第20話 ペアノ算術 和と積

一人になってしまった。


藍は湾を見送った後、少しだけ後片付けをしてしばし呆然としていた。


それにしても中途半端なところで終わってしまった。とはいえ、数学的帰納法の具体例はあまり良いのが思いついていないし、むしろ和と積の公理をしっかりと述べてからのほうが良さそうだ。


部屋を意味もなくぐるっと一周する。


仕事のためにパソコンを付ける。起動までに時間がかかる。


そうだ、この間に湾に和と積の公理だけでも送っておこう。


藍は自分の携帯電話を取り、メールの新規作成を始める。


なんだか変だ。こんなメールを送った事はない。どんな書き出しにすればよいのやら。ゆっくり考えよう。


起動が完了したパソコンが、仕事に取り掛かるのを待っている。


いや、今はまず湾へのメールに専念しよう。


藍は立ち上げたばかりのパソコンの電源を切り、携帯電話に向かった。


***

先程、数学的帰納法の公理について考えようとしたけれど、その前に和と積の公理について述べよう。これは2つの記号+と×に関する公理だ。


まず、これが+の公理


∀n∈ℕ((n+0)=n)

∀n,m∈ℕ((n+S(m))=(S(n)+m))


この2つだ。( )が多くて煩雑だけど、文法通りに書いてみた。また、×の公理はこうだ。


∀n∈ℕ((n×0)=0)

∀n,m∈ℕ((n×S(m))=(n+(n×m)))


この2つだ。まずは、+のほうを理解しないと×のほうは厳しい。


もし時間があったら、これをノートに写しておいてね。

お仕事うまく行きますように。頑張って。


***


藍は書いた文章を見直し、文体の不一致に気づいたが、数学の文章に口語を使うのは変だし、かと言って湾への私信を堅苦しく言うのも嫌だったのでこのまま送信した。


藍は一人逡巡した。もしかして、変なメールを送ってしまったかもしれない。今までにこんなメールを送ったことあったっけ…?


そして、手持ち無沙汰になってしまったので、またパソコンを付ける。時間を見ると、14時5分。まだ湾の予定の時刻にはまだだ。返信は来るかもしれないが、こんなメールにどうやって返信くるんだろう?具体例でも考えてくれるだろうか。


パソコンが起動完了したところで、藍の携帯電話が鳴る。途端にパソコンのファンの音が厄介に感じられる。


すると間もなく湾から返信が帰ってきた。


***

ありがとう。夜に見てみるね。

***


なんだか違うな、と思いながら、藍は観念したようにパソコンに向かって仕事を始めた。


………


 ………


  ………


夜7時。

そろそろ夕食の支度でもするべきだが、あまりやる気が起きない。もう湾の用事は終わっただろうか?

とりあえず、具体例でも書いて送ろう。


***

お仕事お疲れ様。上手くいった?


一人で+の公理を読むのは辛いと思うので、具体例送るね。

まずは1つ目の式を確認する。


∀n∈ℕ((n+0)=n)


nは自然数なら何でも良いので、例えば

n=S(S(0))

としてみよう。これは

n=2

の意味を期待する。これを


(n+0)=n


に代入すると、


(S(S(0))+0)=S(S(0))


すなわち、


2+0=2


という計算ができた。では、2つ目の式を見てみよう。これは再帰的定義という手法が取られている。


∀n,m∈ℕ((n+S(m))=(S(n)+m))


いま、

1+3

の計算をしてみたいとする。

もちろん、ここで言う1とはS(0)のことであり、3とはS(S(S(0)))のことだ。すると、


(n+S(m))=(S(n)+m)


この式の左辺で1+3を扱えるようにするには


1+S(2)


と書き直す必要がある。つまり、

n=1=S(0)

m=2=S(S(0))

として、代入する。


(1+S(2))=(S(1)+2)


右辺を、

S(1)=2

2=S(1)

として書き直すと

(2+S(1))

となるので、これをもう一度

(n+S(m))=(S(n)+m)

に代入すると、


(2+S(1))=(S(2)+1)


となる。この式の右辺を

S(2)=3

1=S(0)

を用いて

(3+S(0))

と書き直すと、もう一度


(n+S(m))=(S(n)+m)


に代入できて、


(3+S(0))=(S(3)+0)


となる。

S(3)=4

を使って

(4+0)

と書き直して、今度は


(n+0)=n


こちらに代入しよう。すると、


(4+0)=4


となり計算が終了した。まとめるとこうだ。

(1+3)

=(1+S(2))

=(S(1)+2)

=(2+S(1))

=(S(2)+1)

=(3+S(0))

=(S(3)+0)

=S(3)

=4


同じことだけれど、1,2,3,4といった記号を用いずに地道に書けば、

(S(0)+S(S(S(0))))

=(S(S(0))+S(S(0)))

=(S(S(S(0)))+S(0))

=(S(S(S(S(0))))+0)

=S(S(S(S(0))))

このように計算されていく。Sの個数が常に4つで右から左にSが受け渡されて行くことがよくわかるね。


では、掛け算の方、×の公理の具体例を見てみよう。


∀n∈ℕ((n×0)=0)

∀n,m∈ℕ((n×S(m))=(n+(n×m)))


まずは上のほうから。もう先に次のように定義してしまってから考えよう。

1:=S(0)

2:=S(S(0))

3:=S(S(S(0)))

4:=S(S(S(S(0))))

5:=S(S(S(S(S(0)))))


まず

3×0

でも考えてみよう。


(n×0)=0


文法の関係でカッコがついているけどこれにn=3を代入すると、

3×0=0となる。


では、3×2を考えてみよう。


(n×S(m))=(n+(n×m))


これに代入するわけだけど、2=S(1)と書き換えて代入する。これは+のときと同じことだ。


(3×S(1))=(3+(3×1))


さて、この式は+と×が入り混じっているが、

3×1

すなわち

3×S(0)

が計算できるので、続ける。


(3+(3×S(0))

=(3+(3+(3×0)))


そして、

(n×0)=0

なので


(3+(3+(3×0)))

=(3+(3+0))

=(3+3)

=6


となる。始めからまとめると、


(3×2)

=(3+(3×1))

=(3+(3+(3×0)))

=(3+(3+0))

=(3+3)

=6


となる。たしかに上手く和と積が定義されていることがわかるよね。

湾も自分で練習すると楽しいと思う。

4×3

とかどうだろう?


時間がある時考えてみてね。

ゆっくり休んで。


***


書き終わって、書き直して、送信するか迷って、送信した頃には夜8時になっていた。


今から夕食作るのもだるいな。冷蔵庫にりんごがあったからそれで良いか。


………


 ………


  ………


返信は来ない。とりあえず寝る準備でもするべきか。明日の朝までに来てれば嬉しいけど、でも今までも連絡取らない日なんて普通にあったから大丈夫。湾の仕事の方が今は大事。


………


 ………


  ………


藍は寝る支度をして、11時から12時まで仕事をしたあと、眠りについた。

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