第十二話 不思議大根
次の瞬間、目の前にはオレがいた。
え、なにこれ?
いるだけなら良い。
鏡かな、と思うだけだ。
だが、今オレの前にいるオレの状態は、ちょっとばかり普通とは言い難い。
なにせ首が曲がってはいけない角度で、90度回っている。おまけに口から変なふうに血がたれていた。
ちょっと見れば誰でもわかる。一般的にそれは死体というやつだ。
なぜこうなったのかわからないが、どうもオレは自分の死体を見ているらしい。
思わず自分の死体に目を奪われたが、徐々に周りの状態が見えてきた。
今のオレは中空に浮いていた。そこから俯瞰するように地面を見下ろしている。
場所は、ついさっきまでいた広場だ。ログハウスから少し離れたところにオレの死体は転がっている
オレはイノシシの突撃をもろに食らったらしい。首以外にもあっちこっち、変なふうに体がひしゃげていた。
それをもたらした加害イノシシは、まだ鼻息荒くオレの死体を憎々しげに睨みつけている。
これが幽体離脱というやつなのか?
そんな光景を前にしても、どこかオレの頭は冷静だった。
現実逃避しているのかもしれないが。
ぽかんとしていたオレの前で、イノシシがまた地面を駆ける。
また、鈍い音が響いた。
うわぁ…。
イノシシに激突され、オレの死体が、サッカーボールのように転がった。広場の隅までゴロゴロと転がっていく。
まさか死んだあとに、自分の死体のリンチ風景を見せられるとは思わなかった。
オレの死体は壊れたマネキンのように転がり、広場の角にだらりと寝そべる。
もう死んでいるのはひと目で分かるが、イノシシの気は済まないらしい。そのままオレの死体を鋭い牙で突き刺している。
「ちょっと、そこのあなた! 止めなさい!」
グロテスクな効果音が包む広場に、すっかり聞き慣れた機械音声が響く。
声の方に目を向ければ、キーファの画面が激しく点滅していた。
「ちょっと、マスターは、静かに逝くことをお望みだったんです! あなたが邪魔して良いことじゃないんですよ?!」
どうやらまだキーファは優秀なダンジョンコアでいることを諦めていないらしい。
嬉しいといえば良いのか、なんと言えば良いのか。
いやオレもう死んでるぞ、と声をかければ良いのか…。
キーファの必死の呼びかけも聞こえないのか、イノシシはオレの死体にその鬱憤の全てをぶつけんばかりだ。
うわ、骨見えちゃってるよ。
「ちょっと、お願いですから止めてください…」
鈍い音が響くたび、キーファの声が弱々しくなっていく。
「止めてください…。大したことはできませんでしたが、せめてこれくらいはさせてください…。それすらもできないんですか私は…」
子供の泣き声のように、呻くようにキーファは言う。それは徐々にすすり泣きへと変わっていく。
すまん。
もう、申し訳無さしかない。
鼻をすするような音がスピーカー越しに響く。
出会って数時間という短い間柄だが、キーファは最期まで本気で尽くそうとしてくれた。
その最後が主人の死体のリンチ風景だ。
すまん。
こんなはずじゃなかったんだ。
今更こんな事を言っても仕方ないが、キーファにはひどいことをした。出会ってすぐに嫌だといい。その後死にたいといい。後始末の手伝いまでさせた。
その挙げ句にこんな光景を見せられているのだ。
どうする?
オレはもはや亡霊のようなものだ。
さっきから浮いているだけで、指一本動かせる気がしない。せめて慰めてやりたいが、それすらもできない。声をかけてもそれすら届かないだろう。
死ぬのははじめての経験だが、こんなものを見せられるのは地獄でしかない。こんなことなら、もっと生き汚く生きても良かったじゃないか。
俺の肉が裂ける音と、キーファの泣き声だけがこだまする。
そんな絶望が、オレの前には広がっていた。
かちゃり。
そんな光景に変化を加えたのは、扉の開く音だった。音自体は小さいはずなのに、それはこの空間に鋭く響いた。
こんなところにある扉は、一つしかない。
目線だけ動かせば、ログハウスの扉がゆっくりと開いていく。中は全く光がなく、そこには暗闇しかない。そういえば、明かりをつけてやるのを忘れていた。
さっきまでなんともなかったはずなのに、何故か扉はきしむような音を立てて開いていく。
その音に反応して、イノシシがログハウスをにらみつける。
だめだ。
思わず声が出た。
おそらく、人形が出てこようとしている。しばらく大人しくしていろと言っておいたのに、死んだらそのへんも無効なんだろうか?
イノシシがその扉の開く音に反応して、のしのしと音の方へと向かっている。
おいおいおい。
あの傷では、人形もまともには動けないだろう。このイノシシに襲われれば助からない。
それこそ人間がトラックに立ち向かうようなスケール差なのだ。もしまた見つかれば、半死半生など助かるはずもない。
頼む、そのまま中にいてくれ。
オレには願うことしかできない。
死ぬというのがここまで苦しいとは思わないかった。死後の世界なんて信じていなかった。死ねば消えて終わりだと思っていた。それがまさかこんな有様だとは。
これが罰だと言うならそれも良い。だが、頼むからアイツらは。
オレがそう願ったときだった。
ログハウスが、粉々に吹っ飛んだ。
は?
ログハウスは木片になり、辺り一帯にそれを撒き散らす。顔のあたりを、ドアらしき木片が通り過ぎていった。
その衝撃は、ログハウスに向かっていたイノシシさえも巻き込んだ。
何があった?
もうもうと土煙が上がり、辺り一帯を覆ってしまった。
転がっていたイノシシが立ち上がり、土埃に向かって威嚇するようなシューシューという声を上げている。
視線もまともに動かせない今では、それを見ているしかできない。
そうして見ていると、ぬるりとその土煙から影が伸びた。
まばたきの間だったが、それは手のように見えた。
鉤爪の生えた、指が異常に長い、縮尺の狂ったような巨大な手。
それは恐ろしい速度でイノシシに迫ったかとおもうと、次の瞬間、イノシシを鷲掴みにして土煙の中に引きずり込む。イノシシは声も上げられなかった。
一瞬、辺りが静まりかえる。
だが、次の瞬間、何かを引き裂くような音とともに、土煙の中から恐ろしい断末魔が聞こえてきた。イノシシの、空気をつんざくような悲鳴。それは人間には理解できないが、許しを請うているように聞こえた。
イノシシの悲鳴が聞こえなくなるまで、あまり時間はかからなかった。
山の空き地には、本当の静寂が訪れた。
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