第22話 私、筋肉痛に屈する

 べたん。


 と、聞こえたのは気のせいだと思う。でも、乙女はそんな音が聞こえてきそうな勢いで熊の頭に張り付く。


「クォー!」


 驚いた熊が鳴き声を上げる。


「乙女!」


 動いて、私の足。

 脳が指令を送る。

 もつれた足が動く。

 前へ進む。

 熊は動かない。


 ビキビキと筋肉痛の足が畑の土を蹴る。

 いや、蹴ったような気がした。

 実際は足がもつれて、バランスを崩して、体が熊に向かって勢いよく進んだだけだ。


 まさかこんなところで前日の荷物運びの影響が出るなんて。


「うわ、わっ、わああああっ!」


 よろりとよろけた私は、そのまま何かにつまずく。


 ガツンッ。


「いたっ」


 視線を落とすまでもなく、それがジープのパーツだとわかった。けれど、わかったところで意味がない。フライングレシーブよろしく、私の体が熊に向かって飛んでいく。


 このまま畑に落下するのは避けたい。

 私は、伸ばした手に当たったふわっとした何かを迷わず掴んだ。


「え?」


 手に触れる何か。

 それは、たくましいものを覆うもふもふっとした感触がするものだった。


 これ、熊さんなのでは――。


 恐る恐る顔を上げると、私はツキノワグマに抱きついていた。視線を挙げれば、頭の上に乙女がいる。


「え、えっと、熊さん。こんにちは」


 むぎゅっと抱きついて挨拶すると、熊が「クオー」と挨拶を返す。仲良くしてねという思いを込めて首の辺りを撫でてやると、私の頬を嬉しそうに大きな舌でベロベロと舐めた。


「乙女は大丈夫?」

「うにゃーん」


 何を言っているかわからないけれど、ご機嫌な鳴き声が聞こえてくるから問題はないらしい。しかし、ほっと一息つくというわけにはいかなかった。


「ブフォオオオオオ!」


 ツキノワグマの後ろから、もう一頭の熊が吠える。


 忘れてた。

 熊は二頭いるんだった。

 私は、慌ててハイイログマを指さす。


「お願い! あの熊、捕まえて!」


 ツキノワグマに頼むと、その言葉に反応して熊の頭の上から乙女が飛び降り、私は彼女をキャッチする。


「クフォー」


 だだの鳴き声にしか聞こえなかったけれど、おそらく「了解」とでも言ったんだと思う。その証拠にツキノワグマが私を離して駆け出す。そして、ドタドタとハイイログマに近寄ると、一生懸命鳴き始めた。


 クフクフ、フガフガ。

 クオー、クオー。


 理解はできないが、話し合いが行われている。

 ハイイログマがときどきこっちに鋭い視線を送ってきて怖いけれど、ツキノワグマが説得しているのか私の方に向かってくることはない。ただ、話し合いは難航しているようだった。


「瀬利奈ちゃん、大丈夫?」


 二頭の熊が頭を突き合わせている隙にこちらにやってきたセレネさんが、私の顔をのぞこんで来る。


「大丈夫です。熊、操れました」

「そうじゃなくて。怪我とかしてない?」

「そこで足をぶつけたけど、怪我はしてないです」


 少し後ろ、畑に転がっている金属を指し示すと、セレネさんが「うわあ」と言って痛そうに顔をしかめた。


「乙女ちゃんは?」

「うにゃにゃー」

「そっか。大丈夫みたいだね」


 ただの鳴き声にしか聞こえない声に、セレネさんが納得する。二人のやりとりを見ながらいつか猫語を習得したいなんて考えて、私はふと言い忘れていたことに気がつく。


「そうだ、乙女。ありがとう。乙女のおかげで、熊を操れたよ」


 腕の中で大人しくしている乙女をわしゃわしゃと撫でる。頬も擦り付けると、乙女が私をぺろりと舐めてから鳴いた。


「にゃーんっ」


 綿菓子みたいにふわりとした毛に覆われた頭を私に押しつけて、うにゃうにゃと話しかけてくる。相変わらず何を言っているのかわからないけれど、鳴いている姿がとても可愛い。


「乙女は可愛いねえ」


 しみじみと言うと、乙女がほっぺたにすりすりと顔を寄せてきて、耳のてっぺんにぴんっと生えているリンクスティップがくすぐったい。ついでに、ミヨルメントで買ったシャンプーの良い香りがしてきて幸せを感じていると、少し離れたところからアシュリンさんの声が聞こえてきた。


「ちょっと、瀬利奈。あの熊、本当に操れているの?」

「もちろんです。でも、もうすぐ魅了が切れそうな気がします」


 獣使いとしての私の力はまだそれほど強くないらしく、魅了の時間が短い。アシュリンさんを操ったときも、それほど長く効果が続かなかった。だから、そろそろ危ない。効果が切れたと同時に、もう一度触ったほう良いだろう。


 その考えを実行するべく足を一歩進めると、セレネさんがのほほんとした声で言った。


「もうすぐっていうか、もう切れてるみたいだよ」

「ええ!? ほんとですか?」

「正気に戻ってるみたいだけど、ツキノワグマの方がハイイログマを止めてるね」


 足を止めて、二頭の熊をじっと見る。

 言われてみればツキノワグマは、敵意をむき出しでこちらに向かってこようとしているハイイログマの腕を引っ張っていた。


「セレネさん、なんて言ってるんですか? 通訳お願いします」

「んー、あたしたちに事情を話すかどうかで揉めてるみたい。事情が何かはちょっとよくわかんないけど」

「熊さん、仲悪いの?」


 腕のなから飛び出して、人間に戻った乙女が不思議そうな顔をする。


「仲が悪いわけじゃないみたいだけど、意見があわないみたい」

「じゃあ、怪我の手当をしたいからこっちに来て下さいって、伝えてもらえますか?」


 ぺたりと腕にくっついてくる乙女の髪の撫でながら、セレネさんにお願いする。


「え? 熊、怪我してるの?」

「ツキノワグマの方、足を引きずってました」


 畑を荒らし、車を破壊した熊に良い印象があるわけではないけれど、怪我人、いや怪我熊を放っておくほど薄情じゃない。色々と言いたいことはあるが、まずは手当をしてからだ。


「そっか。手当てさせてくれって伝えるね」


 と言っても、さすがに近寄ったりはしない。セレネさんはその場で熊のような鳴き声を出す。すると、熊もその声に反応して鳴き声を返してきた。


「あー、嫌だって言ってるね」

「じゃあ、セレネさん。熊も人間になれますか? なれるんだったら、人間になってくれって頼んで欲しいです」

「わかった」


 そう言って、セレネさんが「クォクォクオー」と熊に呼びかける。


「クォーン」


 提案がお気に召さなかったらしく、ハイイログマが首を横に振る。でも、取りなすようにツキノワグマが耳打ちをして、ハイイログマが私を睨んだ。だけど、すぐに諦めたように肩を落とした。


 変身する個体の大きさによるらしく、熊がぼんっという太鼓でも叩いたみたいな低い音とともに姿を変える。


 ハイイログマは元気の良さそうな銀の髪をショートカットにした女の子に、ツキノワグマは真面目そうな黒い髪をボブカットにした女の子に変身をした。ハイイログマの女の子は体が大きくて、百七十センチ以上ありそうだった。

 二人は、こっちを怪訝そうな目で見ている。


「私の言葉、わかりますか?」

「わかります」


 離れた場所から、ツキノワグマだった方が小さく答える。

 私は乙女と一緒に一歩、二歩と足を進めて、熊だった二頭にずっと疑問に思っていたことを尋ねた。

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