第44話 熱に浮かされて

『38.6℃』


「風邪だね」

「風邪だな」


 体温計と冬木に認められ、俺も自分の体にKOの判定を下した。ちなみに午前中のうちに診察を受けて、ゼリーで風邪薬を押し込んだ後である。


「これじゃ学校は休みだね。連絡しておくんだよ」

「ごほっ……友達に頼んでおく」


 それから風邪にひつようそうなあれこれをベッドサイドに置いた冬木はマスターキーで入口を施錠して去っていった。その鍵の閉まる音をうっすらと聞きつつ、だるい指で文字を入力する。まだ時間はギリギリ昼休みだ。


『きょうはむり』


 すぐに既読がついて『お大事に』と返事が返ってきた。それを見てからスマホを放り出す。送った相手は桐ケ谷だ。クラスが同じなら優馬に頼んでいただろうが生憎今年は違う。残るは桐ケ谷か高坂か林の三択で、林は負い目を感じさせてしまうからパス。高坂は得体の知れない感じがあるからパス。消去法で桐ケ谷になった次第だ。

 とりあえず教師に風邪で休む旨が伝われば良かった。そういう意味でも学級委員をしている桐ケ谷で正解だったんじゃないかと思う。

 体はだるさを訴えかけている。俺は少しの間眠ることにした。


 四時間ほどだろうか。かいた汗の気持ち悪さに目を覚ましたのは午後の五時過ぎ。身じろぎをして体を起こし、枕元のスポーツ飲料を口に含んだ。それでいくらか志向がすっきりした俺はべたつく肌を拭って着替えを済ませる。

 おぼつかない足取りながらも洗濯機に脱いだ服をぶち込み、それからだらだらと自分の部屋とリビングを何往復化した。


「……さて、やるか」


 目の前に並べた教科書や参考書に、正直食傷的な何かを覚えながらもシャーペンを取る。来週からはもう中間テストだ。今日明日の授業はテスト範囲や出題する問題の例なんかが出されるだろう。こんな直前に風邪を引くなんて最悪にもほどがある。

 せめて、少しでも。

 そんな思いとは裏腹に、茹で上がったような脳みそではいつものペースで勉強を進めることもままならない。俺は頻繁に休憩をはさみながら一ページずつ教科書を読み進めてマーカーを塗った単語や公式を再確認する。

 頭痛が酷くなったら額に冷感湿布を貼って、空かない腹にゼリー飲料を流し込む。


『真面目クンかよ』と去年の俺がいたら笑うだろう。


 いよいよ羅列された明朝体を目で追えなくなってきて、俺は目を閉じてソファに深くもたれかかった。

 正直、テストの点数で付けられる順位や頭の良い悪いの価値観はよく分からない。直前に一夜漬けすれば先生に怒られないくらいの点数は取れる。

 一点に泣き笑いするなら、その点を稼ぐ時間を仲間とつるむ時間にした方が有意義だっていうことを去年の俺は実践してきた。点数を取るか仲間を取るか、どういう風に時間を使うかはその人の自由だとしたら、俺が寝ずに勉強しているのも自由。

 真面目クンやったって悪くないよな、と今の俺は思う。

 そんな益体もないことを考えていたせいだろうか。俺は来訪者が玄関からやって来たことにまったく気づかなかった。


「あなたねぇ……」


 その来訪者はソファの裏側、俺の頭の上でそれはそれは深いため息をつく。体温を診るために頬にそえられた手のひらがひんやりと冷たい。俺は薄く目を開けた。

 制服姿の桐ケ谷が、天井のシーリングライトで影を作っている。


「どうした? 見舞いか?」

「……やっぱりラインは見てないのね。寝てるかと思ったら起きてるし。病人はおとなしく寝ていなさいよ」

「いやあ、そういうわけにも行かないだろう」


 多分、いや間違いなくここに桐ケ谷を通したのは冬木だ。気の利かせ方のベクトルが違うよなと少し思う。桐ケ谷に風邪移したらどうしようか。


「果物とか、食べられそうなものを買ってきたけれど食べる?」

「あぁ……悪いな。今はいいや、ありがとう」

「冷蔵庫に入れておくわね」

「近くにマスクの箱があるから、それ使ってくれ」

「あら、私の心配をしてくれるの?」


 がさごそと物を入れる音を立ててキッチンから戻ってきた桐ケ谷はマスクをしていなかった。自分で買ったカップのゼリーとプラスチックのスプーンを持って俺の隣に座る。


「そりゃ、するだろ。テストもうすぐなんだぞ」

「春人は私を体調管理もできない女だと思っているのかしら。心外ね」

「遠回しに俺を罵ってないか、それ」

「どうでしょうね」


 くすくすと桐ケ谷は笑う。熱で頭が回らず、俺はそういうことにして会話を放り投げた。体調管理ができてないのは事実だ。相変わらず脱力しっぱなしの俺に桐ケ谷は肩を預けてゼリーのふたを開けていた。


「直接うつされもしない限り大丈夫よ」

「直接?」

「例えば……キスとか、ね」


 挑発的な猫目と至近距離で視線が絡む。

 そしてどちらともなく逸らした。


「お前な」

「冗談よ。風邪ひくのはごめんだもの」


 ひょいぱくとゼリーを含んだ唇は、リップでも乗っているのか艶やかに光っている。俺は形の良いそれに自然と目が吸い寄せられた。

 頭がぼーっとしていたせいかもしれない。

 肩にかかっていた重みがなくなる。首を持ち上げると桐ケ谷がじりと姿勢を変えていた。軽く狼狽している。


「ひ、人の口を見すぎよ……」

「ああ、悪い」


 そんなつもりはなかったんだけどな、と言い訳を口にして俺は単語帳を手に取った。パラパラとめくって覚えるよう努める。風邪のせいで頭に入ってくる感じはしないが、それでもやらないよりはましだろう。

 隣の桐ケ谷は呆れていた。


「寝た方がいいわよ?」

「わかってる」


 聞き分けの悪い子供じみた言葉に肩をすくめる。

 仕方のない春人ね、と前置きをして桐ケ谷は告げた。


「週末、勉強会しましょう。出題されそうな所を教えてあげるから」


 それから俺を強引にベッドに押し込んだ桐ケ谷は勉強道具を片付けると帰って行った。

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