十四 大雁塔(二)

 きみたち、玄奘げんじょうという僧は知っているかい?

 唐の偉いお坊さんで、十六年かけて天竺てんじく(インド)まで行って帰ってきて、たくさんの仏教の経典を唐にもたらした人だよ。

 玄奘法師が持ち帰った経典を納めるために建てられたのが大雁塔だいがんとうで、大慈恩寺だいじおんじという広大な寺の中にある、十階建てのとにかく巨大な塔だった。

 え? 三蔵法師? 西遊記?

 そうか、玄奘法師が書いた『大唐西域記だいとうさいいきき』を基に、子どもも楽しめるお話が作られたんだね。

 天をくような高さの大雁塔は、中にある階段で上まで登ることができた。

 わたしたちは壁に空けられた穴のような窓から眼下に遥かに広がる長安の街を見て息を飲んだ。

 これが世界一の都!

 世界の中心に、いまおれたちはいるのだ!

 在唐留学生は仲麻呂に話しかけた。

「仲麻呂、きみは本当に科挙に挑戦するつもりか?」

「はい」

「きみの名を聞いたときは驚いたよ。正五位下しょうごいのげの阿倍氏の息子……よく海を渡ったな。そんな危ないまねをしなくても、日本でそれなりの出世はできるじゃないか。おれは違う。おれは下級役人の子だ。一族繁栄のため大海を越えた。だが十五年……長すぎた。楽しかったのは最初の二年くらいだ。あとはもう帰りたい一心だった。おれはいったいここで何をしているんだろうとよく思った。周りの唐人学生が仕官したり結婚したりする中で、学問に打ち込むことなどできなかった。貧乏留学生の身じゃ遊ぶ銭も無いしね。時が自分だけを取り残して過ぎていった。これで日本に帰ったとしても一族のために大したことはできないだろう。同じように異国で十六年過ごした玄奘法師はこんな立派な塔を建てたというのに……」

 在唐留学生はふっ、と寂しそうに笑った。

「情けない話をしてしまったが、これが留学生の真の姿だ。知っておいてほしかった」

「教えてくださってありがとうございます」

「科挙か……考えたこともなかった。日本人にも受けられるものだなんて思っているのは、おそらく天下広しといえども弁正べんせいときみくらいだよ。ついて来たまえ」

 わたしたちは階段を下りていった。

 塔の入り口から差し込む外の光が見えてきたところで、在唐留学生は壁を指差した。

「ご覧、科挙の中でも一番難しい進士しんし科に合格した者たちの名が刻まれている。仲麻呂、きみの名もいつかここに連なることだろう。きみの唐名は?」

 わたしたちは壁の文字群をじっと見つめた。

 仲麻呂が静かに答えた。それはいままで聞いた中で一番低く男らしい声だった。

朝衡ちょうこうです」

 その瞬間、わたしの目には壁に刻まれた「朝衡」の二字がはっきりと見えたのだった。

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