日本語の思想

鈴木ムク

はじめに 日本語の思想とは何か

 まず、思想だ。

 思想って、文字からすると、思ったり考えたりしたこと、その内容のことだろう。でも、同じ一人の人間が生きて生活してきた中で思ったり考えたりするのだから、そこには当然その人らしさというか、なにか全体を特徴づけるような傾向とかタイプとかがあるはず。つまり、その都度の個々の思考内容ではなく、そこに共通する感じ方、考え方といったようなものがある程度固まっていて、それ自体として取り出せるのではないか。言い方を変えれば、表層の思考ではなく、もうちょっと深いところにある原理的な思考、あるいは思考の原理というようなもの、そのへんに思想の根っこがあるのだろう。

 では、もっと奥へ、深いところへと探っていくとどうなるか。個人を突き抜けて、日本人とか日本文化とかの大きな水脈にたどり着くような気がする。つまり個人の思想の底流にある日本人の思想、日本の思想というようなものが見えてくるのではないか。

 そこでちょっと見方を変えてみる。

 人間が思ったり考えたりするには、言葉を用いるのが普通だ。声には出さないにしても、頭の中でぶつぶつ何かを言っている。「あれがこうなって・・・これがこうだから・・」と。考えるこということは言葉を操作することなのだ。「痛い!」という感覚でさえ、「痛い」という言葉に結びついて自覚される。そしてもう痛くはなくても、「痛い」という言葉によってそのことを思ったり考えたりできる。言葉は思考の道具であるばかりか、その源泉でもある。

 つまり、思考は言葉に依存している。言葉によって制約され、条件付けられ、性格付けられ、特徴付けられている。

 ところで、日本人の思想または日本の思想である。この場合、言葉とは日本語のことである。言葉は常に具体的に存在し、使用され、変化している。いわば言葉は生きている。生きている日本語の中にこそ思想の核がある。だから、日本(人)の思想ではなく、日本語の思想なのである。

 つまり、こうである。日本語による思想であるかぎり、それは日本語によって制約され、条件付けられ、性格付けられ、特徴付けられている。したがって、日本語の性格や特徴を探ることで、日本(人)の思想の性格や特徴が見えてくるはずである。

 日本語自体に潜む思想を明らかにすること、それがこの論考の目的である。

 で、日本語の思想において「私とは誰か」、日本語的主体の問題を解き明かしていきたいと思う。まずは、日本語に主語はない、という話題から。

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