何故?

 旅館の女将さんが俺のメインヒロインだったかはともかく。


 この旅館は素晴らしい。


 女将さんが車椅子生活をしているからか、旅館はバリアフリーに優れていた。階段、廊下には丸い掴みの手すりが備わっているし。障碍者用の宿泊施設は開放的に広く、旅館一番の売りである温泉もまた実に利用性が高くていい。


 普段は旅館でマッサージ師として働いている兵藤さんの介助を受けて、温泉に浸かった。


「……これは生き返りますね」

「それは良かった。湯あたりには気を付けてくださいよ」

「ありがとう御座います、はぁ~」


 以上のように、この旅館は天国のようだった。


「そう言えば三浦さんは、俺カルチャーを書いた人らしいじゃないですか」

「……兵藤さん、その話誰から聞きました?」

「伍堂アラタって知ってますか? あいつこの村じゃ有名なんですよ」


 どんな具合に有名なのだろうか?

 思ったままに尋ねると、兵藤さんは苦笑を浮かべる。


「あいつ、その昔はどうしようもない不良で、でもあることを機に改心したらしくて、俺は村で一番の有名人になってやる。そう言って執筆活動を始めて本当に小説家になってしまったんです」


「それは凄いですね、並大抵の決意で出来ることじゃないですよ」


 兵藤さんの話を耳にした俺は、日中彼に覚えた不快感を払拭する思いだった。

 その感情の機微を汲むに、俺という人間がどれだけ小さい器量だったか知る。


 けど、今はそんなことはどうでもいいんだ。

 ここは素直に彼、伍堂ごどうアラタを讃えよう。


「本人は運が良かったと言っていますが、それを聞いて俺は、ああ、こいつも大人になったんだなって感心しました。内緒ですがね」


「それで、彼と俺カルチャーとどんな接点が?」

「あいつが小説家を目指した切っ掛けが、俺カルチャーだったらしいですよ」


 鳴門くんを始めとして、そう言ってくれる人がちらほら居ることを聞き。

 俺の胸中は有頂天になっていたのかも知れないな。


 ◇


「遅いぞ三浦くん! 私たち女子よりお風呂が長いなんてな!」

「ごめん、待たせた?」

「ううん、そんな待ってないから安心して父さん」


「宰子、今からこんな板挟みに遭ってたら、将来禿げるぞ」


 将来的な頭髪の危険性を仄めかされた宰子ちゃんはと言えば。

 ――ッン。


「え……あ、アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!」


 若子ちゃんが誇っていたロングヘアーの一本を抜きとり、抜かれた本人は絶叫をあげる。その絶叫を耳にし、俺の入浴の介助をしてくれた兵藤さんが何事かと駆けつける。


 その経験を境に、俺は『鈴木若子の恐ろしさ』を思い知ったよ。


「楽しそうで何よりですよね」

「すみませんでした」

「いいんですよ三浦さん……それよりも、三浦さんにお願いがあるのですが」


 先方に迷惑を掛けてしまった以上、無碍に断れない予感がする。


「この本に、サインを頂けませんか?」


 兵藤さんは俺カルチャーを取り出し、サインを申し出る。

 ここまで来ると、さすがの俺も不思議に思うじゃないか。


 ――何故、出会う人出会う人、俺カルチャーを持っているのだろう?

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