第20話 行くって決めたら行くんです

 黒と白の滑らかな毛。

 温かな体温。

 ケット・シーに抱きしめられるという幸せをたっぷり堪能してから、私はふと気がつく。


「あの、セレネさん。何度も撫でて、魅了の重ねがけみたいなことってできるんですか?」

「強く魅了したり、魅了時間を伸ばしたりしたいってこと?」

「そうです」


 以前、サカナさんが私はまだ初心者だから、魅了できる時間が短いと言っていた。けれど、重ねがけができるかは誰からも聞いていない。もし、魅了の効果や時間を強化できたら、熊を安全に国へ返すことができそうだ。


「どうだろ? よくわからないから、アシュリンちゃんで実験してみたら?」


 ふむ。

 確かに、やってみなければわからない。


 アシュリンさんの腕の中、私は彼女のお腹を撫でる。もうしばらく言うことを聞いてねと念じながら撫でる。しかし、彼女は私の額を肉球で押した。


「ちょ、ちょっと、瀬利奈っ! 離れて、今すぐ離れてっ。気持ち悪いからっ」


 むぎゅ、むぎゅ、むぎゅぎゅ。

 額を思いっきり肉球で押される。


 ――この反応。


 重ねがけはできないらしい。

 いや、もしかしたらできるのかもしれないけれど、現段階では無理っぽい。

 残念だ。

 でも、柔らかさとほんの少しの硬さが同居したこの肉球の感触。


 素晴らしい。


 私は額を押されながらも、ぎゅむーっとアシュリンさんに抱きつく。しかし、魅了が切れたらしい彼女に激しく抵抗される。


「ふわふわっ! ちょっとそこのふわふわっ! 私を助けなさいよ、早くっ」


 頭上で悲鳴にも似た叫び声が響き、私は肩を叩かれた。


「リナ、離れてあげて。リンちゃん、可哀想」


 アシュリンさんの取り乱しっぷりに同情したらしく、ふわふわと呼ばれた乙女が哀れむように言う。


「そうだね、可哀想だったね」


 もう少しもふもふを楽しみたかったけれど仕方がない。

 私はアシュリンさんを大人しく解放して、立ち上がる。


 巨大猫をモフれるという今までにないシチュエーションに興奮してしまったけれど、さすがに可哀想だ。ぱんっと手を合わせて、アシュリンさんに謝る。けれど、彼女は壁際まで退いて私と十分距離を取ってから、許すからそれ以上近づかないでと強く言った。


「すみません」


 酷いことをしたという思いから、私はもう一度謝ってぺこりと頭を下げる。

 それにしても、可愛がりたいという思いをこんなに気味悪がられる私の存在って何なんだろう。


 ちょっと撫で撫でしたい。

 ちょっともふもふしたい。


 それだけなのに。

 今だってアシュリンさんを撫でたいけれど、彼女のことをちらりと見ただけで背中の毛を逆立てている。毎度のことながら、私は自分の体質というか、動物からの嫌われっぷりに落ち込まずにはいられない。


 はあああああ。


 大きく息を吐き出すと、隣に乙女が寄ってくる。


「リナ。撫でたいなら、わたしを撫でてよ」


 そう言ってぴたっと私に抱きついてくる乙女が可愛くて、私は髪をわしゃわしゃと撫でた。


「やっぱり、乙女は可愛いねえ」


 腕の中の彼女をぎゅーと力一杯抱きしめると、苦しいと言って乙女が逃げ出す。すり寄ってきたくせに、あっという間に逃げて行くところが猫らしくて、私は二度目の「可愛い」を口にすることになった。


「私は、こんな気持ち悪い人間と一緒にいるのは御免だわ。熊のところへ、先に行かせてもらうわよ」


 部屋の隅っこ、壁にぺたりとくっついていたアシュリンさんが宣言をする。そして、壁伝いに扉へ向かう。


「アシュリンさん、待ってください。私も行きます」


 本当なら彼女の腕をむんずと掴んで引き留めたかったけれど、声をかけるだけに留めて追いかける。


「なんで、あなたがついてくるのよっ。後から来れば良いでしょう!」


 アシュリンさんが心底嫌そうな顔で私を見る。

 でも、私は足を止めない。

 先に行かれてたまるかと、しゃかしゃかと早足でアシュリンさんとの距離を詰めると、彼女は慌てて扉を開けた。


「おーい、皆さん。あたし、行ってもいいって言ってないんだけど」


 のんびりとセレネさんが言い、アシュリンさんの肩を掴む。

 にっこりと笑顔を作っているけれど、目は笑っていない。


「ええ。まだ熊のところへ行くことを許したわけではありません」


 同じようにルノンさんが笑って、私の肩を掴む。

 当然、目は笑っていない。

 二人の言葉に空気が凍り、部屋の時間が止まる。


 しかし、ここで引くわけにはいかない。

 私は凍った空気を叩き割るように、大きな声で己の意思を伝えた。


「セレネさん、ルノンさん。私、絶対に行きます! 行かせてください」

「わたしもリナと一緒に行く!」


 先生に意見を言う子どものように、はい、と乙女が手を上げる。


「お願いします」


 私は肩に置かれていたルノンさんの手を掴み、ぎゅうううっと握って懇願する。

 騒がしかった部屋はしんと静まり返って、誰も言葉を発しない。室内は暖かいはずだけれど、手先が冷たい。背中に重たい空気がどんっと乗っているようで、体が軋みそうだった。


 停滞した空気に支配された部屋の中、はあ、と大きなため息が聞こえる。


「あー、仕方ないな。一回! チャンスは一回だけだからね。危なかったら止めるから」


 セレネさんが白旗を上げ、くしゃくしゃと黒髪をかき上げる。そして、ルノンさんに「一回だけよろしく」と告げると、車の鍵をジーンズのポケットに突っ込んだ。


「わかりました」


 ふう、と困ったように眉根を寄せながらルノンさんが言う。


「セレネさん、ルノンさん。ありがとうございますっ」

「話がまとまったら、行くわよ」


 アシュリンさんが先陣を切って部屋を出る。

 私たちは三角屋根の家を出て、車が置いてあるという倉庫に向かう。てくてくと歩いて三分、目的地に着くと随分とくたびれたワゴン車が置いてある。


「いいですか、セレネ。安全運転ですよ」


 車に乗り込む前、ルノンさんが念を押すように言った。


「わかってる、わかってる。スピード出さないから」

「スピードだけではありません。急ブレーキ、急ハンドルも禁止です」


 セレネさんの腕を掴み、真剣に、怖いくらい真面目に言うルノンさんに、私は同情を禁じ得ない。


 きっと、彼女もあの運転の犠牲者なのだ。

 朝食が口からこんにちはしそうになり、胃の中が空っぽになりそうになる恐怖を味わったのだ。


 と言うか、熊が荒らしている畑までそう遠くないはずなのに、必死にセレネさんに安全運転を命じるルノンさんは今までどんな目に遭ってきたのだろう。考えると怖すぎて、話を聞こうとは思えない。


「今日、瀬利奈ちゃんを酷い目に遭わせたから反省してる」


 あははと笑って、セレネさんが車に乗り込む。

 軽い口調からは反省の“は”の字も感じられないけれど、一応、安全運転もしてくれたから大丈夫だと思う。うん、思いたい。


「早く乗って」


 セレネさんに急かされ、ルノンさんが大きく息を吐き、覚悟を決めた顔をして助手席のドアを開ける。私たちが後部座席に乗り込むと車が走り出す。


 ぶるっ、るんっ、るんっ。


 エンジンが怪しい音を立てる。

 それは安全運転よりもこの車が止まらないことを祈った方が良さそうな音で、ありがたいことにスピードがでない。私はほっと胸を撫で下ろし、乙女がはしゃぎ、アシュリンさんが遅いと文句を言う。しかし、騒がしい車内はすぐに静まり返ることになる。


「ブフォー!」


 畑に着けば、熊が二頭。

 バラバラにしたジープのパーツを持って、暴れていた。

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