならではの悩みとか、相談とか、もっとやり取りしていった方が、ふ……二人にとって、いいんじゃないかって――」
と、彼女が提案してきたところで。
『ねえ、あんたたち』
それに返事をする暇もなく、光莉と櫂奈がこちらに話しかけてきた。
「もうそろそろ帰るわよ。部長のあんたがグズグズしてて、どうするの」
「柳橋、先生が呼んでる。そろそろ行かないといけないわ」
「え、あ、ちょっと!?」
抵抗する間もなく引っ張られていく葵を、鍵太郎は見送った。
先生が呼んでる、という言葉通り、その先では
「湊さーん! 今度また一緒に、合体必殺技しましょうねー!」
「合体必殺技って何、
「さあ行くわよ柳橋! 薗部高校の栄光に向かって!」
「夕日に向かって走るみたいなこと言わないでください、るり子先生!?」
「次こそは、あいつを圧倒してやるんだから。首を洗って待ってなさいよ」
「櫂奈ちゃんも、もっと人と仲良く!?」
そんな風にひとりひとりに丁寧に突っ込みを入れたところで。
葵は頭を掻きむしりながら、ああ、もう――! と半ばヤケクソ気味の声をあげる。
「湊さん、また今度の練習で! また――よろしくお願いします!」
「はい、こちらこそ!」
するとその返事に嬉しそうに笑って、柳橋葵は。
薗部高校の部長は、みなを引き連れ手を振って去っていった。
まるで今日の合奏のときのような賑やかなその集団を見送っていると、光莉が言う。
「なーんか、あの向こうの部長も、たまにイラッとくるのよねー。誰かさんと、ちょっと似てるからかしら?」
「おいおい、勘弁してくれよ」
似た者同士、という会話を聞いていたのかどうなのか、半眼で睨んでくる副部長に鍵太郎は答える。
「彼女は、俺なんかよりよっぽど強いよ」
それを聞いた光莉は「そういうことじゃないんだけど……ま、いっか」と苦々しく笑って、肩をすくめた。
彼女はそのまま回れ右して、自分たちの学校の仲間たちの方へ向かう。
「さあて、私もあいつに負けていられないわ。来年また会うときまでに、もっともっと刃を磨いておかないと」
「おまえらのその殴り合った後にできる友情みたいなの、本当になんなんだ……」
お互いにそんなことを言い合いながら、同じくこちらを呼んでいる部員たちの元へと歩いていく。
しかしこちらも光莉の発言に、ふと思うことはあった。
そうだな――と。
「俺も、負けちゃいられないな」
部長として。
今度会ったときは自分ももっとしっかりしていようと――鍵太郎は望む未来の形へ、ゆっくりと歩みを進めた。
第16幕 楽しいって何だろう〜了
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