第3話 私、大切なことに気がつく
聞き込みに行くと飛び出した編集部の外。
猫の国は、世界の田舎町がごちゃ混ぜになったような場所で、のんびりした空気に包まれていた。茅葺き屋根のこぢんまりした家にレンガの建物、小さなお城のようなものも見える。
古くて、でもきちんと手入れがされているらしい建物は、すべて一階建てで背が高いものはない。辺りには、人間の姿もなかった。
私と乙女は、暖かな風に吹かれながら猫を探して歩く。
外に出れば、すぐに猫がいるのかと思ったが猫の国は人口、いや猫口密度が低いのか、なかなか見つからない。私たちは土の感触を確かめながら、舗装されていない道を進んでいく。
でこぼことした道は、ところどころにエノコログサ――通称、猫じゃらしが生えている。花もあちこちに咲いているが、季節がおかしい。四季折々の花が一斉に咲いているようだった。
「リナ、あそこに猫がいる」
小さな声で乙女が言って、指を指す。
視線をそちらに向ければ、斜め前、水車の影にたれ耳の猫が見えた。
「よし、あの子にしよう」
抜き足、差し足、忍び足。
すっと、そっと、音を立てないように猫に近づく。
少しずつ、たれ耳の猫ちゃんとの距離が縮まる。
スコティッシュフォールドかな。
可愛いな。うん、すごく可愛いな。
あー、早く撫でたいな。
私の心が抱えきれないほどの煩悩で満たされ、同時に猫がぴくりと動く。
そこで私、大切なことに気がつく。
自分が動物に近づけない人間であることに。
「リナ、猫逃げた」
「そうだ、そうだった……」
すっかり忘れていた事実に、私はがっくりと膝を落とす。
そして、猫の秘密を聞くために、るんたるんたと猫の国の探索に出かけて一時間。――私は編集部に戻っていた。
「タロウ編集長。大事なことを忘れてました。……私、動物に避けられるタイプなんです」
「避けられる?」
「そうです。嫌われるというか。私が近寄ると、いつもみんな逃げちゃうんです」
「もしかして、猫に触れなかったのか?」
力なく座っている私に、タロウ編集長が鋭い目を向ける。
「すべて逃げられました。どの猫も、私を見ると逃げちゃうんです」
そう言って、机に突っ伏す。
タロウ編集長の視線が後頭部辺りにずぷりと突き刺さるけれど、顔を上げる気力もない。
「――乙女、こいつが言ってることは本当なのか?」
「本当だよ。リナは動物が好きだけど、動物はあまりリナのこと好きじゃないみたいなんだよね」
「人間、お前……。動物に触れないなら、その能力は宝の持ち腐れだ。最強どころか、最弱じゃないか」
タロウ編集長が驚いたように文句を言うが、返す言葉がない。
「すみません」
空気の抜けた風船みたいにしぼんだ私は、ぺたんこになって机と同化していく。
猫、触りたかった。
静かに呟いてため息をつくと、優しい声が聞こえてきた。
「大丈夫ですか、瀬利奈さん。猫と遊びたいなら、これをどうぞ」
これってなんだという疑問が浮かんだすぐ後に、ふわふわとしたものが後ろ頭に触れた。そのまま、首筋をさわさわとくすぐられてびくりと顔を上げると、私の向かい側の席にいたはずの副編集長のサカナさんが隣にいた。
彼女は、二十代後半か、三十代前半くらいのショートカットが似合う美人で、パンツスーツをすっきりと着こなしている。仕事ができそうに見えるサカナさんだけれど、私は働いている姿を見ていない。さっきまで本を読んでいたし、今は楽しそうに猫じゃらしを持っている。
「これは?」
「使って下さい」
そう言うと、サカナさんは猫じゃらしを私の机の上に置いた。
私は筆記用具とノート、数冊の本くらいしかない机から、棒の先端にオレンジ色のふわふわがついた猫じゃらしを手に取って揺らしてみる。
「誰に使えば良いんですか?」
「編集長に使ってみてください」
「タロウ編集長に?」
「そうです。今すぐ、遠慮なく、全力でどうぞ」
口角を上げ、清流のごとく爽やかな笑顔でサカナさんが言う。
その視線の先には、人間の姿をしたタロウ編集長。
背はそれほど高くはないけれど鍛えていそうな体に、鋭い目をしたタロウ編集長が猫じゃらしにじゃれつく姿は想像できない。そもそも、猫じゃらしが人間に効果があるとは思えなかった。けれど、自信たっぷりにサカナさんが断言する。
「大丈夫です。対編集長兵器ですから」
力強い言葉に促され、タロウ編集長の机の横へ行く。天使と悪魔が世界の命運を決めるべく戦った後のように荒れ果てている机の上、私は猫じゃらしをゆらゆらと揺らしてみる。
「俺は、そんなものには釣られんぞ」
ふん、とふんぞり返ったタロウ編集長が私をにらむ。でも、視線が猫じゃらしの先っぽを追いかけ始める。私はオレンジ色のふわふわをタロウ編集長に近づけ、鼻先でゆらりと揺らしてすぐに離す。
タロウ編集長の鼻息がわずかに荒くなる。さらに猫じゃらしを揺らすと、荒みきった机の上にどんっと両手が置かれ、その手がぷるぷると震えた。
「だから、俺はそんなものには。そんなものにはっ! 釣られないにゃあああああ」
タロウ編集長の声、いや、最後は鳴き声と言っていい。とにかく、タロウ編集長が発した何かが編集部に響いたかと思うと、クリスマスによく見るシャンパン風の炭酸飲料を開けたときのようなぽんっという音が聞こえ、その姿が消えた。
「あっ」
気がつけば、荒廃した机の上に茶トラの猫が一匹。この世の終わりよりも酷い有様の机をさらに荒らしながら、猫じゃらしにじゃれついていた。
「これは、一体……」
オレンジ色のふわふわを揺らしながら、唐突に現れた猫を凝視する。
「人間の姿になっていても元は猫ですから、猫じゃらしに抗えないんですよ。猫の姿に戻って、じゃれちゃうんです」
「変身が解けちゃうってことですか?」
「そうですね」
涼やかな声でサカナさんが言う。
「かわいい」
タロウ編集長は、人間の姿からは想像できない可愛い猫になっている。そのあまりの可愛さに猫大好きパワーが私の中にみなぎり始め、手を伸ばす。すると、タロウ編集長のヒゲが警戒するようにぴんっと伸び、すぐさま私から離れていった。
「ええっ、猫になると逃げるの?」
体質なのか、運命なのか。
私は、どうしても動物に避けられる。
人間の姿のときなら、側にも寄れるし、話もできる。そんなタロウ編集長でさえ、猫になると逃げていく。
あまりにもショックで、私は暗闇に放り込まれたみたいにふらふらと椅子に座る。
「まあまあ、瀬利奈さん。気を落とさないで下さい。練習ですよ、練習」
「練習?」
「そうです。タロウ編集長を捕まえて、撫でるところからはじめましょう。私の言うことを聞け、と強く念じながら撫でるといいですよ」
そう言って、サカナさんはまた本を読み始める。
「リナ、編集長捕まえるの?」
いつの間に隣にやってきたのか、乙女が興味津々という顔を私に向ける。
「うん。ちょっとタロウ編集長で練習してみる」
私は猫じゃらしを置いて、茶トラの猫を探す。
荒廃した机の上にはいない。
他の机の上も見るが、猫の姿はなかった。
タンッ。
小さな物音に、人間よりも敏感な私の猫耳が反応する。無意識のうちに視線が音の出所に向かい、本棚の上に尻尾を見つけた。
そっと。
息を殺して。
茶トラの猫に近づく。
俊敏そうな細い体。
ピンクのお鼻。
丸みを帯びたお手々。
可愛いと叫びたくなるが、ぐっと我慢して本棚の側へ行く。そして、タロウ編集長に手を伸ばすと、ぴょんっと本棚の上から飛び降りて、私の頭を踏み台にして机の上に降り立った。
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