第5話 体育祭

 店の手伝いで連休を潰した俺は、世良の話に聞き役に回るくらいしかできない。休日に某遊園地に行ったと嬉しそうに語る内容は、乗り物より限定のホットドックやポップコーンが美味かったと自慢げだった。今、聞いているだけで食べ物が六種類も登場している。突っ込むべきではないだろう。女子のこういう話は、頷くだけに留めた方がいい。

「おはようございます」

 担任が入ってきた。俺を見ると、黒縁眼鏡の奥にある目が和らいだ。気のせいでも、俺の願望でもない。でもそれもわずかで、遠くを見据える目に戻ってしまった。伸びた髪が肩についている。

「今日ですが、月末にある体育祭について話し合いたいと思います」

 星宮先生は委員長と副委員長に任せ、端に椅子を持っていき腰掛けた。

「え、どうすんの?」

「とりあえず競技も書いていくか」

 クラス対抗となる体育祭は強制参加で、三年生は競技も流れも分かるため、圧倒的有利となる。去年の俺のクラスはボロボロだった。三位までは賞品が用意されていて、強制と言えど生徒はそこそこ真面目に参加する。

 人気の綱引き、パン食い競争、借り物競争、メインのリレーだ。二人三脚は、あまりやりたがる人は少ない。ちなみにスポーツ系の部活に入っている人は、走る競技には参加不可だ。

「じゃあ、やりたいものに手を挙げて下さい」

 人数制限があるものの、俺は綱引きを希望した。一年の頃はリレーをやらされ、二度目は勘弁願いたい。星宮先生はパソコンを広げ、黒板をたまに見ては、キーボードを叩いている。

「綱引き多すぎ……誰か移ってもいい人、いる?」

 誰も手を挙げない。俺も挙げない。

「一ノ瀬君さ、中学の頃、スポーツ部じゃなかったっけ?」 

 副委員長の余計な一言は、俺の心に刺さらない。ある意味、ぐっさりきたけれど。

 担任はえ、と口を作り、俺を見た。副委員長の一言は悪いものではないのかもしれない。

「スポーツって言ったって剣道だよ」

「スポーツはスポーツじゃない。どれかに移ってくれない? リレーは?」

「リレーは駄目だ。一年前に走った」

「じゃあ借り物かパン食い」

「その二つなら借り物だけど、綱引きを希望する」

「なら借り物で」

 まんまと口車に乗せられてしまった。世良は吹き出して笑っている。

「副委員長、世良は中学の頃はバスケ部だった」

「あっ売ったな!」

「なら世良さんはパン食いかリレーで」

「その選択肢ならパン食いしかないじゃん」

 目が忌々しいとオーラを放ち、俺に向いている。同罪だ。

 流れるままに次々と決まっていくが、去年と同様、残るのはクラス対抗リレー。委員長の目が、古賀に止まる。

「古賀君は前、野球部じゃなかったっけ?」

 古賀は中学校も一緒だった。頭を丸めていて、まあ野球部だろうとぼんやり頭の中をよぎったときもあるが、さほど興味を示さなかった。

「もう関係ねえよ。俺はリレーも出ないからな。サボる」

「でも今は部活はやってないんでしょ?」

 古賀は大きな欠伸を繰り返す。中学生の頃は廊下で会うと、全力で生きていると薔薇色のオーラを放っている男だった気もするが、今は生きる力すら失われている。

「でも決まってないの古賀君含めて五人だけだよ」

「知るか」

「もう! とりあえず名前書いておくからね」

「勝手にしろ」

 俺はサボる、ともう一度念を押し、机に伏して寝てしまった。

 残った五人は強制的にリレーとなり、不平不満が飛び出した。こんなことなら体育祭自体無くせばいいのに。

 チャイムと同時に、星宮先生はノートパソコンを閉じた。

「良かったなタダでパンが食えるぞ」

「良くないわ! 勝手に巻き込んで!」

 いつものことだが世良と不毛な争いを繰り広げていると、担任が横を通り過ぎた。何を考えているのか分からない、授業中と同じ目をしていた。入ってくるときは微笑んでくれたのに。

 連休の想い出を大事にしているのは、俺だけなのかもしれない。


 体育祭当日、晴天で、午後は少し怪しげな動きを見せると天気予報は告げている。遠くの空では、柏餅と同じ色をした雲が膨れ上がっていた。

「気合いを入れるため、担任から一言お願いします」

「ええと……みんな頑張ってね」

「もう一言!」

「怪我しないようにね」

 なんとも締まらない気合いの入れ方だが、見た目通りに体育会系でもない星宮先生からしたら、どんなテストより難問だ。俺は体育会系の人間とはことごとく合わなかったから、これくらい緩い方がちょうどいい。

 連休から先生と話す機会がないまま、五月が終わろうとしている。避けられているわけではない。授業中、当ててくるし、目も合う。すぐに逸らされるけれど。

 救護室にいる担任を見ていたら視線に気づいて、俺を見た。視線を逸らしたのは、俺の方だ。今まで、先生が避けていると思っていたが、避けていたのは俺かもしれない。

 何か、何か話すきっかけがないと。あいにく、世間話が得意と豪語できる話術を持ち合わせていない。

「私の雄姿を見てな!」

 世良が何か喋っているが、話半分にはいはい頑張れと返した。俺もあんな風にがめつく生きたい。

 スターターピストルが音を鳴らすと、獲物を狩るチーター並みの速さで世良は追い越した。揺れるパンにかぶりつき、さらに加速した。世良自身の速さというより、食べ物への執着心にしか見えない。見事白いテープを切った。彼女の見える景色には、きっと青空が広がっている。

「ふふふ………」

「おめでとうさん」

「あんぱんには牛乳が合うと思うのよ」

「……………………」

「……………………」

 重い腰を上げた。それはもう漬け物石が入ってるんじゃないかというくらい重かったけれど、チーターの目は行けと言っていて、ウサギの俺は売店に向かうしかない。

 少し遠回りをして救護室の前を通った。見知らぬ女子生徒が、星宮先生に絆創膏を貼ってもらっている。満たしてくれるものは空虚感という空っぽの感情だけだ。何も残らない。

 牛乳と、ついでにペットボトルのコーヒーを購入しようとしたが、売り切れだった。運がない。一番安いミネラルウォーターにした。

「ほらよ」

「ありがと」

 牛乳のお礼だと、あんぱんを半分恵んでくれた。昼食前だが、腹には入る。

「相変わらずすっごいお弁当ね」

 和食に彩られた弁当を見て、世良は目を丸くした。和食店で働いている父は、運動会や体育祭などがあるとき、決まって重箱で弁当を作ってくれた。最初は恥ずかしくて大喧嘩したこともあったが、喧嘩をするたびに絵本を引っ張り出してきたり、日曜日朝に放送している幼児向けのアニメのキャラクターでキャラ弁を作り始めるので、俺は豪華な和食を受け入れることにした。腹痛で苦しむ祖父を救うため、おどろおどろしい木をすり抜けて走る絵本は未だにトラウマだ。あれが精神的苦痛を伴うことは、親父にはばれてはならない。絶対に。

「みさき先生が気になるの?」

「なん、で?」

 卵焼きを飲み込む直前で、水を飲んでごまかした。

「ずっと見てなかった?」

「気のせいだ」

「あの噂、やっぱり気になる?」

 乗るべきか乗らざるべきか。俺は第三の道である、弁当を食べる選択肢を選んだ。

「名前で呼んでたか?」

「ん?」

「みさき先生って」

「どっちでもいいじゃない。みんなも呼んでるし」

 なんだか腑に落ちない。

「ゲイバー入ってったって聞いたことあるけど本当かな? バーで男性とキスしてたらしいし」

「……そもそも、なんでバーの内部事情を生徒が知ってんだよ。そいつがバーの中にいたことになるぞ」

「あ……そか」

「どっちでも構わねえよ。俺らのクラブにも支障はないし」

「まあね。ちょっと気になっただけ。別に私は偏見とかあるわけじゃないし。人の恋愛事には首を突っ込みたくなる年頃なの。それより琥珀糖はいつ作るのよ。材料は部室に置きっぱなしよ」

「水島や一年生がいるときにしよう。六月」

 予定が合わず、ずっと作れずにいた。さすがに世良と二人きりはクラブの活動にならない。

 噂と言いつつも、俺は本人がゲイバーから出てくるところを見ている。本人もゲイだと諦めきった表情で話していた。俺はそんなことより、先生が結婚しているのか、付き合っている人はいるのか、気になっていた。多分、恋人もいないはず。いれば

 午後はいよいよ俺の種目だ。借り物競争、綱引き、クラス対抗リレーの順に行われる。列に並ぶと、前方から悲鳴が聞こえてくる。男子生徒が大柄な男の先生を横抱きで運んでいる。

「今回、外れ枠があるらしいよ」

 あれが外れ枠だとすると、当たり枠はなんだ。

「好きな女子を手を繋いで走る、とかもあるっぽい」

 前にいる生徒からすれば、先生は外れで女子は当たりらしい。それは個々によるだろう。女子と手を繋ぐというのを引いたら、俺は誰を選んだらいい。仲が良い女子となると世良だが、誤解は生む。俺はそんなところを……誰に見られたくないんだ?

 前を走る生徒が絶叫している。手を挙げ、ギブだと訴えた。何を引いたんだ。

 耳の奥をえぐり取るような音が鳴り、俺は全力で走った。どれを選んでも書いてある内容は分からない。目の前に手を伸ばし、一枚をめくる。これは。

 何を引くのだろうかという緊張感は消え失せ、俺はめまぐるしく思考をフル回転させた。ぐしゃりと歪に握りしめ、救護室まで風を切った。

 眼鏡の奥にある瞳と目が合う。先生は、俺を見ていてくれた。俺というより、体育祭を、の間違いかもしれないが。

「え? え?」

「先生、行こう」

 先生の手を掴んだ。小さくて、冷たい手だ。俺の全身が熱くなる。

 先生に白いテープを切った先を見せたくて、そのためにはチーターでもハヤブサにでもなってやる。

 遠くで雷が鳴った。歓声なのか悲鳴なのか区別のつかない声がグラウンド中に響く。女子生徒の甲高い声に包まれながら、俺たちは一着でゴールした。

「はあ、はあ、はあ…………っ」

「先生、大丈夫?」

「う、うん…………苦しい……」

 紙を見せて下さい、と言われ、汗と圧力でぐしゃぐしゃになったメモ用紙を渡した。手は自然と離れていく。ひんやりとした空気が手を包む。先生の手の冷たさと比べて、暖かみは感じられない。

「合ってますよね」

 確認ではない。そうだと言えと念を押した。

「え、」

 体育委員会の女子生徒は顔を上げ、星宮先生を見る。そしてもう一度、メモ用紙に目を落とす。

「間違ってないはずです」

「まあ……合ってるけど」

「なら、俺らが一位で」

 一位の証である、手作り感満載のピンクの花を受け取った。

 息の整わない先生を裏にある水飲み場まで連れていった。美味しそうに、身体のサイズに合わないほど大量に飲んでいる。

「仕事の後の一杯って美味しい……一年分は走った……」

「百メートルだけど……」

「文系の僕にそれを言う? 剣道部と帰宅部を一緒にしないでよ……」

 数週間前の話を覚えていてくれた。持っている花がへし折られる前に、先生に差し出した。

「……これ、どうぞ」

「一ノ瀬君がもらったものでしょう?」

「先生のおかげだし」

「なんて書いてあったの?」

「秘密」

「ええ、なにそれ」

 先生は笑い、花を受け取った。俺みたいな人相の悪い顔より、先生の方が花が似合う。

 星宮先生は救護室ではなく、真逆の校舎に行ってしまった。

 残る綱引きは、三年生の圧勝。年の順という普通すぎる結果となった。

 怠そうに首を鳴らす古賀と目がかち合う。彼はラストのリレーに選出されている。

「こういう雰囲気って、ぶち壊したくなるんだよな」

「……何を言っている」

 古賀は、皮肉のこもった笑みを漏らした。背中に虫が這い回っているような、鳥肌が立つ感覚だ。

 散らばっていた生徒たちも、最後のメインを見ようと集まってきた。

 グラウンド中から歓声が上がる。砂埃が舞い、季節のずれた靄のように視界の大半を覆い隠した。

「古賀?」

「ちょっとあれ、どういうことよ」

 バトンを受け取った古賀はスピードを落とし、二位で受け取ったはずの順位はあっという間に落としていった。

 マラソンと勘違いしているんじゃないのか。または、やる気がありませんという意思表示。俺には後者に見えた。古賀のぶち壊したくなるという発言にもぴったり当てはまる。

 そんな走りの結果、当然ながら俺たちのクラスは一番だった。下から数え、一番。

「もう! あいつ何やってんのよ!」

 子供のように地団駄を踏み、世良は苛立ちを露わにした。

「三年相手に勝てるとこだったのに!」

「本当に、何を考えてるんだろうな」

 呆れて、上手い声のかけ方が飛んでしまった。

 ただ、マラソンでもリレーでも、一生懸命走らなければならない大人の押しつけを、彼は身を持ってはねのけた。俺ならできただろうか。中学生で黒歴史の反抗期は終えたが、あの頃と同じ状況で、学校に大いに不満があって、俺は古賀と同じく全力でぶつけられることができただろうか。

 いつ戻ってきたのか、星宮先生は救護室に戻っていた。叱るでも悲しみにふけるでもなく、俺と同じく物思いにふけ、呆然としていた。

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