第7話 缶詰作家の週末旅行
肌寒さを感じて目を覚ます。右側に転がるように寝返りをうつ。転がった先では体温を蓄えていないシーツの冷たさが肌を伝わる。人生のパートナーはもうそこにはいない。フィジカル的にだけでなくメンタル的にも俺を受け入れてくれていた温かさは遠くへ行ってしまった。
カーテンからの薄明かりが部屋全体をぼうっと照らす。枕元の時計を確認する。午後四時半前。冬至の前に日没が一番早くなるとはいえ、完全に日が暮れるにはいくぶん早い。おそらく厚い雲が立ち込めているのだろう。重たい頭をなんとか持ち上げて起き上がり、退廃的な空気に満ちた部屋に明かりをつける。
のどの渇きを感じ、何か飲もうとそのまま台所に向かう。確か冷蔵庫には瓶ビールを買っておいたはずだ。
リビングからはゲームの音が聞こえる。眠気を感じるようになるまで一人でゲームをしていたので、うっかり電源を切り忘れたのだろう。冷蔵庫の扉を開けると、ビール瓶がぶつかりカチャンという音が大きく響く。
「あ、あたしにもグラスもってきて~」
「はいよ」
「あ、倫也さん、手伝います!」
ビール瓶を一本、冷蔵庫から取り出し、食器棚に手をかけたところで後ろを振り返る。
「・・・?」
対面式のキッチンの向こう側から健気に笑顔を作りながらこちらに歩いてくる出海ちゃん、ゲームのコントーラーを一心不乱に操作する美智留の姿を順番に確認する。
「なんでお前らここにいる?」
さも当然というように俺の部屋に居座る二人にツッコミを入れる。
「いや~、加藤ちゃんがいなくなってトモが寂しがってんじゃないかな~って思って」
第七話のはじめから数行はまるで恵が居なくなったかのような感傷的な雰囲気で状況を描写してみていたけれども、恵は英梨々と旅行に出かけただけだし、ビールを飲むのは純粋にのどが渇いたからだし、徹夜でゲームしてたのは今日が完全休養日を満喫していたからだから。寂しくなんてないもん。という読者向けの説明を、会話が間に挟まってしまったことによりツッコミ形式で達成する。美智留も図ったかのように思わせぶりな会話を入れなくていいから。
「だって倫也さん、インターフォン鳴らしても出てこなかったから」
それって理由になってないよね、出海ちゃん?
まぁいつものことかと思いながら、お盆にビール瓶を一本とグラスを三つ載せて、リビングに持っていくように出海ちゃんにお願いをする。シンクの下の扉を開ける。調味料しか入っていないことを確認し、何も取らずに扉を閉める。恵が居ないとおつまみも探せないなんて・・・
「冷蔵庫の上のカゴの中だよ、倫也君」
「おうサンキュ。っていうかなんでお前そこまで知ってるんだよ・・・」
出海ちゃんが持ってきたノートパソコンの画面の中から伊織が指示をする。何を探しているかという心の中までちゃっかり読まれてるし。
「お兄ちゃんも来ればいいのにって言ったんですけど、いつも通りネットがいいって聞かなくて」
伊織がこの家に足を踏み入れない理由については、我が blessing software 七不思議のひとつ・・・、というよりわざわざ表沙汰にするような問題ではなかったりするわけで。
「僕にはプロデューサーとしての仕事があるからね。クリエーターの休日もばっちり監視させてもらって、今後のプロモーションイベントのネタにさせてもらうよ」
それなら英梨々や詩羽先輩の方に張り付いたほうが売れ行きもいいだろうに。というツッコミを心の中で入れつつ、まぁ英梨々は恵と一緒だから伊織は手を出せないし、詩羽先輩は缶詰を一時保釈になって本当に休養が必要だからという伊織なりの気遣いもあるんだろうな。それにこっちには美智留という、プライベートを売ったら売れそうな歌姫も居ることだし。
「それと、鍋のセットをそっちに届けるように手配しておいたから、そのうち届くと思うよ」
「いや~、波島兄ちゃん、本当にいいヤツだよね。腹黒いけど」
「僕を善人呼ばわりするのはやめてくれないか。って、かれこれ十年は言っているんだけどな」
「いいねぇ、様式美。イング○ェイ○ムスティーンみたいで。好きだぞ~」
終末シンフォニックトナカイ粉砕なんとかメタルだっけ?まぁ確か貴族っぽい端正な顔立ちって意味ではそれっぽいけど。太らないでね。
などと無駄な会話をしながら平和な休養日は過ぎていく。
スマホのメッセージを確認する。宿の玄関と英梨々の後姿が写った写真と『着いたよ。おなかすいた。英梨々の運転、お昼にどこかに寄ろうって言いだせる雰囲気じゃなかったから』というメッセージ、火が入る前のすき焼きのような鍋の写真と『夕飯、ちょっと早めてもらっちゃった』というメッセージから、あっちも平和に休養日を過ごしていることを確認して、ほっこりとした気分になる。
「おっ、加藤ちゃんから?澤村ちゃんは写ってた?」
なんで写真が送られてるってわかったんだよエスパーかよ。ていうかなんで英梨々?まぁ写ってたし保存したけどさ。
「恵さんたち、夕食の時間を早めてもらってるんじゃないですか?なれない運転でお昼を食べる余裕もなくて、早く宿に着いちゃったとかで。いいなぁ~わたしたちの鍋も早く来ないかな~」
こっちもエスパーかよ。こっちはまぁ、恵と英梨々の性格を知っていればまぁ推測できるんだけど。
「で、加藤ちゃんと澤村ちゃんが旅行に行ったのって、やっぱりトモが澤村ちゃんとデートしたから?」
デートという言葉に体に力が入る。美智留のそのうがった見方は、詩羽先輩に徐々に蝕まれたものだろうか。
「英梨々とまた一緒にゲームを作れるのを記念してとかいってたぞ?」
「さて、何を祈念して旅行に行ったんだか。トモも加藤ちゃんが帰って来た時のために覚悟を決めておいたほうがいいんじゃない?」
俺が英梨々とデートもどきをして、ヒロイン二人の旅行に置いてけぼりくったからといって当てつけのように毒を吐くその言葉は、髪も黒いあの美人そのもので。美智留の楽観さがうかがえる口調ではあるものの。
「まぁ何があってもトモはあたしと家族としてつながってられるから安心してていいんだけどさ~」
ほら『倫理君、私を選んでくれたっていいのよ。何があってもあなたを受け入れて奴隷として飼ってあげるわ』くらいのこと言いそうだもん。ていうか何かあるの?
ピンポーン。
美智留の楽天的な言葉づかいから不穏な空気が少し漏れ出てきたところで、ちょうどよく鍋が届く。
「やほぉ~!もつ鍋もつ鍋」
「待ってください、準備しますから。・・・あ、こら、つまみ食いは行儀が悪いですよ」
美智留の頭の中がもつ鍋一色になってくれたおかげで、詩羽先輩もどきの追求から免れたものの、これまで考えていなかった心配事が頭に浮かぶ。そういえば前回の旅行は関係を修復するためにいったんだったような・・・。
「倫也さん、前回のマスターアップ前に公開されてた『光と影のエンゲージ』のBD、テーブルの上に置いてあるので、セットしておいてもらえますか?鍋しながら見ましょうよ」
光と影のエンゲージって、かの有名な鬱展開脚本家が恋愛ものを書いたっていうあの超絶劇場アニメ。キタねこれ。評判も最高潮で、今年の覇権じゃないかと言われている・・・仕事が忙しくて見れなかったやつ。ついに。光と影のエンゲージ、光と影のエンゲージ。頭の中で唱えながらDVDプレイヤーに円盤を載せて。
鍋が空になって、ビール瓶の空き瓶も机の上から転がり落ちるようになったころ。
「うぅぅぅぅ、倫也さぁん、彩香の目標が達成できてよかったぁぁ」
「うぅぅぅ、大悟に思いも告げられないままに振られて、でも最後にちゃんと恋する気持ちを告げて、思いを吹っ切れたから、ってのが胸アツなてんかいだったよなぁぁぁ」
劇場版アニメの上映が終わり、俺と出海ちゃんが二人して号泣する横で、美智留がヘッドフォンをしてギターをかき鳴らしている。様子を見て曲調を選んでいるのか、感動に水を差すどころか、妙に感動を高めてくれるような旋律で。アンプを通さない生音なのが残念だよ。
などと感動に浸っているなか、ビールを飲みすぎたせいか、押し寄せてくる尿意が感動に水を差す。万全の備えを怠ったことを反省しつつ、トイレに立つ。恵たちは食事を終えて、温泉を堪能しはじめているころだろうか。こちらの様子も写真にとって送ってやろうか。などと考えながら、便座に腰を掛けてスマホをポケットから取り出す。
詩羽先輩からメッセージを受信したことを告げる通知が目に入る。
『本当に申し訳ないのだけれども、今回のプロジェクトを下ろさせていただくことにしたわ。これまで書いてきたシナリオ、相談したプロットのアイディア、すべての権利は放棄するから、自由に使っていただいて結構よ。倫也君と加藤さんには、とても迷惑をかけることになってしまうけれども、私のわがままをお許しください。これからも、あなたが作るゲームを楽しみにしているから』
その内容に目を疑い、もう一度読み返して、スマホをしまう。パンツを上げて、ズボンを上げて、ベルトを締めて・・・
「あぁぁぁぁぁぁん?!」
「倫也さん?」
「どうしたトモ、チャックに例のブツでもはさんだ?」
トイレのドアを開けると、俺の叫び声に反応したらしい出海ちゃんの心配する顔と、美智留のいたずらっぽく微笑む顔がリビングから廊下をのぞいている。ていうか、美智留はそんな事態をよく想像できるよな。おまえには経験ないだろうに。
トイレを出た俺は、リビングで会議風に集まったチームメンバーである二人(プラスしてパソコン画面のなかの一人)に叫びの理由と俺の意志を告げる。
「詩羽先輩を連れ戻しに行こうと思う」
「あ、私も行きます!」
出海ちゃんが元気よく右手を上げ、決意に満ちた表情でこちらを見る。
「ごめん、出海ちゃん。俺一人で行かなきゃならないと思う」
「でも・・・」
詩羽先輩は、他の誰でもなく俺にだけ連絡をしてきた。霞ヶ丘詩羽という人間の精神性を考えたら、俺が行くしかないということは自明の真理であって。
「そうだね、波島ちゃん、やめときなよ。センパイは加藤ちゃんほどじゃないけど面倒な性格してるからさぁ~。トモが一人で行った方がいいと思うよ~」
『僕も倫也君や氷堂さんに賛成だよ。倫也君が霞詩子を連れ戻しにいってる間に、出海はこっちでできることをやればいい』
出海ちゃんは煮え切らない顔でしばらく考えたあと、一度うなずいて、笑顔をつくる。
「倫也さん、恵さんにはちゃんと連絡入れてくださいね」
右手を上げて肯定の意志を示し、財布とスマホがポケットに入っていることを確認して、そのままコートひっかけて外に出る。
* * *
街頭一つなく車も通らないような田舎道、とある温泉宿の前でタクシーを降りて、木造の建物の窓から漏れ出る光を見上げる。出海ちゃんから詩羽先輩のデスクのパソコンの履歴にあったと連絡を受けた旅館に、新幹線とローカル線、そしてタクシーと乗り継いで来てはみたものの、決定打に欠けるため入館がためらわれる。俺が乗ってきたタクシーのエンジン音もしなくなると、川の流れる音と虫の声だけが静謐に音を添える。
他に目的地もないような場所でタクシーを降りて、その場で立ち尽くしている男が居たらさぞかし不信だろうと思う。
旅館の扉が音を立てて開き、中から着物の女性が出てくる。仲居さんだろうか。
「あ、すいません。ちょっと人を探してて・・・」
「・・・倫也、君?」
あれ?俺の名前を知っていて、しかも優し気で包み込まれるようなこの声。
「・・・って、詩羽先輩?」
黒髪の大人ショートの長身美女が近づいてくる。
「やっぱり倫理君なのね。ついてきなさい」
俺だと判別するや否や俺の手を掴み、宿の中へと引っ張っていく。
「宿なら心配いらないわ。最初から二名で予約してあるから」
それ最初から俺を連れ込む気で予約してるよね。などという余分なツッコミはしないにしても、何らかの策を腹に抱えていることは見え見えなわけで。かといって、十二時をまわった旅館のまわりで話し声を響かせるわけにもいかず、多少の抵抗感を覚えながらも黙って詩羽先輩に従う。
二人とも会話なく詩羽先輩が泊まっている部屋に入り、内側から鍵を閉める。
「詩羽先輩、あのメッセージ・・・」
言いかけたところで詩羽先輩の人差し指が唇を押さえる。
「部屋に入るなり本番に入ろうだなんて随分とデリカシーのない男ね。ものには順序というものがあるの。まずはリラックスして、徐々に気持ちを盛り上げていって、お互いに心地のいいところを探りあって、それからやっと本番に入れるものよ」
「今後のゲーム作りの話だよね!」
お決まりのお色気ヒロインのセリフをいただき、お決まりのツッコミを入れて、いつも通りの詩羽先輩なんだと実感する。
「倫理君、お風呂入ってきちゃいなさい。話はそれからよ。せっかくの源泉かけ流しなのだから。あの時とは違って」
詩羽先輩が顎で示す先には浴室の入り口が見える。
「でも・・・」
「言い忘れたわ。前戯も大事だけど、それよりも前に体を綺麗に洗い流すというプロセスを経るのはエチケットね」
「いや、それゲーム作りの話じゃないでしょ明らかに」
詩羽先輩は俺から鞄をはぎとって「着替えの浴衣は後で持っていくわ」などと言いながら俺を脱衣所に押し込める。今ここで無理矢理に本題にもっていっても、詩羽先輩は閉ざしたまま頑として動かないだろう。観念して服を脱いで浴室へと足を踏み入れる。あ、蛇足でも言っておくと、閉ざしたまま開いてくれなさそうなのは心のほうだからね。
体を流し、檜の浴槽に体を沈める。詩羽先輩を連れ戻す。宣言しただけで無策でここまできて、流されに流されて、詩羽先輩が泊まる部屋の浴室で汗を流している。
「浴衣、外に置いておいたから」
「ひぃっ」
詩羽先輩が一糸まとわぬ姿にタオルを体の前にかざして入室するのを見て、体ごと壁の方に目をそらす。お風呂で鉢合わせというラッキースケベの定番的なリアクションなど帰ってくるわけもなく。
「さっき川に面した露天風呂で体は洗っているから流すだけで失礼するわね」
少なくとも、湯船や湯気で体の重要な部分が見えなくなるまでは目を背けて待っていなければならない。ほら、倫理的に。
洗面器を持ち上げるときに床をひっかく音。詩羽先輩がその洗面器でお湯をすくったであろう水の音と、湯船を伝わってくる波。ザーッと体にすくったお湯を打たせる音。ポチャンという音とともに水かさが増えて湯船からお湯があふれだす。俺の脛を詩羽先輩の足がなでる。
きゃーとか、見ないでーとかそういうリアクションは期待してなかったけど、そもそも偶然たまたま俺が入っている風呂に入ってきてしまったわけでもなく完全に確信犯なわけで、こうも堂々と入ってこられると、一緒に入るのが当然のような気さえしてくる。まぁ、気のせいなんだけど。
「・・・あ、えーと、出ます」
恐る恐る詩羽先輩の方を向いて、詩羽先輩の体がすべて湯につかっていることを確認して立ち上がる。濁り湯でもなければ湯気さんも仕事をしていない予想外の光景に一瞬足がすくみ・・・
「待ちなさい、倫理君」
詩羽先輩に腕を掴まれる。強引に湯船に引きずり込もうとする腕の重みに抵抗する。でも激しく抵抗して俺が足を滑らせて湯船にドボン、あるいは詩羽先輩がズルリと湯船からこちらにダイブ、みたいな事故がおこらないように慎重に力加減を考えて。
「あぁ、ちょ。やめてよ詩羽先輩。まずいよ、既婚者なんだから」
「・・・それにしては、ここまで一人で来ちゃうんだから」
「それは・・・、まぁ」
「私がプロジェクトを降りる件について、話に来たんでしょう?」
「それも・・・、まぁ」
このタイミングでその話をするなんて、腹黒さもいいところだと思いながらも、詩羽先輩を連れ戻すと皆に約束した以上、観念して話題に上がったタイミングで話すしかない。
湯船にもう一度足を入れ、詩羽先輩と向き合う形で腰を下ろす。
「それにしても意外ね。もっと狼狽して飛ぶように出て行ってしまうのではないかと思ったけど」
「・・・まぁ、恵とでちょっとは耐性ついたから」
詩羽先輩を連れ戻しに一人で来るということは、こういう状況になるかもしれないということは容易に予想できたわけで。だから、ある程度覚悟もしていたわけで。さすがに温泉で混浴するまで刺激的な展開を予想していたわけではないけど。
「ねぇ、倫理君。この部屋、瑠璃の間っていうのよ。まるで、私たちのための部屋みたいね」
「懐かしいな。そこから俺のキャリアが始まったんだっけ。・・・っていうか、近寄って来ないでよ。詩羽先輩」
詩羽先輩は湯船の中で体の向きを変え、隣に並んで俺の腕に詩羽先輩の肩を寄せる。寄せてるのは型だけじゃなくて、豊満な胸も自分の腕で寄せるような形になっていて、斜め下から上目遣いで俺の顔を覗き込んでくる。
「川端康成の『伊豆の踊子』でね、主人公は伊豆の温泉を巡る道中で踊子に恋をするの。温泉に浸かっている踊子はその裸体を見せつけながら主人公に手を振るシーンがあるの。それで思うの。純粋な気持ちで生きているんだなと。それで、ますます思いが盛り上がって、アプローチするのよ。そのはじまりとなった温泉街がこの街なの。・・・ねぇ、倫理君。今の私は、どうかしら。踊子のように、あなたに特別な気持ちを植え付けられるかしら」
「どうもこうも、詩羽先輩は詩羽先輩だよ。最初から詩羽先輩には特別な気持ちしかなかった」
詩羽先輩は目を伏せて、ひざを抱えて座り直す。
「詩羽先輩は、俺にとっては神のような存在で、頼りになる先輩で、憧れの人だった。詩羽先輩が越えなければならない壁として存在し続けてくれたから、俺はここまでくることができた。目標も何もないところで泳げって言われたら、あきらめてしまったと思う」
「・・・作家として、霞詩子として、なのね」
「そうじゃない。というかそれもあるけど、それだけじゃない。詩羽先輩は、いつも俺たちを助けてくれてた。仲間として。恵に演技指導をして俺をやる気にさせたり、英梨々を呼び戻すシナリオや、恵との仲直りのシナリオも考えてくれた」
詩羽先輩の方へ体を向けて力を込めて言葉を紡ぐ。俺の思いが届くように。
「だから、詩羽先輩を引き留めておけなかったこと、後悔した。結果的には会社が空中分解せずにここまでこれたけど、詩羽先輩がいてくれれば、もっと神ゲーを世の中に出せたと思うんだ」
「・・・加藤さんのおかげね。それと、私が居なくてもいいゲームは作れたって言ってるのに等しいと思うのだけど」
「恵は・・・、まぁそうなんだけど。なんでそんなにひねくれた捉え方するのさ。俺は今うれしいんだよ。また詩羽先輩とゲームを作ることができて。十年もかかっちゃったけど、また一緒に来てくれてありがとう」
「・・・私が求めている答えは一切言ってくれないのね。『今うれしいんだよ』のくだりで『美女と混浴してること?』とでもツッコミを入れておけばよかったわ」
詩羽先輩は悲しそうな笑顔を作り、そのあと眉間に皺を寄せて俺と向き合う形に姿勢を変える。
「いい?倫理君。私だって後悔していることだってあるのよ。そして、倫理君みたいにリベンジを果たしたい気持ちだってある。でも、それはどうやっても叶わないのかもしれないという事実を何度も何度も突き付けられていて。やっぱり川端の小説の踊子のようにさよならも言えず、一人取り残されて、男に対してただうなずくことしかできないのね。男の方は快さのようなものを感じているというのに。ほんとうにほんとうに気に入らないことだけど」
詩羽先輩は指で目じりをぬぐい、誤魔化すように以前より短くなった髪についたしずくをタオルでぬぐう。
「十年前のあの日、私はバッドコミュニケーションになる選択肢を選んだ。あなたが私を好きだったのは、作家としての憧れと、頼りになる先輩への甘えだけだとわかっていたから。まぁ、あなたに取り入ろうとして本音交じりの打算で動いていた報いね」
詩羽先輩は俺のほほに手を当て、耳元に顔を近づける。
「ねぇ、倫也君。好きよ。十年以上前から今までずっと。この世のすべての中で、一番、あなたが」
本気の、本音からくる言葉であることが伝わり、全身に力が入る。
「あのあの・・・、えーっと」
「そんなに固くならなくてもいいじゃない。倫理君。一部だけは固くなるのはウェルカムなのだけど」
詩羽先輩は立ち上がり、俺の頭をポンと一度たたいて結露と暗闇で何も見えないはずの窓の外を眺める。詩羽先輩の立ち姿の美しさに言葉を失う。
「こうやってあの時にきとんと思いを伝えて、きちんと振られていればよかったのにね。強がって『好きだった?』と問うのではなくて。そうすればこんなに苦しくもならなかったかもしれないのに」
「何言ってんだよ詩羽先輩。そういう経験がすべて作家にとっては糧じゃないか。書いてよ、詩羽先輩。俺たちのゲーム。その経験も生かしてさ。負けヒロインのリアルな気持ちとか、負けヒロインを思う主人公の気持ちとか、今回のキャラにもそういう設定がいくつかあったと・・・」
「っ・・・いわせておけば・・・」
詩羽先輩のヘッドロックが決まる。「そんなんはじめからわかってたわよ」「私が負けヒロインだと言うの?」「ていうかまだお断りのセリフすらもらってないじゃない」「バカ、アホ、倫理」などと言いながら。ていうか、この格好ではシャレにならないから。強いし痛いけど、柔らかくて気持ちいい?
「まぁ請負ったからには責任もって書くわよ。このゲーム」
詩羽先輩が俺をその腕から解放する。
「そうこなくっちゃ。十年ぶりの共同作業だよ、詩羽先輩」
「うれしそうにしているところアレなのだけど・・・、でも、そこまでね。今後はナシ。今回の件、加藤さんはどう思うかしら」
「それは・・・」
「加藤さんと英梨々は、男を取り合ったって、仲間として裏切ったって、ダメになるような関係じゃないわ。英梨々は悪意なく真っすぐだし、加藤さんはそういう人間を尊敬しているフシがあるもの。私は・・・」
詩羽先輩の肩を両手でつかみ、俺の思いを告げる。
「ダメだよ。離さないよ。詩羽先輩。恵だって俺が絶対に納得させてみせるからさ。俺の人生に、詩羽先輩が必要なんだよ」
「えっ、何?これどういうこと?お断りの言葉を言わなかったのってもしかして。待って、倫也君、混浴まで仕掛けておいてまだ私、心の準備が・・・」
詩羽先輩は顔を真っ赤にして顔を伏せる。沈黙の中で冷静になってみてみれば、一糸まとわぬ姿の詩羽先輩の肩を掴んで、その体を壁に押し付けるような形で一糸まとわぬ俺が立っているわけで・・・
「あぁぁぁぁぁぁ。ごめんなさい、ごめんなさい。完全無欠の blessing software を取り戻したくて勢い余ってました!ごめんなさい、ごめんなさい」
詩羽先輩から離れ、洗い場に出て土下座をする。
「倫理君。顔をあげなさい」
俺が頭を下げた状態で数十秒ほど続いた沈黙を詩羽先輩が破る。詩羽先輩はタオルで前を隠した状態で湯船につかっている。
「そしたら、ひとつ条件を出すわ。紡ぎなさい。あなたが思う、最高のトゥルーエンドを。今回は一切手伝えないわ。だから、あなたの手で、つかみ取るのよ」
そう言って詩羽先輩は浴室をあとにする。
残された俺は決意の滝行と言わんばかりに冷水を洗面器にためて頭からかぶる。引き締まった頬を二三回平手でたたいて、勇み足で浴室を出・・・ようとして、引き返して浴槽に浸かり直す。詩羽先輩がまだ脱衣所で着替えてたらまずいじゃん?別に冷水浴びて寒さに耐えかねたわけじゃないからね。ほんとだよ?
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