第51話

 綾子は冷えた何かを温めるようにカップを口に運んだ。

 冷えたのは、紅茶の茶葉の香りだろうか、それとも過去にかなえられなかった愛の香りだろうか。

 そんな問いかけを綾子は二人に問いかけたくなった。

「洋子は新島と結婚した翌年に生まれたのです」

 老婦人の言葉に綾子は顔を上げた。

「幸雄はその二年後に…」

 カップをソーサに置く。

「私は洋子が護さんから授かった子供かどうか確信は持てなかったのですが、洋子と幼いころ美術館へ行った時、確信したのです。洋子は一つ一つの作品をとても観察深く見つめている、その眼差しがキャンバスに向かって絵を描く、護さんにそっくりだったのです」

 老婦人は浮つくでもない微笑を口元に浮かべた。その口元へカップを運ぶ。揺らめいて昇る湯気に過去を見つめているのか、小さく首を横に振った。

「しかし…」

 老婦人の言葉に湯気が消えた。何かを憚るような重さがあった。その重さに引きずられるように男が動いてソファに腰を掛けた。

 綾子は男に視線を向ける。

 男が頷く。

「頼子…」

 男の言葉に老婦人が頷いた。

「ええ、そうね。哉兄さん」

 老婦人が綾子を見た。

「洋子は…、養女に出されたの…、あの子が五つの時に。当時新島の秘書をしていた田川さんの所に」

「田川…?」

 綾子の言葉に森哉が答える。

「そう、当時新島の秘書に田川という青年がいたんだ。私達兄妹は田川君夫婦に対して東京で生活を始めた頃、大変お世話になった。私は病気をしていたしね…実は彼等夫婦には残念ながら子供がいなかったんだ。もしくはできない身体だったのかもしれない…」

 綾子が男の言葉を聞いている。

「そう、それで田川君が新島の秘書を止めることになって郷里の滋賀へ戻ることになった時、新島の計らいで洋子を養女にしたんだ」

「養女に…」

 老婦人が静かに頷く。

「それでその後、洋子さんは…?」

「田川君が時折、東京に出てくるときは一緒に顔を出していたが、その後田川夫婦と一緒に滋賀で暮らしていた。朽木という集落から少し琵琶湖沿いに入った小さな集落Nにある寺の息子だったのさ、田川君は…」

 綾子はその地名に詳しくない。

(滋賀…、朽木…)

 自分の記憶で何かそこに結び付くところは皆無だった。

「娘はとても幸せに暮らしていたのですが、年頃になると、どうやら自分の事が何か違うなと感じ始めたようです。それであの子が年頃になると、田川夫婦が本当の事を洋子に話したようです」

 綾子はその時の洋子の衝撃はいかほどかと思わずには言われなかった。もし自分の父が、実父でないと分かればどう思うだろうか…

「それで…洋子さんは?」

「ええ…」

 そこで老婦人が兄を見る。兄は蝉しぐれのような雨音に何か心を寄せていたのかもしれない。

 それは古い過去の記憶だろうか。指で目頭を軽く押さえて、綾子を見た。

「私が田川夫婦からそのことで連絡を受け、東京から護の写真を持って滋賀へ行きました。洋子は子供ながらもしっかりした落ち着きを払ってその事実を受け止めていました。事実を知ってこれ程の落ち着きを持っていることにも驚いたのですが、より一層、田川君夫婦にもより懐いた…」

 言葉を切って老婦人を見る。

「哉兄さん、良いのよ」

 老婦人が気丈に声を出す。無言で頷くと兄が綾子に言った。

「いや…本当の家族のようになったと言う方がただしいかもしれない。本当の愛情を感じたのでしょう。田川君夫婦に…」

 綾子は老婦人の気丈さの裏に細やかな愛情と悲しみを感じた。愛した男性の子供を手元に置くことなく、別の家族に預けてしまった。

 その後悔が気丈さを生んでいるのだと。

「以後、田川君夫婦とは私が連絡を取ることにしました」

「あなたが…?」

 綾子の問いかけに男がソファから立ち上がると、静かに歩き出す。それから小さな棚の中からカメラを手に取るとマウントを触った。 

「やはり新島の家にあんまり細かなことを直接するのはどうかということで。私も大分健康を取り戻していましたし…戦時中は写真を軍の指導部の一員として撮っていましたから、東京の新宿で写真館を始めましてね、私も新島から距離をとっていましたし、都合もよかった」

 男がカメラを手にしてソファに腰を下ろす。

「その後、田川君夫婦は洋子の希望で兵庫へ引っ越したことがあるんですよ。それは短い期間でした」

「兵庫へ…?」

 以外な地名が出て綾子は驚いた。

「それは…どこです?」

「西宮というところです?ご存じでしょう」

 綾子は首を振った。勿論知らないことは無い。

 しかし、そこに何故?

 そんな思いが顔に浮かぶ。

「実は…、その頃、既に護は重い肝臓癌に罹患していて、もう余命いくばくもなかったんです」

「癌に…?」

 男が首を縦に振る。

「私と護は頼子との一別以来、会ってはいませんでしたが、実は弟の事は新島を通じてその様子は分かっていたのです」

「新島を通じて…」

「そうです」

 老婦人が顔を上げる。

「…護さんの事は、やはり新島も気がかりだったのかもしれません。それで議員としての政治活動をしながらも、護さんの身辺は調査していた。それで護さんが肝臓癌に罹患したことを知ると…、裏で行政に手を出し、色々な事をしたいたようなのです」

(気がかりだった…)

 意外な言葉だと綾子は思った。何ゆえに気がかりでなければならなかったのか。

 それは護の心の内を知っていたということだろうか?

 つまり目の前にいる老婦人と叶うことができなかった恋への絶望を。

「それで、その事を知った田川君も洋子の気持ちを思い、最後は弟の近くで…」

「弟さんの近く…?」

 男が頷いて言った。

「そうです、新島の計らいで…。同じアパートに居を構えたのです」

「それじゃ洋子さんは」

「ええ…、最後の僅かな日々を父の側で過ごしたんです」

 老婦人が口元に手を当てる。何か堪え切れない思いが堰を切る様に溢れてきて、それが涙となって頬を伝う。

「そうだったんですか…」

「ええ…」

 涙交じりの声が綾子の耳に響く。

 震えだす老婦人の背に兄が優しく手を触れる。何も言わず、ただ無言で撫でて行く。

 細く時雨の雨音が広間に響いてゆく。

 誰が老婦人の人生を責めることができようか。

 綾子は唯、じっと老婦人が泣き止むのを待つしかなかった。

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