コーヒー・アンド・ストッキング9

 夕食を取ってシャワーを浴びた後、凜はコンビニへと向かっていた。

 例のOLとストッキングのことが脳内にこびりついて、ほとんど執筆に集中できなかった。

 やはり今日は涼しい。ひんやりとした風が肌を優しく撫でる。このまま夏が終わってくれると助かるのだが。

 凜は夏と冬が嫌いだ。夏と冬は温度が極端すぎる。春と秋が夏と冬を侵食すればいいのに、と彼は思っている。

 だが、四季がある分、日本は恵まれている。地球温暖化の影響を受けつつあるが、日本人は四つの季節を享受している。

 凜が最も好きな季節は秋だ。春の桜よりも、夏の花火よりも、冬の雪よりも、秋の紅葉は美しい。山が赤く彩られる神秘は、彼の琴線に触れる。

 高校三年生の時分、家族で紅葉狩りに行ったことがある。

 何度か訪れたことのある山ではあったが、秋に足を踏み入れるのは初めてだった。秋の山はまるで別世界だった。凜は絵画のような世界に心を奪われた。

 中学生の頃までは自然に興味なんてなかった。高校生になってから、少しずつ自然の美しさに惹かれていくようになった。この頃から凜は寺や神社にも関心を持つようになった。今度は神聖の美しさの虜になった。

 あらゆるものに美が内包されている。万人が美しいと感じるものもあれば、マニアックな一部の人間が美しいと感じるものもある。ただ、一つ共通していることといえば、美は感じるものである、ということだ。抽象的な美は存在するが、具現的な美は存在しない。この美の矛盾にも、倒錯的な美しさがあると言える。

 凜はよく美しいものを何かに例える。

 秋の山は、着物に身を包んだ清楚で妖艶な美人だ。唇に紅を塗り、羞恥で頬を赤らめた貞淑な処女だ。

 紅葉を愛でるようになったのは、きっと大人になったからだ。子供の瞳に映るものと大人の瞳に映るものには差異がある。いや、人間の瞳に映るものには個人差がある。この個人差は、単純な視覚の問題ではない。

 心のフィルターを通して瞳に映るものは、それぞれの人間で異なる。心のフィルターをくぐった瞬間、ものは人間によって変幻自在に形を変える。心のフィルターもまた、歳を取るごとに変わっていく。


「ねぇ」


 凜はコンビニの自動ドアが開く手前でぴたりと立ち止まった。


「こんばんは」


「あっ、こんばんは」


 例のOLだった。挨拶されるまで誰だかわからなかったのは、彼女がOLの格好をしていなかったからだ。

 張り詰めていた糸がふっと弛緩した。不思議と緊張はしなかった。コンビニに行けば例のOLがいることがわかっていたから。


「缶コーヒーを買いに来たんでしょう?」


「はい。ストッキングを買いに来たんですよね?」


「うん」


 二人は無言でコンビニに入った。凜は缶コーヒー、OLはストッキングとミネラルウォーター。いつもの買い物だ。

 コンビニの外で、OLはミネラルウォーターを口に含んだ。それから、少し恥ずかしそうに身をよじらせながら口を開いた。


「あのさ、これから暇?」


 凜は考えた。

 暇ではない。執筆は暇のない仕事だ。小説家ではない俺が仕事と自称するのはおこがましいかもしれないが、少なくとも心に余裕はない。俺は焦っている。俺は忙しい。

 だが、ここでOLと別れたら後悔する――そんな確信が凜にはあった。同時に、ストッキングに隠された秘密を解き明かしたいという欲求が、彼の中で制御を失って暴れていた。


「はい、暇ですけど」


 凜がそう答えると、OLは柔和にはにかんだ。


「じゃあ、一緒に飲みに行かない?」


「えっ、でも、金がありません」


「私がおごってあげるから」


「そんな、昨日はフライドチキンをもらったのに、またおごってもらうなんて申しわけないですよ」


「いいから。お金のことは心配しないで。君と話したいんだ。あっ、別に下心はないよ。ただ、君に興味があるっていうか……ああ、異性としてじゃなくて、一人の人間として興味があるんだ。ごめんね、わけがわからないよね」


「いや、なんとなくわかります。俺も同じことを思っていました」


「それなら話は早い。どうかな? 君が嫌なら断ってくれていいんだよ?」


 ここで断ったとしても、ストッキングに拘束されてどうせ執筆には集中できない。執筆のためにもOLの誘いに乗っておくのが賢明な判断だ。

 凜は肩を竦めた。


「わかりました。飲みに行きましょう」


「ありがとう。よかった、怪しまれて断られたらどうしようかと思ったよ」


「怪しみませんよ。コンビニで会うのはこれで四度目ですから。どこに行くんですか?」


「この近くの居酒屋。私も会社の飲み会で何度か行ったことがあるくらいだけど、お酒の種類が多くて料理も美味しいんだよね。そこでいい?」


「はい。俺は飲む場所なんてどこも知らないので」


「まあ、まだ大学生だしね。仕方ないよ。サークルとかアルバイトとかで飲み会はないの?」


「ありませんね。サークルもアルバイトもしていないので」


「ふーん」


 OLは意味深長にこくこくと頷いた。

 このOLには俺の中の孤独もお見通しだったようだ。以心伝心というものを人生で初めて体験した。なんとも不思議な感覚だ。


「じゃあ、行こうか」


「はい」


 凜はOLの隣について歩き出した。気を遣ってくれているのか、居酒屋までの道のりで彼女が話しかけてくることはなかった。気まずくはなかった。長年こうして一緒に歩いているかのような感覚があった。出会ったばかりの彼女を信頼している自分がいた。

 OLの一歩一歩が、驕慢なまでに存在を主張している。高らかなハイヒールの足音が、生きていることを証明している。

 十五分後、二人は居酒屋の暖簾をくぐっていた。

 暗い色の木でできたモダンな内装。控えめな照明。棚に陳列された酒瓶。談笑に花を咲かせる複数の集団。大学生がちらほら座っていることから、どうやら若者にも人気の居酒屋らしい。

 二人は幸い一つ空いていた個室に通された。個室は冷房が効いていて寒いくらいだった。まあ、酒を飲めば体温が上がってちょうどよくなるだろう。

 店員は片膝をついてバインダーとボールペンを構えた。


「ご注文をお伺いします」


「凜くんは何にする? ビール?」


「すみません、ビールは嫌いなんです。ジントニックで」


「私はビールをお願いします。あと、冷奴と枝豆」


「かしこまりました」


 店員が厨房に消えると、OLは水の入ったグラスに口をつけた。

 グラスの縁に紅の跡が残る。


「自己紹介をしましょうか。四度も会っているのに、名前を知らないわ。ふふふっ、おかしなことよね。名前も知らずに居酒屋で一緒に飲むことになるなんて」


「そうですね。俺は酒匂凜といいます」


「さかわ? さかわってどういう漢字?」


「酒が匂う、で酒匂です」


「なるほど。酒匂凜くんか。凜くんって、なんか変わった名前だよね。女の子みたいな名前」


「よく言われます」


 小学時代、よく女の子と間違われた。名前を呼ばれるたびに「ちゃん」をつけられることが多かった。まだ子供だった時分、先生に「ちゃん」をつけられてクラスメイトに笑われるのが心底嫌だった。この名前が嫌いで仕方なかった。この名前をつけた両親を恨んでいた。

 だが、今ではこの名前を気に入っている。この名前のおかげで自分が特別な存在のように思える。素晴らしい名前をつけてくれた両親には感謝している。

 OLはもう一口水を含んだ。

 紅の跡が増える。


「私は姫宮纏。出版社でOLをしているんだ。入社二年目」


 彼女の名前は姫宮纏。凜の中で、彼女はOLではなくなった。

 しかし、凜は名前よりも職業のことで驚いていた。


「出版社のOLですか。どこの出版社ですか?」


 すると、「失礼します」と一言断って、店員がビールとジントニックを届けに来た。

 纏はふっと息を吐いた。


「出版社といっても、小規模なものよ。私はただのOL。出版社だからといって、普通のOLと仕事の内容は変わらないわ。パソコンのキーボードをたたくだけのつまらない仕事よ」


「俺も毎日キーボードをたたいていますよ」


「えっ、もしかして、ピアノを弾いているの?」


「ピアノのキーボードじゃないですよ。俺もパソコンのキーボードです」


「でも、アルバイトはしていないんだよね?」


「はい。ノートパソコンで執筆しているんです」


「へぇ、凜くんは小説家になりたいんだ?」


「はい。高校一年生の夏休みに小説家を志しました。つまり、もう四年が経ちます」


「新人賞には送っているの?」


「はい。でも、落選ばかりで」


「まあ、受賞できるのは一握りの人間だからね。私から助言できるとしたら、諦めないこと、くらいかな。あっ、とりあえず、乾杯しようか」


 纏がグラスを掲げて、凜もそれに続いた。


「私たちの出会いに」


 二つのグラスが衝突し、耳鳴りのような音を奏でる。

 ジントニックを一口飲むと、喉がじんわりと焼けてとろけるようだった。胃がかっと熱くなり、トニックウォーターの柑橘類の風味が鼻から抜けた。

 纏はビールのグラスを大きく傾けた。半分まで一息に飲むと、彼女はたがが外れたようにくすくすと笑い出した。


「どうかしたんですか?」


「私たちの出会いに、ってなんか気障だよね。外国人の乾杯っぽいっていうか。恋愛映画の見すぎかな」


「恋愛映画ですか。俺はあまり見ないですね」


「男の子はやっぱりアクション映画が好きなの?」


「まあ、そうですかね」


「恋愛映画は嫌い?」


「嫌いじゃないですよ。ほとんどの映画には恋愛要素が含まれているし、逆に恋愛要素がないと面白くありません。姫宮さんは恋愛映画が好きなんですか?」


「ううん、大嫌い」


「えっ、どうしてですか?」


「だって、私には恋愛なんて無縁だもの。美人でもないし、もてないし。恋愛にも興味がないの」


 纏の悲哀に沈んだ表情に惹かれた。

 そういえば、初めてまともに纏を瞳に映す。美人とまではいかないが、顔立ちは整っている。目は大きめでまつ毛は長く、鼻は高い。唇はふっくらしていてみずみずしい。決してもてないわけではないと思う。


「凜くんには恋人がいるの?」


「いませんよ。俺も恋愛には興味がなくて」


「凜くんならもてそうなのにな。ああ、凜くんが羨ましい。私は駄目だな。恋人もいなければ友達もいない。はぁ、一人暮らしだとなおさら孤独よ」


「俺も姫宮さんと同じです。ずっと孤独ですよ」


 纏は不自然な微笑みを形作ってみせた。


「でも、凜くんには小説があるわ。生きる意味があるなんて羨ましいよ。私にはそれがないから」


 生きる意味――凜にとってのそれは小説だ。生きるために執筆している。執筆するために生きている。

 だが、生きる意味が惰性になりつつある。生きる意味とはすなわち幸せだ。幸せは惰性になり、やがて不幸になる。

 同時に、凜は死に追いかけられている。小説家になれなければ、死が待っている。

 幸せな生か、幸せな死か。俺はやりたくもないことをやってまで生きたいとは思わない。生きる意味のない人生を惰性で生きたいとは思わない。

 ジントニックが胃の中で溶岩と化す。身体の芯が熱くなり、冷房から吐き出される寒いくらいだった風が心地よくなる。


「姫宮さんは生きる意味をなんだと思いますか?」


「生きる意味かぁ。うーん、哲学的な質問だね。ちゃんとした答えじゃないかもしれないけど、私は何かをしたいって欲求だと思うな。それがあるからこそ人間は生きていたいと思うんじゃないかな」


「姫宮さんは生きる意味がないと言いました。意地悪な質問かもしれないですけど、姫宮さんはどうして生きているんですか? 何かをしたいという欲求はないんですか?」


「本当に意地悪な質問だね。うーん、どうなんだろう。別にOLになりたいと思ってOLになったわけじゃないし、特にこれといった欲求もないかな。私はどうして生きているんだろう。なんだかわからなくなってきた」


「すみません。混乱させるつもりはなかったんですけど。小さな欲求でも生きる意味に繋がります。何かないですか?」


「小さな欲求……そうだなぁ、すぐには思いつかないよ」


「ストッキングが関係しているんじゃないですか?」


 すると、纏はわずかに目を見開いた。彼女は驚愕を誤魔化すようにビールを飲み干し、わざとらしく笑った。

 図星だ。やはり纏とストッキングには何か秘密がある。


「さすがにストッキングは生きる意味にはならないよ。私が生きているのは……うん、きっと孤独に死ぬことを恐怖しているから。私は……もう誰も傷付けたくないし、一人にされたくもない。だから、孤独でいるんだと思う。そして、孤独に恐怖しているんだと思う。私、人間不信なんだ。でも、凜くんのことは信じることができた。やっぱりおかしいよね。出会ったばかりなのに」


 纏は土の中に埋められた棺だった。いや、彼女は棺の中に閉じ込められた人間だった。彼女は自ら望んで棺の中に入り、自ら望んで土の中に埋められた。

 暗闇の世界。何も見えない。何も聞こえない。何も感じられない。時間が止まって、暗闇に対する恐怖という波に飲み込まれる。

 凜は痛いほどに孤独の怖さを理解していた。何故なら纏と同じ人間だったから。今も孤独の中に身を置いているから。

 息苦しい沈黙を破ったのは、店員だった。店員は纏が注文した冷奴と枝豆をテーブルの上に載せた。


「あっ、注文いいですか?」


「はい、どうぞ」


「カシスオレンジと、えっと……海鮮丼とシーザーサラダをお願いします。凜くんも何か注文したら? 遠慮することはないよ」


「いや、俺は大丈夫です。夕食は済ませてきたので」


「じゃあ、デザートでもいいよ。アルコールも忘れないでね。一人で飲んでもつまらないから」


「はぁ」


 ジントニックを飲み切らないうちに、既に酔いが回っていた。

 凜はアルコールに弱い。

 二十歳の誕生日、凜はたった二杯のアルコールで酔い潰れてしまった。たまに飲むチューハイで少しは耐性がついたが、どうにもアルコールは苦手だった。

 纏の頬も、色っぽくほんのりと上気している。どうやら彼女もアルコールに弱いらしい。

 仕方がない。おごってもらう以上、纏の言うことには従わざるを得ない。それに、彼女が酔っ払ったら、ストッキングの秘密をうっかり口走ってくれるかもしれない。ここは耐えるしかない。

 凜はメニューを手に取り、アルコールのページを開いた。


「そうだなぁ……カシスソーダと」


 メニューを捲り、デザートのページを開く。


「えーっと、ハニートーストで」


「かしこまりました」


 纏は生姜と葱の載った冷奴に醤油をかけた。

 箸が白い長方形の塊をいとも簡単に裂く。一口サイズのそれが纏の口へと運ばれる。それは一瞬で噛み砕かれてばらばらになり、豆腐から大豆の欠片になる。

 纏は枝豆の皿を突き出してきた。


「枝豆と一緒に飲んだら?」


「あっ、いただきます」


 枝豆をつまみながら、凜はなんとかジントニックを飲み干した。

 胸焼けがする。頭がずきずき脈打っている。


「凜くん、酔っちゃった?」


「はい。俺、アルコールには弱くて」


「私も。一杯で酔える分、お金がかからないからいいんだけどね。なんかごめんね、無理に注文させちゃったみたいで」


「いや、大丈夫です。ところで、姫宮さんはあのコンビニの近くに住んでいるんですか? って、そうですよね」


「うん。ぼろいアパートに住んでいるんだ。窮屈だけど、住めば都よ。アパートなら生活費に余裕ができるし、今さら引っ越すのも面倒くさくてね。凜くんは実家?」


「はい。大学は電車で通えるので。一人暮らしはさぞ大変なんでしょうね」


「そうでもないよ。やらなきゃいけない家事といったら、洗濯くらいかな。たまに掃除をして、ごみを出して。私は料理をしないから、一人暮らしでも楽だよ」


「そうなんですか。でも、俺が一人暮らしをしたら、きっと怠惰な生活になるだろうな」


「私の生活も怠惰だよ。食事のバランスは偏っているし、部屋は汚いし。どうにか改善したいんだけどね。仕事から帰ってきたら疲れているから、とても家事をする気にはならなくて。かといって、休日はゆっくりしたいし」


 ここで一時話題が途切れた。

 凜は手持ち無沙汰に枝豆をつまみ、纏は冷奴を器用に箸ですくっては食べた。

 そうこうしているうちに、カシスオレンジとカシスソーダが運ばれてきた。間もなくして、海鮮丼とシーザーサラダよりも先にハニートーストが届けられた。海鮮丼とシーザーサラダを待とうかと思ったが、纏に勧められて凜はナイフとフォークを握った。


「スイーツは好き?」


「はい、大好物ですよ。俺、甘党なんです」


「そうなんだ。男の子にしては珍しいね。私もスイーツは好きだけど、敵視しているんだ」


「ダイエットの敵ですか?」


「そうそう。つい買っちゃうから困るんだよね」


 蜂蜜の浸透した食パン。口内に入れて噛みしめると、食パンから蜂蜜が溢れ出してくる。シンプルながらきちんとスイーツになっている。

 カシスソーダは、ジントニックよりも飲みやすかった。幸い、アルコール度数も低いようだった。

 しかし、いくら甘党といえども、甘い食べ物と甘い飲み物の組み合わせはきつい。スイーツと一緒に飲むなら、やはりコーヒーだ。


「コーヒーを飲みたい?」


 纏は頬杖をついてそう言った。まるで心の中を覗かれたかのようで、凜はどきりとした。


「缶コーヒーを買っていたのは、執筆の眠気覚ましのためだったんだね。もやもやがすっきりした」


 頬杖をついたまま、纏はカシスオレンジをちびちび飲んでいる。これは酔いかけている。

 身体は燃えるように熱かったが、脳はひどく冷静だった。

 凜はハニートーストを咀嚼し、カシスソーダを口内で泳がせて顔をしかめた。

 甘ったるさが口内から喉へと流れる。喉元に酸っぱいものがせり上がってくるが、カシスソーダで強引に押し戻す。甘ったるさが下に落ち、胃がいら立ちに震える。

 今度は肥大化した疑問の塊が喉元まで込み上げてきた。凜はそれを吐き出すことにした。


「姫宮さん、ストッキングの秘密を教えてくれませんか?」


 刹那、空気が凍てついた。疑問の塊は、秋を飛び越えて吹雪となった。

 カシスオレンジのグラスが、行き場を失って宙に浮いている。グラスの底から垂れた水滴が、冷たいテーブルを濡らす。

 凜は己の浅はかさを恥じた。

 詮索するのは勝手だが、秘密に立ち入ろうとするべきではなかった。好奇心に振り回された結果、とんでもない過ちを犯してしまった。誰にでも秘密はある。秘密は侵害されるべきではないのだ。


「海鮮丼とシーザーサラダでございます」


 停滞した時間を動かしたのは、やはり店員だった。そして、固まった纏を解凍してくれたのは、海鮮丼だった。


「わぁ、美味しそう」


 纏は海鮮丼の方に身を乗り出した。彼女の表情は、お菓子を前にして目をきらきら輝かせる子供を彷彿とさせた。まるで先ほどの質問のことなんか忘れてしまっているようだった。

 凜は怖る怖るハニートーストの欠片を口に運んだ。


「シーザーサラダ、凜くんも食べていいよ」


「いや、結構です。ハニートーストで満腹になりました」


「そっか。じゃあ、私が全部食べちゃうね」


 凜は口を噤んだ。

 本当に先ほどの質問はなかったことになってしまったのだろうか。もしそうだとしたら、諦めてなかったことにするしかない。これ以上秘密に干渉することは許されない。

 黙って纏の食事を見守る。

 海鮮丼に醤油がかけられる。刺身と米を交互に咀嚼し、栗鼠のように頬張る。カシスオレンジで口の中を潤した後、シーザーサラダをつつく。温泉卵の白身が箸で破られて、黄身が腐った果実のようにねっとりと野菜に絡みつく。


「ねぇ、凜くん」


「はい」


 酔っているはずだが、明らかにそんな声の調子ではなかった。独白かと勘違いしてしまうくらい声のトーンは低かった。


「ストッキングの秘密を知りたい?」


 凜は鋭い光を放つ瞳を凝視した。

 ストッキングの秘密を知ってしまったら、もう後戻りすることはできない――なんとなくそんな気がした。神社の鳥居をくぐる時、何気なく後ろを振り返ってしまう感覚に似ていた。

 だが、今さら引き返すことはできない。ストッキングの秘密を知らずして帰ることはできない。


「はい。実を言うと、姫宮さんがストッキングを買っていく理由が知りたかったから何度もコンビニに足を運んでいたんです。ああ、もちろん缶コーヒーのためでもありましたよ。でも、ストッキングの秘密への好奇心がなかったら、姫宮さんと出くわすことはなかったでしょうね。俺は姫宮さんの秘密を知るためにここにいます」


 すると、纏はシリアスな表情を崩して吹き出した。


「そんなに期待するほどの秘密じゃないよ。むしろ、ちょっとがっかりするくらいかも。でも……そっか、そうだよね。なんか納得。そうでもないと、コンビニで四度も会うことなんてないよね」


 唇が自嘲を形作る。長いまつ毛が伏せられる。

 やがて纏は残りのカシスオレンジを空にした。


「いいわ、私の秘密を教えてあげる。ただし、二つの条件を受け入れてくれたらね」


「条件、ですか」


「うん。一つは、私のアパートに立ち寄ること。秘密をさらけ出すなら、私の部屋の方が安全だから。個室でも店員か客が耳をそばだてているかもしれないわ」


「それはないと思いますけど」


「できることなら誰にも知られたくないんだよね。なんていうか、怖いんだ。正直、凜くんに知られるのも怖い」


「どうして俺には教えてくれる気になったんですか?」


「秘密を隠したまま別れたら、もう二度と会えないような気がするから。それで、どうかな? この条件を受け入れてくれる?」


 脳が逡巡する。

 一人暮らしの女の部屋にお邪魔するのはいかがなものかと思う。傍からすれば、いかがわしいことを連想してしまうだろう。だが、やはりここで引き返すわけにはいかない。

 ストッキングの秘密は、内心の空間のほとんどを占めていた。膨らむ疑問は留まるところを知らず、どんどん他の思考を押し潰していった。まるで地面を這いつくばる蟻を踏み潰していくように。

 凜は頷いた。


「もう一つの条件は?」


「もう一つは、あと一杯付き合うこと」


「はぁ、わかりましたよ。酔い潰れても知りませんよ?」


「平気だよ。秘密は酔っていた方が話しやすいしね」


 纏はテーブルの上のチャイムを押して、ハイボールを注文した。凜はメニューの中から仕方なくウーロンハイを頼んだ。

 いくら酔っても、脳は冷たいくらい冴えていた。

 あと二時間もしないうちに、今日という一日が終わる。今日は日常とはかけ離れた一日だった。特別な一日が終わる。

 アルコールでは一日の終わりという寂寥感を埋められなかった。

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