コーヒー・アンド・ストッキング
姐三
コーヒー・アンド・ストッキング1
プルタブを開封する瞬間、凜は生きていることを実感する。
缶の内部に密閉されていたガスが、褐色の飛沫と共に空気と交わる。ガスと空気は一つになり、ガスの存在は抹消されて空気となる。少なくとも、人間はそれを空気と認識するだろう。仮にガスが存在していたとしても、それは不可視だ。
人間はガスと同じだ。社会という空気に飲み込まれて、人間は一人から社会の一部となる。一人の人間はひどくちっぽけな存在だ。
凜はブラックのコーヒーを口に含み、味わうこともせずにすぐさま嚥下した。
美味しいからブラックのコーヒーを飲むわけではない。そもそもブラックのコーヒーを美味しいと思ったことはない。凜は惰性で缶コーヒーを飲んでいる。
部屋の中に一人。缶コーヒーのプルタブを開封すると、夢から覚醒したような気分になる。膨れ上がった泡が弾けるがごとく、日常という悪夢から解放されたような気分になる。
凜にとって、日常は地獄のようであった。
地獄といっても、それは肉体的な苦痛をもたらすものではなかった。肉体的な苦痛を強いて挙げるなら、目の疲れと肩の凝りくらいだ。この地獄には精神的な苦痛があった。
例えるなら、それはマッチだ。マッチを指でつまんでいるとしよう。マッチを擦ると、先端に火がつく。じわじわと迫り来る火で指が熱くなる。それでもマッチを離さずにいると、木の棒が炭化して火はやがて消える。火傷とまではいかないが、指にはひりひりとした痛みが残る。凜の日常はこの繰り返しだ。痛みが蓄積すれば、指は焼けただれて黒くなる。
缶コーヒーを仰ぎ、最後の一滴まで喉に通す。
凜は疲労を孕んだ溜め息を吐いた。
小説家を目指して執筆する日常にはもううんざりだった。言い知れぬ恐怖にも似た焦燥が、空虚な胸中で渦を巻いていた。
小説家を志したのは、高校一年生の夏休みの途中だった。執筆に集中したかったため、部活には入らなかった。将来の夢がなかった凜にとって、小説は願ってもない救済であった。
中学時代、凜は怠惰な生活を送っていた。遅刻することなく登校して真面目に授業を受けていたが、部活には入っていなかった。
友達はいない。ましてや恋人もいない。放課後になると、寄り道せずに誰よりも素早く帰宅した。密かに囁かれていたあだ名は、帰宅部の神。
家では、ゲームをしたりDVDをレンタルして映画を鑑賞したりしていた。凜には青春なんてなかった。
なんとなく高校生になったら何かが変わると思っていた。つまらない日常が一変することを心の片隅で期待していた。
相変わらず凜には青春なんて皆無だったが、怠惰でつまらない日常は変わった。彼は小説の虜になり、夢中で執筆をした。執筆中の睡魔は、缶コーヒーのカフェインで追い払った。これが今まで続いて惰性となった。
だが、今では執筆までもが惰性となりつつある。
凜はただひたすら焦燥に駆られていた。
最初はプロットさえ作らなかった。脳内の想像のみで白紙から物語を創造することを心より楽しんでいた。両親にせがんでノートパソコンを買ってもらい、キーボードをたたくことに没頭した。四年前の凜は、神を気取った純真無垢な少年であった。
しかし、現在の凜は四年前ほど執筆を楽しめなくなっていた。余計な思考が邪魔をしていた。執筆を続けるうちに、彼は哲学的な人間になっていった。
凜は空き缶を握り潰してごみ箱に捨てた。その音は四年前と何も変わらなかった。
高校時代、凜は何度か小説を新人賞に送ったことがあった。結果は言うまでもあるまい。まだ文章が拙劣でとても読めたものではなかったこともあり、当時の彼は落ち込みながらもその結果に納得していた。悔しさをばねにできるほど純粋ではなかったが、彼は負けず嫌いであった。両親は飽きっぽい彼ならどうせすぐに筆を折ってしまうだろうと高をくくっていたが、彼は諦めなかった。
凜は青春をごみ箱に捨てて小説に情熱を注いだ。
新人賞に落選した小説は空き缶だ。空き缶は凜の中のごみ箱に捨てられる。その重量は小説家の経験になるが、同時に心の負担にもなる。空き缶が増えるたびに存在を否定されたような気分になる。
あっという間に受験の時期になった。凜は大学には興味がなかった。入学できるならどこでもよかった。両親には申しわけなかったが、彼にとって大学は延命に過ぎなかった。無論、彼はほとんど勉強することなく執筆を続けた。
なんとなく大学生になったら何かが変わると思っていた。懊悩煩悶の日常が一変することを心の片隅で期待していた。中学時代と同じように。
だが、大学生になっても何も変わらなかった。せいぜい執筆の時間が増えたくらいだった。
凜が何も変えようとしなかったことにも原因があった。サークルには入らず、実家から通学していたためアルバイトもしなかった。依然として友達も恋人もできず、二十歳になっても酒を飲む機会はほとんどなかった。
もはや孤独にも慣れた。むしろ、孤独の方が居心地がよくなってきた。住めば都、とでもいうのだろうか。
凜は椅子に背中を預けながら時計を見上げた。
午前二時。あと二時間は執筆できる。眠い。もっとカフェインが必要だ。
凜は背筋を伸ばしながら立ち上がった。気分転換のついでに、コンビニまで缶コーヒーを買いに行くことにした。
徒歩で五分もかからない距離とはいえ、凜はいつも着替えてから出かける。
別に他人の視線なんてどうでもいいが、凜にはまだ自尊心がある。着飾るとまではいかないが、着替えることで己という存在に自信がつく。彼には少し女性的なところがあるとも言える。
洗面台の鏡の前で、根元が黒くなってきた金髪を櫛で整える。途中で面倒くさくなってワックスをつけようかと思ったが、シャワーを浴びた後だったのでやめておくことにする。ワックスなしで無精で伸びた髪を整えるのは時間がかかる。そろそろ散髪したいところだが、いかんせん金がない。
両親からの小遣い制度は、大学生になると同時に廃止になった。凜は放任主義の両親の「アルバイトをして自分で稼げ」という暗黙のメッセージを察したが、どうしても働く気にはなれなかった。特に金を使うことがない彼には、近所に住んでいる祖父母がくれる小遣いで十分だった。
照明のついていない玄関で立ち止まる。暗闇に目が慣れてきたところで、鍵を開けてそろりと後ろ手にドアを閉める。
普段なら眠っている時間だが、夏休み中なら明日のことを考慮しなくてもいい。大学生になってよかったことは、シビアな規則から自由になったことだ。
最近、コンビニに足を運ぶことが多くなった。気分転換をしつつ缶コーヒーを買うことが目的だが、凜にはもう一つ目的があった。それは、人間を観察することだ。
人間の観察なら大学でもできるが、コンビニには多種多様な人間がいる。コンビニの中をうろついていると、不思議とインスピレーションが得られるのだ。コンビニがいつもスランプを救ってくれる。
世界のどこかから運ばれてきた夜風が涼しい。
もう九月だ。あと少しで夏休みが終わってしまう。嫌いな夏がやっと終わる。
静謐な街を歩いていると、この世界に一人取り残されたかのような錯覚に陥る。暗闇への恐怖が蘇る。心の片隅に追いやられていた孤独が風船のごとく膨張し、破裂する寸前でゆっくりと萎んでいく。ふと我に返る――孤独とはなんなのだろう、と。
孤独な人間と孤独ではない人間。孤独は普遍か特殊か。
凜は孤独を普遍的なことだと思っている。ふとした瞬間、心の中にぽっかりと穴が開く。この虚無の穴は、誰の心にも開いている。
いつも玄関のドアを開けた途端、針の先で刺されたような穴が凜の心を蝕む。ちくりと痛むが、慣れてしまえば気にならなくなる。
コンビニに到着すると、自動ドアと眠たそうな店員が出迎えてくれた。深夜であるせいか、客は少なかった。いや、逆にこの時間帯に客がいることの方が異常なのかもしれない。
深夜だというのにコンビニにいる人間に興味が湧いてきた。
最初に目についたのは、雑誌を立ち読みしているサラリーマン。他人の視線が少ないのをいいことに、いかがわしい表紙を隠すこともせずにぺらぺらとページを捲っていた。そういう雑誌は家でゆっくり読めばいいのに、と思った。
レジには酒をかごいっぱいに詰めた中年の男。スーパーの特売セールを彷彿とさせる量の酒だが、男は既に酔っ払っていた。重度のアルコール依存症のようだ。平日に飲んだくれているということは無職だろうか。
凜はショーケースを開けて缶コーヒーを手に取った。踵を返すと、一人見落としていることに気付いた。
若いOLは、袋詰めにされたストッキングを両手に沈思黙考していた。片方には黒色、もう片方には肌色。恐らく破れてしまったから新しいものを買いに来たのだろう。
およそ三十秒もの静止の後、OLは肌色のストッキングを棚に返して黒色のストッキングをレジに持っていった。
やはりコンビニにいる人間は興味深い。想像の伸びしろがある。子供じみた大学生を観察するよりもよっぽど面白い。
凜はOLの後ろに並んだ。どうして彼女は黒色のストッキングを選んだのだろうか、とくだらない疑問を抱きながら。
アルバイトの店員は、必死に欠伸を噛み殺していた。凜は彼の前で大きな欠伸をしてやった。
しかし、店員はつられて欠伸をすることはなかった。残念ながら凜が思い描いていた面白い展開にはならなかった。
会計を済ませてコンビニを後にすると、ふと夜の帳のような虚無感が凜の心を苛んだ。
午前四時に就寝し、午前十時に起床する。朝食は取らない。昼食はインスタント食品か冷凍食品。仕事で両親のいない家で一人執筆をする。遅い昼寝をし、目が覚めたら夕食ができている。シャワーを浴び、また執筆。深夜になればコンビニに行き、缶コーヒーを買って帰る。
これが凜の夏休みの日常。大学があっても内容はそう変わらない。メビウスの輪のように繰り返す毎日。いつからこの悪循環にはまってしまったのだろう。この日常を生きているうちに、いずれは死んでいく。こんな人生に一体なんの意味があるというのだろうか。
凜は缶コーヒーのプルタブに指をかけた。
「俺は生きている」
そんな独り言を喉元に押し留めて、凜はまずいコーヒーを口いっぱいに含んだ。
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