第5話「冷たい瞳と優しい唇」
5話「冷たい瞳と優しい唇」
期間限定で訳ありの結婚が決まった、椋と花霞だったが、花霞は彼の勢いに押されていた。
椋は結婚に強い憧れがあったのようで、いろいろな事を要望してきた。もちろん、花霞だって結婚したいなとは思っていた。だが、女性以上に希望があったようだった。
出会ったばかりで結婚だけでも驚いていた花霞だったが、長い付き合いの恋人のように椋は接してきたのだ。
「お風呂の使い方、わかった?」
「は……うん。ありがとう。」
「パジャマは今度一緒に買いに行こう。他にもいろいろ揃えなきゃ……食器にタオルに歯ブラシに……。」
「あの、あるものはそのまま使うから大丈夫だよ。キャリーケースの荷物はどこに置けばいいかな?」
「空いてる部屋があるから、そこを使ってくれればいいよ。じゃあ、ここの家の案内も一緒にしよう。」
そう言うと、椋は花霞が持っていたキャリーバッグをさりげなく抱え持ち、先を歩き始めた。かっこよくて、気配りも出来る優しい椋。なぜ、モテないのかがわからなかった。
「まず、リビングのすぐ隣の部屋は、君が寝ていた寝室。……お風呂は断られちゃたから、寝る時は一緒に寝ようね。」
「………………わかりました。」
「大丈夫だよ。さすがに、今日は手を出しません!………まぁ、今は、ね。」
「椋さんっ!」
「んー、怒らないで。………夫婦なんだからいいと思うんだけど。」
花霞の返事を聞いて、椋は納得していないように、ブツブツと文句を言っていた。それでも顔は笑顔で何とも楽しそうにしており、花霞は思わず微笑んでしまう。こんな状況なのに、彼の笑顔が伝染しているのかもしれない。
「で、その隣が空き部屋だよ。少し俺の荷物を置いてあるけど、あと避けるから。」
そう言ってドアを開くと、大きな窓がある綺麗な部屋に椋がキャリーバッグを置いた。その部屋は以前、玲と2人で住んでいた部屋よりも広い作りになっており、花霞は驚いてしまう。
「こ、こんな大きな部屋を使ってもいいの……?」
「もちろん!結婚したんだから、この部屋よ住人だよ。どうぞ。」
「わぁー………。ありがとうございます!」
「家具も買い揃えようね。明日は買い物だな。楽しみだ。」
椋と話している時、廊下の出口に一番近い部屋があるのに花霞は気がついた。
あの部屋は何があるのだろうか。そんな事を思い椋に訪ねた。
「椋さん。あの奥の部屋は、何に使ってるの?」
「あぁ………あそこ?あそこは、俺の書斎だよ。」
「そ、そうなんだ………。」
椋の言葉が耳に入った瞬間、花霞はドキッとしてしまった。
椋の声が先ほどよりも温度のない冷たい口調になっていたのだ。
昨日あったばかりなので、彼の事を詳しい訳ではない。
けれど、倒れた花霞を助けたり、楽しそうに新婚生活の話をしていた椋からは想像出来ないような冷淡な声だった。
「あぁ。花霞ちゃんに1つだけ守って欲しい事があるんだ。」
「守って欲しい事?」
「そう………あの部屋。僕の書斎には絶対に入らないでね。」
「え…………。」
椋の視線は、その書斎に向いていた。
けれど、彼はそこを睨みながら、そう言ったのだ。花霞を追い出した玲よりも、恐怖を感じる強く鋭い視線で。
花霞は思わず、体を震わせて後ろに1歩下がってしまう。あまりにも彼の様子が変わりすぎているからだ。
「もし入ったら………僕からのお仕置きが待ってるからね。」
「お、お仕置き……?」
花霞が怖がっているのか、先ほどの表情が幻だったかのように、椋はにっこりと笑ってそう言った。
けれど、花霞にはわかった。
彼の口許は微笑んでいるけれど、目は全く笑ってない事を。
花霞は、あの部屋には決して近づかないと心に決めたのだった。
椋がお風呂に入っている間、彼には「先に寝ていてもいいよ。」と言われたものの寝れる気が全くしなかったため、寝室の大きな窓から夜景を眺めていた。
寝室以外はカーテンも要らないような高層マンションの一室から見る夜景は、まるで高級ホテルや展望台から見るような、豪華なものだった。
「綺麗だなぁ…………。」
独りつぶやきながら、花霞は呆然とキラキラと光る星空のような町を見つめた。
このたった1つの部屋の光の先に、自分は居たのだ。それを、今はこんな高い所から見つめているのだから、信じられない思いだった。
生きていると、思いもよらない事があるのだなと、しみじみと考えてしまう。
けれど、ここに来る事を選択したのは、花霞自身なのだ。自分でここで暮らす事を選んだのだ。期間限定であっても、自分で決めた事に、いつまでも不安にならないように、そう決めた。
そして、いつまでも彼の事を思うのも止めよう。
止めたい………そんな事を思っても、3年一緒に居た時間や思い出は、すぐに消えるものではなかった。
「はぁー………。」
大きなため息を洩らす。
すると、突然後ろから腕が伸びてきて、あっという間に体を抱えられてしまった。
もちろん、犯人は椋以外にいるはずがなかった。
「りょ、椋さんっ!?」
「婚約初日の夜にため息をつくなんて、寂しいなー。」
「あ、あの!重いから離してください!」
「重くないよ。俺、鍛えてるし。それに、また敬語になってる。」
「あっ………。」
椋の指摘にハッとして、手で口を覆っているうちに、花霞を抱き上げた椋は移動して、花霞の体を大きなベットにゆっくりと下ろした。
「まだ、慣れない?」
「うん……椋さんはどうしてそんなにすぐに対応出来るのか不思議……。」
「結婚してみたかったから。ずっと…………。どんな事をしたい、とか。いろいろ考えてたからかな。」
「………椋さん、モテそうだよね。」
「そんな事ないよ。仕事ばっかりだから、なかなかね。それに………。」
「………ん?」
何か言いかけた椋だったが、開いていた口をゆっくりと閉じて、フッと言葉の変わりに息を吐いた。
そして、微笑見ながら、花霞の頭を優しく撫でた。
「なんでもない。………まだ花霞ちゃんは病み上がりだ。もう、寝ようか。」
「………はい。」
そう言うと、花霞の横に椋が体を倒した。そして、花霞の体と共に柔らかい布団をかけた。
2人で布団の中に入るとすぐに体が温かくなる。そして、椋の匂いに包まれる。
「じゃあ、おやすみ。明日からよろしく。」
「うん……おやすみなさい。」
「………恋人っぽく、おはようと、おやすみと、いってらっしゃいのキス、しようか。」
「へ………。」
「おやすみ、花霞ちゃん。」
花霞が返事をする前に、椋はまた触れるだけのキスをした。温かいぬくもりのあるキスで、緊張するはずなのに、何故かホッとするキスだった。
「おやすみなさい、椋さん。」
返事をすると、花霞の髪を撫で、そしてそのまま体を引き寄せられ、あっという間に椋の胸の中に体がすっぽりと包まれてしまう。
温かい。
人肌が気持ちいい。
誰かと一緒に居られるのが安心した。
これを求めて、花霞は求めていたのだ。
涙は出なかった。
この出会いと、居場所と、ぬくもりをくれた椋に感謝を心の中で伝えながら、花霞はゆっくりと瞳を閉じた。
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