第95話 墓地
文緒がまだ中学生くらいのときに亡くなった母方の祖父は、とても優しい人だった。文緒はめったに会うことはなかったが、たまにたずねていくと、ひざの上に乗せて可愛がってくれた。
だが、その祖父から、一度だけ怖い話を聞いたことがある。
祖父は戦中戦後を生きた人だ。もっとも祖父は当時、まだ子どもで、戦場じたいを経験したことはない。ただ、ひじょうに食べるものに苦労したらしい。
あるとき、家の近くを歩いていた祖父は、墓地のあたりで人影を見かけた。
少し前に近所の家で死人が出たばかりなので、一瞬ドキッとしたが、よく見ると、知っている男だ。満州帰りの兵隊で、人相が悪いため、近所の人たちもみんな、男をさけている。
男は墓場の片隅で何かを焼いていた。肉のこげる匂いがする。思わず、その匂いにつられて、祖父は近づいていってしまった。
男は木の枝に何かの肉を刺して火であぶっていた。まわりには茶色い毛が散乱していた。動物の骨や尻尾が見える。
「食うか?」と、男は言った。「野犬の肉だ」
当時はほんとに食料が不足していた。満足に食べるものを得られない国民がほとんどだった。キュウリやダイコンを生かじりしている子どもの写真が教科書にも載っている。
祖父は気づけば、男の手から肉を受けとり、かぶりついていた。
それから祖父は空腹にたえかねると、墓場へ行った。男がそこで肉を焼いていることが、しばしばあったからだ。
そのたびに肉をもらった。犬なのか猫なのか、よそから盗んできたニワトリなのか、それはわからないが、腹が満たせればそれでよかった。
「うちは兄弟が多かったから、餓死せずにすんだのは、あの男のおかげだよ」と、よく祖父は語ったものだ。
だが、そんなある日、いつものように墓地へ行った祖父は、そこで異様なものを見てしまった。
ザザザ、ザッザッと土をほる音がする。見れば、あの兵隊あがりの男が墓石のそばをほっていた。そこはまだ新しい
なんで、墓なんてほるんだろう?
墓をほって何をするつもりなんだろう?
墓のなかにあるのは、死体……。
祖父は子どもながらに、ある考えに思いいたった。男がいつも、どこから肉を得ていたのか。
急にブルブルふるえがついて、ひざが笑い、祖父は腰をぬかした。
「誰だ!」
その音を聞きつけて、男がふりかえる。
祖父は殺されると思った。
墓穴を荒らす姿を見たと男に知られたら、きっと殺されてしまうと。
荒い息がもれる口を、祖父は必死になって両手でおおった。汗が背中や脇の下を流れおち、そのまま瞬時に凍りつくような恐怖を味わった。
しかし……幸いにして、墓石のかげになった祖父に、男は気づかなかった。そのまま、また墓穴をほりはじめる。
祖父はほうほうのていで家に逃げ帰った。
それっきり、二度と墓には近づかなかったそうだ。
以来、成人してもずっと、祖父は肉を食べなかった。魚ばっかりで、肉は食べない。食べると、あのときのことを思いだしてしまうから。
「ただね、文緒。おじいさんがもっとも怖かったのは、そのことじゃなかったんだ。あれから何度も寝られない夜には考えた。だが、どれだけ考えても、なげいても、嫌悪しても、やっぱり、あの肉は美味かった……」
そう言いながら、文緒の顔をじっと凝視した祖父。
あのときのなんとも言えない祖父の目が、どうしても忘れられない。
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