リトルガーデンでの生活は、然程厳しいものではない。就寝や起床、食事や勉強など、それぞれに一定の時間が定められているが、言われたことさえ熟せば何一つ不自由しない生活が確約されている。

 アカネにとって、それらを熟すことは決して難しいことではなかった。死に至る病気を発症していても、ベッドに横たわるだけの生涯を送らないというのは、それだけで随分と精神衛生に良い。親と離れることでホームシックを起こす患者もいるが、両親のことを殆ど覚えていないアカネにとって、その感覚は無縁のものだった。

 清浄な空気と、それなりの生活と、同じ境遇の友人達に囲まれ、今の状況がそれなりに恵まれているということを、アカネは知っている。サナトリウムから出ることはできないが、本が豊富な図書館、ガラス張りの温室、大きな食堂、落ち着ける談話室などが設置されたこの場所は、あまり閉塞感を覚えさせない仕組みになっている。そもそも、リトルガーデンという名に反するようだが、あまり狭い場所ではないのだ。全国の花痣病患者を集めるのだから、然程可笑しい話ではないのだが。

 ともかく、この場所に対しての不満は、アカネにはない。たった一つのことを除いては。

 アカネは、食堂に辿りついた。壁際に備わった大窓からは容赦なく朝日が差し込み、部屋に並べられている白い長方形のテーブルと木製の椅子を容赦なく照らし出していた。そこに立ち入れば、どんなに眠くとも、朝日の眩さで強制的に目が覚めること間違いなしである。

 食堂の席は、既に着替えを済ませた少女達によって三分の二が埋められていた。そこかしこで仲良しグループによる談議が弾んでおり、ここだけ朝の神聖な空気は遠くに押しやられているような感覚がする。

 アカネは静かに、少女達の賑わいで弾む空間を歩きだした。決して周囲を見渡さないように顔を正面に向けたまま、何気なく鼻をひくつかせる。そして、或る匂いがふわりと漂って来た地点で、足を止めた。

 その匂いは、間違えようのない、金木犀独特の香りだった。

 あくまで自然を装って、アカネはすぐ近くの席に座る。金木犀の香りがする方向へ何気なく視線を向ければ、そこには、背筋を伸ばして椅子に座る少女の姿がある。少女はアカネから三つ離れた席に座っており、金木犀の香りはそこから香っていた。


「カオルさん、おはようございます」

「今日もとっても素敵な匂い。はあ、カオルさん、とっても素敵」


 その少女――カオルは、周辺の少女達に次々とそんな声を掛けられていた。褒め言葉の洪水に埋もれても尚、その横顔からは微笑が消えない。少女一人一人に視線を投げかけ、柔らかな笑みを口元に浮かべたカオルは、鈴のように透き通った声で明瞭に、そして何処か慎ましやかに返答をした。


「有難う」


 カオルが涼しい笑顔で小首を傾げるのに合わせて、彼女の腰元で波打つ髪の毛がふわりと揺らぐ。微笑みと同時に細くなった淡い橙色の瞳が、朝日を浴びて美しく煌めいている。

 彼女は、ここにいるどの少女よりも少女らしい純潔さと、それとはかけ離れた大人びた色気を持ち合わせていた。大して年齢は変わらないはずだが、周囲に姫だと認められるだけあって、その行動はいつも可憐で清楚だった。アカネは、それがちっとも気に入らない。

 食堂は常に自由席である。アカネには、毎度ここに座るという拘りの席があった。それは、決まってこの場所――カオルの三つ隣の席である。耳を澄ませば会話が聞こえ、彼女が周囲を見渡せば視界に入る距離。金木犀の香りが届く場所で、アカネはいつも食事を摂っていた。尚、そんなことをしても、カオルとは、会話は当然として朝の挨拶さえしたことがなかった。

 別に見つけてほしいわけでもないが、複数の少女達に囲まれてちっとも自分に気付かないカオルの、その愛らしくも憎たらしい横顔を睨み付ける。どれだけアカネが胸の中で激しい悪意と燃え盛る憎悪を抱こうとも、その感情は彼女を穢すには至らなかった。


「今年こそはカオルさんに運命の人が現れるんだわ。どんな方なのかしら」

「きっと素晴らしい人に決まってます。ねえカオルさん、どんな人がいい? 理想の人のお話、聞かせてください」


 きゃあきゃあと弾む少女達の声を聞き、カオルは考え込むように目を伏せた。長い睫毛がゆっくりと上下し、宝石のように煌めく瞳に影を落とす。何処か甘美さまで感じさせる透き通った瞳に影が落ちる瞬間を、アカネは今まで何度も見てきた。彼女はその表情をした後、決まって次のことを言うのだ。


「あたし、分からないの。運命の人だなんて、ちょっとお伽噺染みていて」


 ごめんね、と穏やかな声で謝罪が紡がれる。困ったように眉尻を下げた優しい笑い方に、周囲の少女はますます色めき立って、それぞれの見解を嵐のように激しく口論し始めた。

 曰く、美しい見目の割にそれを鼻に掛けないこの態度こそが麗しい、だとか。

 曰く、こんなに愛らしい人ならば、運命の人は一目で恋をして、カオルの病は忽ち治る、だとか。

 曰く、きっとやってくるのは、彼女に相応しい王子のような人だろう、だとか。

 カオル本人を挟んで好きに展開していく未来予測に、アカネは耳を塞ぎたくなった。煩わしさに、落ち着きかけていた苛立ちが再び湧き上がってくる。膝の上に乗せていた拳に強く力を入れた頃合いで、ふとカオルが視線をこちらに向けた。

 橙色の垂れ目がちな瞳から注がれる視線に、アカネの体温が突然高くなる。全身を巡る血が沸騰したかのような感覚に襲われて、アカネは慌てて顔を背けた。一瞬だが確かに絡んだ視線は、見えもしないのに、何よりも重要なことに思えて仕方がない。

 何よりも長く感じる数秒を経て、アカネはもう一度、顔色を窺うようにカオルに視線をやった。既に彼女はこちらを見ておらず、その端麗な顔立ちに控えめで愛らしい、金木犀の花のような笑顔を湛えて、他の少女達と会話を弾ませていた。

 その光景を見た途端、先ほど上がった体温が急激に冷めていく。カオルは、目が合った少女になら声を掛けにいくものだ。どれだけ会話をしていなくとも、リトルガーデンの中で最も目立つ上に同室である彼女の情報なら、その程度は知っている。

 だというのにカオルは、アカネには頑なに声を掛けなかった。日常会話は当然として、挨拶ですら、一度だって交わしたことがない。


「皆、想像力がとっても豊かなのね」

「だって、カオルさんの理想の人なんですもの。私達の姫君を迎えに来る素敵な王子様のこと、考えだしたらわくわくして仕方がないわ」

「そう。あたしは、皆が楽しそうなのが楽しいけれど」

「ああ、カオルさんのそういうところが好きです! もう、王子様が来ても、私達のこと決して忘れないでね」


 まるで隔離された世界のように、アカネの存在を無視して進んでいく会話が、滔々と流れていく。そもそも、アカネはその会話に混じっていないのだから、無視などと言う言葉は言い掛かりも甚だしい。けれども、そう思わずにはいられなかった。

 カオルの世界には、アカネはいつだって存在していない。日の光のように美しいあの双眸に、本当の意味でアカネが映ることはないのである。

 アカネは、そんなカオルが憎くて憎くて堪らない。どんな少女にも等しく優しいと評判のカオルという存在に、自分だけ触れることができないというのが、惨めで劣等感を刺激する。

 その少女はアカネにとって、何よりも美しく、何よりも忌まわしい存在だった。

 目の前に配膳された、バランスの良い健康食を見つめて、アカネはわざとらしく溜息を吐く。期待しても無駄だと知りながら、何処かで「どうしたの」と優しい声が掛かることを待っていた。無論、そんな声はない。そればかりか、アカネの期待を裏切るようにして、三つ隣から歌うような笑い声が飛んでくる。それを聞いて、自分の行為が馬鹿馬鹿しくなると同時に、心の内に積もる憎らしさはさらに質量を増した。

 脳内には、先ほど視線が絡んだときの光景が鮮明に浮かんでいる。それから、いつも遠目から見ている微笑みが、自分に、自分だけに向けられる、そんな想像が繰り返される。それで僅かに早くなる心臓の存在を否定したくて、アカネは無言のまま拳を強く握った。

 駆け足の心臓も、絡んだ視線への甘美な憧憬も、全て憎らしく、同時にそれら全てが捨てがたいほど愛おしい。

 そんな感情を覚えてしまう自分と、それを抱かせるカオルが憎たらしかった。

 リトルガーデンに対して、唯一抱く不満はたった一つだけ。何よりも美しく、何よりも憎たらしい少女と自分を、引き合わせてしまったことである。

 運命の人に選ばれるのは、彼女に相応しい『王子様』でなければならない。

 彼女に挨拶すらされず、あまつさえ、王子様になどなえないアカネにとって、この感情は憎しみを呼び起こす厄介な呼び込み装置でしかない。

 いつか、誰もが理想として語る『誰か』が所有する花となったカオルの姿は、胸の奥を残酷に痛めつける。アカネは深く眉間に皺を寄せた。彼女が少女達と織りなす会話を聞きながら一人で摂る食事は、どれだけ身体に良いようにバランスが整えられているとしても、酷く味気のないものだった。

 それらを完食して片付けている段階で、ようやくイチカとミチルが食堂に入ってきた。盛大な遅刻である。どうやら、あのまま二度寝をしてしまったらしい。

 食堂の隅っこで婦長に怒鳴られている二人の姿を横目に、アカネは何気なくカオルの姿を探した。しかし、そこに居ればすぐに気が付くような、目が覚めるような金木犀の香りも、あの美しい姿も何処にも見当たらない。

 安堵と寂しさが混じったような気持ちになって、アカネはゆるゆると首を横に振る。そして、少女達の声が紡ぐ賑わいに包まれながら、静かに食堂を立ち去った。

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