第89話 黙ったままじっと

「フォアボール!」

 球審が一塁を指差す。

 六回の裏、この回先頭の七番に対して、大智はフォアボールを与えた。

 この試合初めてランナーを許した。

「ああっと、コントロールが定まりません。春野、ここまでパーフェクトピッチングを続けて来ましたが、ここで初めて自らの手でランナーを許してしまいました」

「いいんじゃないですか」

「と、いいますと?」

「このまま下手にパーフェクトを続けて終盤に入り込むより、この辺りで自らの手で終わらせておくのも一つの手だということです。完全試合は本人よりも周りの方が気を遣いますし、動きも固くなってしまいますから。こういうものは続けば続くほど崩れた時のリスクは大きいですし、一度切れた糸を繋ぎ直すのは非常に難しい。リスクを抑えるのであれば、あえてパーフェクトを続けないという考え方もありだと私は思いますね」


「だ、そうだが?」

 フォアボールでランナーを出した後、大森がマウンドに来て大智に訊いた。

「別にわざとじゃねぇよ」

 大智は帽子を深く被り、マウンドの足場を足で整えている。

 六回の表の攻撃の最後、一塁まで全力疾走した挙句、ヘッドスライディングをした疲労が残っているのか、大智の呼吸は微かに荒れている。

「わかってるよ。わざと出すなら普通二アウトからだからな。失点するリスクの高くなる先頭バッターにわざとフォアボールを与える奴なんていないだろうしな」

 それを聞いた大智は目を点にしていた。

「は? おい、お前やっぱりさっきのわざとだったのか? しかも、何も考えず先頭を出したんじゃないだろうな」

「冗談だよ。走った後で、少し抑えが効かなくなっただけだ」

「たくっ、変な冗談はよせよ。けど、本当に走った疲れだけか?」

「あん?」

「昨日からの連投だ。どっかに痛みが出だしたんじゃないだろうな?」

「大丈夫だよ。ほれ、この通り」

 そう言って大智は体中を動かして見せた。

「な?」

「わかったよ。じゃあ次のバッターからはきっちり頼むぜ」

「当然。自分で招いたピンチだ。ちゃんと自分で片づけるさ」

 二人はグータッチを交わして守備位置に戻った。


 試合再開。

 八番は送りバントを試みるも大智の真っすぐの球威に押され、一度目をファールにし、失敗した。

 だが、次の一球はきっちりバントを決め、ランナーを二塁へと進めた。

 一アウト、二塁。

 九番は大智の球にしぶとく付いてきた。

 大智の投げる真っすぐにも、変化球にも必死に食らい付いてくる。

 二ストライクと追い込んでからの一球だった。

 空振りの三振を狙いに行った外へ逃げていく変化球に港東の九番は必死に食らい付いてバットに当てた。

 辛うじてバットに当てられた打球は右方向へ飛んで行く。

 打球は弱い。

 打ち取った。

 かに思えたが……。

 飛んだ場所が悪かった。

 打球は一、二塁間のど真ん中を転がって行く。

 打球が速くなかったため、何とかセカンドが追いつく。

 だがボールは投げられなかった。

 打球が弱かった分、もし内野を抜けていたら二塁ランナーは一気にホームを狙ってきたに違いない。

 内野で止められたことが千町高校にとっては救いだった。

 だが、ほっとするのも束の間、港東高校の打順は上位に返る。

 一番が打席に立つ。

 一アウト一、三塁。

 この場面、千町バッテリーは満塁策を選択した。

 一番を敬遠し、一アウト満塁で二番、三番との勝負を選んだ。

 一番をフォアボールで一塁に送り、二番を打席に迎える。

 投げる前、大智は一度大きく深呼吸をした。


「空振り三振! 二者連続!」

「しゃあ!」

 大智がほえた。

 球場は沸いていた。

「千町春野。満塁策をとってから、港東高校の上位打線に対して強気の全球ストレート。それは決して慢心ではありませんでした。確かな自信がありました。結果はご覧の通り。一アウト満塁の場面から、見事、港東高校の二番、三番を空振り三振に切って取りました! 六回の裏にも0が並びます!」

 圧巻のピッチングを目の当たりにし、ざわつく球場。

 そんな中、剣都だけは、黙ったままじっとマウンドを見つめていた。

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