第10話 天使の消えた十二月

 場所は再び澤村邸。昨日、恵に無断で夜を明かしてしまった丘の上の豪邸。

 明け方にマンションに帰った俺を出迎えた恵は特に俺を責める様子もなく、

「英梨々から連絡があったから。ほら小学生が友達の家で予定していないご飯にお呼ばれしちゃったときは、その子のお母さんが家に連絡するでしょ?」

 とか、

「あ~、こういうことって二度や三度じゃなかったし、夢中になると周りが見えなくなっちゃうのが倫也くんだから。いちいち怒ってたらそれはそれであれだよ」

 とかフラットにいいながら、仕事前に仮眠をとっておくことを命じて寝室に押し込んだだけだった。blessing software を法人化し、恵と同棲し始めてからは初めての、それも連絡を怠っての外泊で、英梨々が那須高原で熱を出したときを思い出しながら、恐る恐る帰ったんだけど。

 今日も今日とて、昨日の反省も何もなく、というよりは昨日の今日で言い出しづらかったのもあって、「ちょっとコンビニ行ってくる」くらいのノリで恵に行先を告げずに家を出てきてしまっていた。

 英梨々の部屋の扉に手をかける。半日ぶり一億回目くらいの見慣れた扉のはずなのに、初めてくる場所のように、開けるのを躊躇する。恵に黙って来ているうしろめたさだけではなく、昨日の英梨々とのことも影響しているのだろう。思い出すと余計に湿ってくる手のひらをズボンでぬぐい、大きく息を吐いて扉を開く。

「あ、トモ。遅いよ~」

「倫也さん、待ってましたよ~」

 後ろで束ねた青い髪を揺らしながらすらりと長い手を大きく振っている美智留と、お団子髪のキュートな笑顔で健気に見つめる出海ちゃんが俺を出迎える。対面を予想していた人物とは声も雰囲気もあるところのボリューム感も違った、予想外の出迎えに、入室前に感じていた緊張が解ける。

「君たちが早すぎるだけだから。家は俺の方が断然近いはずだから」

「だって、お兄ちゃんが柏木先生の家に向かえっていうから。ね、美智留さん」

「そうそう、帰り際に波島兄ちゃんがいきなり出海ちゃんに電話してきてさぁ~」

「水臭いじゃないか倫也君。倫也君と柏木先生だけコソコソと何かをやっているなんて」

 出海ちゃんと美智留が隣り合って座るソファの正面に据えられたテーブルに置かれたノートパソコンから伊織が意図を説明する。部屋の主は作業机に頬杖をついて不服そうな顔でそっぽを向いている。

「・・・なんだってあんたこんな遅いのよ」

「いや、だから時間通りだぞ」

「・・・お手伝いさんが来客だっていうから、てっきりあんたが来たと思ってあたしの部屋に通すように言ったら、部屋に入ってきたのは波島出海と氷堂美智留じゃない。もう最悪よ、バカ倫也」

「いや~、澤村ちゃんもあたしたちのことそんなに邪魔者にしなくてもいいじゃんよ~」

「そうですよ blessing software の問題なんですからみんなで考えましょ」

「悪かったわね。あたしは外部委託の分際で」

「お?波島ちゃんにしては珍しく失言だね~。さてはライバル関係再燃か?」

「美智留さん、話をややこしくしないでくださいよぉ~・・・。さそれより本題に入りましょ。恵さん復活大作戦でしたよね」

 ヒロイン同士の仲を多少険悪にしそうな、それでも高校生のときとは違ってバトルにならない会話を切り上げてさっさと本題へと入る。

「その点なら問題わよ。そこのヘタレ社長さえその気になれば、恵はいつだってどこにだってついていくわ」

「だって恵は・・・」

「僕も同意見だよ、柏木先生」

 恵は詩羽先輩と冷戦状態にあるんだから。という俺の反論を遮って、意外なところから(画面の中から)英梨々の主張を援護する言葉が飛ぶ。

「ふんっ。あんたと同意見なのは気に入らないわね」

「でも、肝心なヘタレ社長はメインヒロインルートではなくて、別のヒロインの個別ルートを進めているようだ、というのも認識を同じくしているってことでいいかな?」

 伊織の一言に体が硬くなる。昨晩のあれは雰囲気にほだされて昔を思い出してしまったに過ぎない。ルートを分岐させる重要な選択肢は出現せず、共通ルートに彩りを添えるただのワンカットだったはずだ。

「・・・なんのことだかわからないわね」

「いやぁ~、否定的な意味合いではなかったんだけどね。別ヒロインの個別ルートに入っても、それがグランドルート開放の条件であれば必要なことだと僕は思うけどな」

 恵が居ないとそこは伊織の独壇場になる。恵よろしくブラックに本質を突くような発言をして、その場の雰囲気を凍り付かせる。凍り付いたようになっているのは俺と英梨々だけなんだけど。美智留は何のことかわかっていないらしく、ポカンという表情をうかべている。

「もう、お兄ちゃん、意味のわからないことばっかりいわないでよ」

 そして伊織には恵とは違って止めにかかれる人間が何人か存在して。

「恵さんを引き戻すために、倫也さんが今回のゲーム作りも本気の情熱を注いでもらわなきゃって話ですよね」

 いい読解力してるよ出海ちゃん。ていうか、情熱を注いでないわけじゃないんだけど。ただどうすればいいのかわからなくなってるだけで・・・。

「倫也さんは、今回のゲームは何がテーマだと思ってますか?」

「浮気・・・かな」

 口にした言葉はパブリッシャーから示されているテーマであって、開発元のライターとしてプレイヤーに伝えたい主題ではない。俺はこれまで胸がキュンキュンするような、それでいて現実の女の子のように生っぽい、だけど最高にドラマチックな理想的なヒロイン像を追い求めてきた。そんな人間が、急に昼ドラのような重くてドロドロなテーマを与えられたところで、自分がエンディングに向かって何を主題としてプレイヤーに伝えるかについては、確固としたものを持ちあわせてはいないわけで。登場人物に葛藤を与えるネタがキーになるとは直感的に感じているのはあるんだけど。

「ですよね。とりあえずこのシーンですけど・・・」

 出海ちゃんは、年上ヒロインとのイベントシーンを画面上に表示している。でルート分岐を絞り込む重要な場面だ。

「ここのセリフと立ち絵、音楽、バラバラな雰囲気になってませんか?もっとこう、浮気というテーマにバシッとハマらないというか」

「音楽はまぁ置いておいて、シナリオに乗せる絵としては、あたしは最適な絵を描いているはずよ。どこがバラバラなのか言葉で説明してみなさいよ、波島出海」

「それはないよ澤村ちゃん。あたしだってセンパイのシナリオと澤村ちゃんの絵から、こんなかんじの表現かなって思って音を付けてるんだからさ~」

 シナリオを感情の動きで分解してみれば、確かに英梨々の絵も美智留の音楽もそれほど確かに外れた方向性に進んではいない。ただ、それも全体として見てみるとやはり出海ちゃんの意見に軍配が上がるように思える。

「みんなの意見は全部ごもっともだと思う」

 三人のクリエーターの視線が俺に集まる。三者三様に、でも心の中で思ってるのはどういうことだろうかということで一致して、俺の次の発言を待つような目で。

「でも、修正のビジョンが全く見えてきていない。とりあえず俺が持ち帰ることにしよう。他に気になるところはないか?」

 その後も出海ちゃんが音頭をとって、blessing software新作ゲームの演出会議が続けられた。原画、美術、音楽がある程度同じ方を向けそうな議論でも俺は首を縦にふれず、議論が発散していく場面でも俺が宿題引き受けて保留することを繰り返していた。

「・・・やっぱり恵さんがいないとまとまっていきませんね」

 出海ちゃんがため息まじりに言う。優柔不断ラノベ主人公のように一つも意思決定ができなかった自分を情けなく思う。これまでの十年間は俺はやりたいことに突っ走って、恵が見せられる形に整えてくれていたのだということを実感させられる。

「・・・ごめん。帰ったら恵に相談してみるよ」

「妥当ね。あたしたちが関わった以上、神ゲーにならないことがあったらただじゃおかないわよ」

 出海ちゃんは「そうしましょ」と顔が語り掛けるような笑みを浮かべ、英梨々はやれやれといった表情で腕を組み、美智留はなぜか天井を仰ぎ・・・

「ところでさぁ、これでゲームのクオリティが上がってさ、神ゲーって呼ばれるようなのが作れたところで、みんな幸せになれるの?」

 誰に言うでもなく、まとまりかけた演出会議に爆弾を投じるような発言をする。恵と詩羽先輩の関係を修復しないことには始まらないということだろうか。それとも何か別の問題が美智留には見えているのだろうか。

「それもこれも全部、倫也くん次第だとおもうけどな。それより、そろそろお開きにしないかな。もう随分な時間だし」

 時計を見るとてっぺんをとっくに通り越して、一時に迫ろうという時間になっていた。

「あちゃ~終電なくなっちゃったか~。澤村ちゃん、このまま泊まってっていい?トモは歩いてでも帰れるだろうから、秘密の花園な話とかしちゃお~よ」

「あ、いいですね。この間の女子会みたいに」

「あんたたちと泊まるなんて死んでもごめんよ。倫也、経費でタクシー呼べるでしょ?」

「・・・うん、まぁ」

「倫也さん、大丈夫なんですか?これでも会社の経理状況は一通り把握しているつもりで・・・」

「やっほー、そしたらやっぱり澤村ちゃんちに泊りだね!」

 先日の詩羽先輩を呼び戻すためにかかった費用とか、みんなの毎月の給与とか、制作・納品のための諸経費とか、英梨々と詩羽先輩への報酬とか・・・。諸々考えると出海ちゃんの心遣いはとてもありがたく、社員をタクシーに乗せて帰せないのは経営者としてはとてもなさけなく。

「・・・送るから帰りなさい」

 英梨々は車の鍵を乱暴に手に取って、出海ちゃんと美智留を横目で迷惑そうに見る。

「ちぇ~、意地でも泊まらせない気じゃん。まぁ、澤村ちゃんの運転も面白そうだからそれはそれでー」

「悪いな英梨々、頼めるか?」

「こいつらと一晩中一緒にいなきゃならないって状況を回避できるだけで、あたしとしてはかなりの利益ね。決まったら早く準備しなさい」

「恐れ入ります、柏木先生」

 美智留は不平を言いながら、出海ちゃんは素直に、自分の荷物を持ち、四人そろって英梨々の部屋を出る。

「それじゃあ、俺は歩きだな。二人とは方面が逆だから」

「何言ってんのよ。あんたは往復あたしに付き合うのよ。レディに夜道を一人で運転させるなんて紳士さにかけるわね」

 真摯さとは別の意味だと思うけど、イギリス人ハーフの口から出るとなんとなく通じてしまうんだよな。というかそもそも車の外から暴漢が襲って来たとしても、アクセル全開で跳ね飛ばして逃げそうだよな、今の英梨々なら。俺、必要なくね?


* * *


 出海ちゃんと美智留を送り届けて、もう一度澤村邸。三台分はあろうかという広さの空のガレージに車を滑り込ませ、エンジンが切られる。

「着いたわよ」

 無事に帰って来られたことに安堵のため息をついているうちに、英梨々はさっさと扉を開けて車の外に出る。

 腕をあげて伸びをする英梨々の後姿に、小さいころに英梨々のおじさんの車で出かけたときのことを思い出す。別荘に連れて行ってもらったのは特別な思い出だけど、そうでなくても少し遠くの広い公園なんかによく連れて行ってもらっていたものだった。おじさんがドアを開けるのと同時に英梨々は外に飛び出していって、俺はそんな英梨々の姿を車の中から少しだけ眺めてから外に出ていたんだっけ。

 伸びを終えて腕を下ろした大人の英梨々は、いまだ助手席に座っている俺のほうを振り返る。おじさんの車の中で英梨々を少しだけ眺めてから動き始めるのは、英梨々が車のドアのところに戻ってきて「トモくん、行こ」といって手を引いてくれたから。今の英梨々だったら「何ボケっといつまでも座ってんのよ。早くしなさいよまったく使えないわね」とかなんだろうけどな。

 そうやって俺の手をとって走っていった幼少の英梨々は次の日には決まって熱を出した。俺はそのたびに、水辺でザリガニをモンスターに見立てて格闘したときにスカートの裾が濡れたのがいけなかったのかとか、丘の上の開けた場所に立つ一本の木の下で告白ごっこをしたときに風に吹かれて冷えたからじゃないかとか、自分を責めながら英梨々の早い回復を願っていた。治ってしまえばそんなこと忘れて、伝説の木の下に呼び出したりして。

 車の扉が突然開かれて我に返る。覗き込んでいたのは、きりっとした美形の顔に一部だけ束ねたロングの金髪をなびかせた大人英梨々だった。

「ちょっとあんたいつまでボサっと座ってるつもり?」

「あぁ、すまん」

 英梨々は俺が外に出て扉を閉めたことを確認すると、ボタン操作で車の鍵を閉める。ガレージにピピっという電子音とともに鍵がロックされる音が響きわたる。

 ガレージの中に響くドアロックの音に、淡い寂しさを伴った少し温かい思い出が呼び戻される。このガレージに戻ってきたときには、寝ぼけ眼をこすりながら車から降りて、英梨々に至っては熟睡してしまっていたために小百合さんに抱きかかえられて、四人でガレージの外に出る。それで俺だけは手を振ってお別れ。名残惜しい気持ちを持ちながら坂を下って帰ったんだっけな。

 英梨々に続いてガレージを出る。英梨々が振り返ってボタンを操作すると、カシャンという大きな音とともに、鉄のシャッターが自動で下りてくる。

「じゃ、俺はこれで。二人送ってくれてサンキューな」

 あいさつ代わりに右手を上げて軽く左右に振りながら、澤村邸の門を目指して歩き出す。

「とっ、倫也」

 後ろから英梨々が呼び止める。ガレージの照明に照らされて俯きながらぽつんと立っている英梨々の影が足元まで伸びる。

「・・・あ、あんた免許くらい取りなさいよ!」

「なんでそんな怒って・・・」

 英梨々の怒り顔は、砂上の楼閣のように一瞬で崩れ去り、表情を失った目から涙が零れ落ちる。

「もう、知らない。わけわかんない」

 その言葉に英梨々の気持ちを、そしてその姿に自分の気持ちを知ってしまう。英梨々の目から染み出る涙のように、二十年前から心の奥底にしまっていた気持ちがにじみだす。

「英梨々・・・」

 英梨々のもとに駆け寄っていき、抱きしめる。驚いたように目を見開く英梨々の頭を軽くなでてやる。

「倫也・・・あんたどうして・・・」

 うるんだ碧眼で俺のことを見上げる。抱きしめる腕に少し力をこめる。

「遠い。遠いよ。倫也が遠い。今日だって、昨日だって・・・」

 必死に追いかけて、近づいたつもりでいた。実際に、仕事の面では近づいたのかもしれない。けれどもそれは、こういう意味で近づいたわけでは決してなくて。そもそも離れてすらいなくて。結局のところ俺たちの間には、わだかまりとか、思い違いとか、そういうものが間にはいってしまっている。

「昔、みたいに・・・」

 英梨々の唇をふさぐ。それ以上言わなくていい。昔の気持ちは思い出している。二十年前と変わらない気持ちだ。ただ、ずっと変わらない関係性なんてない。自分をとりまくすべての事情によって変化していくものだ。

「恵・・・」

 英梨々の口から漏れたその名前に胸が締めつけられる。恵は、俺にとっては十年間一緒に走り抜けてくれた人生のパートナーだ。英梨々にとっては親友で、心の支えになってきたはずだ。それが今は・・・

「悪かった。もうしない。今のもノーカンにしてくれると助かる」

「・・・ノーカンの部分だけ聞いとく」

 英梨々は俯いて俺の方など見ずにそうつぶやくと、俺から体を離して伸びをする。

「倫也、いつまでそんなところにぼやぼや突っ立ってんのよ。恵が待ってるわよ、とっとと帰りなさい」

「ぼやぼやって、お前・・・」

「なによ」

 俺の胸から英梨々が離れてから全く時間が経ってないだろ。

「なんでも。それじゃ、またな」

「ん。おやすみ、倫也」

 澤村邸に背を向けて、広い敷地の中を門に向けて歩く。背中から玄関の鍵を開ける乾いた音が聞こえる。今はそれぞれに生活がある。二十年間のすれちがいとはそういうものだ。門に差し掛かっても玄関を閉める音はしない。振り返らずに帰ろう。振り返ると、二十年前に戻ってしまうから。英梨々はきっと俺の後姿を見ながら待ってるから。

 門を開いて、その扉を閉めるときに、階段の上の澤村邸の玄関が目に入ってしまう。電球の温かい光に照らされて、金髪ロングの美女がこちらを見ていた。遊びに来た俺が帰るときの、おじさんと小百合さんに手をつながれて、玄関で俺を見送る短い金髪ツインテールの少女の姿に重なる。

 門の錠を時間をかけて締め、顔を上げて英梨々に向かって右手を上げる。あの頃の俺はどうやって家に帰ってたんだっけ。複雑な感情をもてあましながら、見慣れた坂を下る。


 次の日も、その次の日も、英梨々とノーカンのキスを繰り返した。こそこそと隠れながら。お互いの気持ちは隠しもせずに。


* * *

「う~ん」

 明くる日。俺は英梨々とのできごとに罪悪感を覚えながらも、神ゲーを制作すべく、恵に出社要請をした。あれこれ大義名分を考えてはいたものの、澤村邸で行われた演出会議のメモを見せながら恵の必要性を説くと、あっさりとオーケーが出た。

 恵が出勤してから数日間、的確な指示によって、これまでの遅れを取り戻さんとばかりの勢いで、流れるようにゲーム制作が進んでいった。ここに会話を書く必要のないほどに、本当に障害もなく。

「うう~ん」

 社長室にこもってゲームプレイにいそしむ。プレイしているのは、原作からはレーティングが変わって何のおとがめもなくなったビジュアルノベルゲーム・・・、ではなくて弊社の新作ゲームのα版プロトタイプ(ワンルート)だ。

「あんたそんなところで何うなってんのよ」

「・・・ん?あぁ、英梨々か」

 成果が積みあがっていくにつれて、俺の中での違和感も積みあがってきているのも事実だった。テストプレイをしてみても良いゲームにまとまっていて、これからの展開次第で神ゲーにも発展しそうな可能性を見いだせていているにもかかわらず。確かにクオリティは高まっていることが実感できるのだが、スムーズすぎる制作風景にどこか不安を感じていて。それが何なのかを説明する言葉はうかばなくて。

「う~ん」

「・・・まぁいいわ。特に用もなかったし」

 踵を返して退散しようとする英梨々の前で、圧迫感のある長身美女が行き場をふさぐ。

「あら、英梨々。用もないのに社長室に忍び込んだけれども、取り込み中だってわかって引き下がれるなんて随分と進歩したじゃない。体以外は」

「うっさいわね。用くらいあるわよ。そもそも、なんであんたが勝手に入ってきてんのよ、詩羽」

「言っていることが矛盾しているわね。それに、私もチームの一員として社長の方針をうかがうことは至極当然のことよ。あなたみたいなしがない原画マンではなくて、シリーズ構成とルートシナリオライターという関係性もあるのだし」

「あたしが先に倫也のとこに来たの。コミケでもなんでも先に着いた人から順番にっていうのは世の常識でしょ?あんたはあたしの用が済むまで一人で外でアホ面こいて待ってなさい」

「ほんと、あなたは昔から自分だけが一番でないと納得いかないのよね。愛人には向かないどころか、三角関係に陥ったら自らすべてを失いにいくタイプよね、英梨々」

「まだ何も失ってないし、愛人で終わるかだってわからない!」

「・・・そのセリフいただくわ」

 こんな風にもっとメンバー同士が才能とかこだわりをぶつけあって、受け入れ合って、あるときには別概念に昇華して、作品のクオリティが高まっていくものだと思っていたからかもしれない。

 話してる内容がきわどすぎるのは難点なんだけど。というか英梨々はもう少し自分が何を言っているのか自覚しろ。

 恵の方へ目をやる。黙々とパソコンのディスプレイに向き合って、プログラムを入力している。

「かかかかかか、完全性悪腹黒文筆家が~!」

 英梨々は顔を真っ赤にして、背を向けて退室する詩羽先輩をにらみつけている。洋服の裾を力強く握りながら。理不尽に対する(自分からはハメられにいってた気もするが)やり場のない怒りを自分のうちで処理するところに、英梨々の大人としての成長を感じさせられる。昔だったら俺に八つ当たりのツインテールビンタをかましてきたところなのに。

「なぁ英梨々、このまま進んでいっていいと思うか?」

「ななななな、何よあんたまで」

「なんか遠慮してるっていうかなんというか。思いと思いのぶつかり合いみたいのが欠けてるっていうかさ」

「あんた、進んで修羅場を作り出す気?」

「あぁ、そうだな。クリエーターの個性とか本音が激突してはじめて、一つの作品としていいものができるんじゃないかと思ってさ」

「・・・そっちね」

「悪い、クリエーターの前で言う言葉じゃなかったな」

「そうね。・・・一つだけ言っとくと、あたしはどんなときだってすべてに対して本気だから。それじゃ、また後で」


* * *


 月も星も出ない曇り空の夜。俺と英梨々は「また後で」というセリフの伏線を回収する。マンション近くの月極駐車場に停めた英梨々の車の中で。

「・・・んぁ」

 英梨々は絡めた舌を俺の口から引き抜いて吐息を漏らす。お互いにしばらく見つめ合い、顔に笑みを浮かべる。

「ノーカンな」

 頭に軽くなでながら、今日の二人の時間を終える合言葉を口にする。

「ん。おやすみ、倫也」

「おやすみ。また明日な」

 満面の笑みで送り出す英梨々を見ながら、シートドアを開き、車外へと出る。暖房の効いた車の中から一歩外に出ただけで、息が白く染まり寒さが顔の皮膚を刺す。

「ふぅぅぅぅん」

 聞きなれた声が耳に届く。

「これ、英梨々の車だよね」

「めっ、恵。これは、その、ちがっ・・・」

 英梨々も車から降りて、言葉にならない弁解の意志だけ示す。

「いいんじゃない?倫也くんは英梨々とお似合いだよ。オタクで、気が合って、性格も似てて、二人ともクリエーターで。もともとの経緯もあったんだから、そっちでくっつくのが本当だったんだよ」

「恵、ふざけたことぬかすんじゃないわよ。この十年は倫也のメインヒロインやってきたのはあんたなのよ。合宿でも話をしたじゃない。あたしはあんたを認めた。あたしの間違いも認めた。でもね、ただ何もなく認められたわけじゃないのよ。あたしがどんな思いでこの十年を過ごしてきたか・・・」

「そんなの知らないよ!だいたいわたしの十年だって、倫也くんは英梨々を追いかけることしか考えてなかったみたいだったし。わたしだってみんなでゲームを作りたかったから、一緒に目指してきた。でも、倫也くんにとっては過去への復讐の時間だったのかもしれないって、過去に適わなかった恋を取り戻すための時間だったのかもしれないって、思いたくないのに思っちゃって・・・倫也くんが完全無欠のメンバーでつくるこのゲームで、本当に何がしたいのか、わからないから」

 何も言葉を発することはできなかった。

 英梨々の車のアイドリング音だけが響く駐車場には、降り始めの雪の粒が一つ、また一つと舞い落ちる。

「・・・ごめん。倫也くん、英梨々。少し離れて頭を冷す時間をもらえないかな・・・」

「恵、それって・・・」

「・・・ごめん」

 俺は何も言うこともできず、俯いて歩く恵の後姿をただ見送ることしかできなかった。

「・・・あたしも、もう帰る」

 またしても何も言うことはできず、駐車場から滑り出ていくテールランプを目で追うことしかできなかった。

「そして部屋に戻った倫理君は、飾ってあったフィギュアが二つ減っていることに気づき・・・」

 立ち尽くす俺の背後から、柔らかくて優し気な声で、どこぞのミステリー小説よろしく不吉な設定が告げられる。

「修羅場ね」

「・・・詩羽先輩、いつから?」

「恍惚とした表情で見つめ合う二人。頭に手を置いて日常へと戻る合図を送る。くらいのところからかしらね」

 ほとんど全部じゃんとか、あんたもいつぞやの加藤よろしくステルス性能高いなとか、ツッコミを入れる気にもならず。

「・・・これからどうすれば・・・」

「そうね。とりあえず作戦会議ね。男と女、密室で」

「これ以上修羅場を増やしたくないよ?」

 こんな時にもいつも通りの冗談を言って俺を和ませてくれて。また詩羽先輩に救われてしまう。俺は詩羽先輩をヒロインから脱落させる選択肢を選んだのもかかわらず。

「せっかく手を差し伸べてあげてるのだから素直にその手を掴みなさい」

「・・・はい」

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