第60話 近づく距離


「はぁ、はぁ、はぁ……」


 赤く、黄色く彩られた木々が、視界の端で後ろへと抜けていく。私にとっては生暖かい風が吹き、舞い揺れ落ちた葉もどんどん後ろに飛んでいった。

 思った以上に重い手足を必死に動かし、私はなんとか水辺までたどり着いた。


「まさか……みんなが、いるなんて……」


 全く聞いてない。

 いや、当たり前なんだけれど。それでも、そう思わずにはいられない。


 私は、目立たない木陰でうたた寝をしてしまっていた。昨日夜遅くまで病院にいて、帰ってきたのが昼だったから。

 そんな中ふと気がつくと、聞き覚えのある、どこか安心する声が聞こえてきた。


 ああ、夢なんだろうな、なんて思いながら目を開けて……びっくりした。遠目に見えたのは、夢でも幻でもない、懐かしくも愛おしい人たちだったから。

 そこですぐに逃げていれば良かったのに。私はどうしても、もう少しだけみんなのことを見ていたかった。そしたら、話し声が聞こえてきて……岡本くんも奈々ちゃんも、私を探してくれてたことがわかって……嬉しくなった。怖いから会いたくもない、って思われても仕方ないって、思ってたから……。

 思わず飛び出してしまいそうになった。でも、踏み留まれてよかった。


「はぁ、はぁ……あと少し……」


 水辺を迂回し、まだ色づいていない茂みをかき分け、さらに奥へ。


 もう戻ってこないつもりだったのに、ダメだな私。

 でもここまで来れば…………ううん。ここに来れば、多分大丈夫。


 今日で、最後だったのに。


 最後の最後で、彼は、私の近くまで来てしまった。


「でも、私の気持ちは変わらない」


 自分に言い聞かせるように、そっとつぶやく。

 私に触れた葉が、土が、空気が、白く輝く。

 微かな霜が生まれ、小さな水たまりがピキッと音を立てて凍った。



 それでも、澄んだ青空はいつまでも青く、曇ることはなかった。




   *




「おーい。この辺ってさ、前にキャンプしたとこじゃね?」


 靄があった場所の周辺を三手に分かれて探していると、岡本が不意に声をあげた。


「あ、そういえば」


 見覚えのある木の配列に、いくつか転がっている大きな石。キャンプ好きな父親が、「この辺は人があんまりいないから、自然を感じてキャンプするにはちょうどいいんだ」と得意げに話していたのを思い出す。


「ってことは、もしかしたら夏生ちゃんもこの辺りにいるかもしれないね!」


 佐原さんは明るくそう言うと、「夏生ちゃーん。いたら出てきてー!」とまた探し始めた。


「俺も、探すか」


 二人に背を向け、隠れられそうな茂みの裏や、木の影をのぞき込んでみる。


 つい一ヵ月半前に、夏生と笑い合っていた場所。

 トウモロコシがなかなか切れなくて、あいつに笑われたっけな。雪女だから扱ったことなさそうなのに、包丁使いがやたらと上手くて、俺の母さんに「良いお嫁さんになるわ~」なんて気に入られて……。


「そういえば、あの時……」


 そこでふと、彼女が唐突に聞いてきた言葉を思い出した。


 ――ちなみにさ、佳生はその時のこと覚えてるの?


 俺が十歳の時の話になって、迷子になって泣いて出てきたことを母親が面白おかしく話してて……。その後に夏生は、確かにそう聞いていた。


 今日ここに来る途中のバスで蘇った、七年前の記憶。

 キャンプに行く前も、彼女は気にしていた。

 そして、いい思い出があるって――。


「もしかして……」


 俺の中でひとつの仮説ができあがったのと、偶然手を触れた石の冷たさにぎょっとしたのは、ほぼ同時だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る