第3話●宇宙船という形の、時空の隙間

 艦〈メデューサ〉はもつれあう色彩の流れの中、孤独に浮かぶ。

 周囲には生も死も、虚も実も、客観基準のある実体はない。

 体感情報は、物語や夢想、推測といった仮想情報とまるで区別がつかなくなった。記憶さえ心細くなる。

 あの現実は幻だったのか? 虹美は思う。

 ありふれたSFだが、実感はしたくない恐怖。

 人生の無意味化。時間さえもここにはない。ゲシュタルト崩壊の予感。精神が萎縮する。

「現実は幻想よ。でも虚像じゃないわ」

 青猫の声がした。

 合体解除。田村虹美は突然〈メデューサ〉の機能から切り離された。

 視界がシェル内殻の制御室の光景に切り替わる。耳鳴りがする。

 虹美はひとり、シートに座っている。

 ヘッドレストのリングが自動的に上がった。

 汗ばんだ肌、額に触る前髪を意識する。

 生身の肉体きりでは心細い。今、自分はまるで不満足だ。さっきまでの昂奮が遠い。実感として思いだせない。

 隣席のアームレストに乗った青猫が覗きこんでいた。

 虹美は十字照準のある琥珀色の眼と視線をあわせた。「私のいた世界はどうなったの……?」アームレストを握りしめて訊ねる。「この船は私がいた世界をどうしたの?」

「どうもなってないわ。ワタシ達があの世界を去ったのよ」虹美の内心など知らぬげに猫は答えた。「仏教的に言えば、さっきまでいた、あの世界とは〈縁〉が遠くなったのね。今、この船はあなたがいた世界だけでなく、無限に存在する〈多世界〉のどれとも等しく縁遠い状態になってるわ。〈多世界〉というのは……」

「知ってるわ。理論的には存在すると言われてる、時間や空間を異にした無数の世界の事でしょ? 自分達が普通に生活している宇宙に平行して、感じる事は出来ない様々なバリエーションの宇宙が同時に存在してるっていう」虹美の口から堰を切る様に言葉がほとばしる。

「……その通りよ」青猫は面食らった顔をする。「そういえば、この頃、SFやファンタジーに熱中してたんだっけ……アンタ」

「それほどでもないわ」

「とにかく、どの〈多世界〉のどの瞬間とも等しく縁遠くなってる状態が今の〈メデューサ〉よ。簡単に言うとね、彼女は無限に存在するいろんな多世界との距離を調整して、飛ぶ宇宙船なのよ」

「その説明では不完全だわ」ヘッドレストのスピーカーから〈メデューサ〉の声がした。「わたしは高機能の情報収集能力とメタ演繹推測機能を駆使して、ある程度、自分が望む様、次の瞬間に存在するはずの宇宙の状態を、自分の状態さえも含めて決定出来るのよ」

「よく解らないわ……」虹美は正直に言う。

「そんな言い方じゃ、ますます解らなくなるわ。バカね」青猫が天井へ悪口を投げつける。「……話を戻すとね、アナタがいた世界自体がどうにかなったわけじゃないわ。ワタシ達が因縁を一旦断ち切ったから、あの世界は無限の〈多世界〉の一つに戻ったのよ。この船にとってはね。向こうの世界からすれば、いきなりこの船が消え去った様に見えたはずよ」

「……SF的ね」

「〈なになに的〉ってのは便利な概念ね。でも下手に知ったかぶりするより、今はそんな感じの理解でいいわ」

「学校や皆が溶けたり死んだわけじゃないのね?」

「船があの世界から遠ざかったから、他の無数の他世界にまぎれていく様子が見えたのね、簡単に言えば」

「元の世界に帰りたいって言ったら、私を帰してくれるの?」

 そう言うと、青猫は神妙な顔で押し黙った。

 虹美の不安は増す。

「それはあなた次第よ」スピーカーから〈メデューサ〉の声。「わたし達はあなたが必要だから迎えに来たのよ。それに……」

「それに怪物の事があるわ」青猫が言葉を受ける。「アナタはある大きな事件の要なの。それを解決しない限り、どの世界に行ってもあんなヤツが現れるわ」

「……事件って?」

「そして宇宙の破滅。〈多世界〉全てのね」

「……何それ?」

「あんな教師みたいな怪物で世界、いや宇宙は満たされて食いつくされるのよ。ウジャウジャとやってくるわ」

「嘘でしょ……?」

「わたしの推測によれば、そうなるわ」〈メデューサ〉の声。

 妥協のない張りつめた空気に、虹美は息を呑む。

 二人が嘘を言っているとは感じられない直感がある。

 しかし常識が待ったをかける。

 荒唐無稽だ。リアリティがない。

 ファンタジー? SF? いや、漫画チック? 自分が感じている途方のなさを表現する言葉を思いつかない。

「SF? ファンタジー? 不条理な設定だわ……」

「現実よ。説明が面倒だけど、理屈もちゃんとある」と青猫。

「……何故、そんな事件に私が巻きこまれなければならないの?」

「アナタがこの事態の鍵なのよ」青猫がきっぱり言う。

「あなたの力、〈渦眼〉が必要なの」と〈メデューサ〉。

「うず……め……?」

「ワタシ達も持ってるわ。けどアナタが生まれつき持ってる力にはかなわない」猫の金色の眼がまっすぐ見つめている。「アナタの、現実と想像の境界をかき乱す力はとても強い」

「自分達が棲んでいる世界の本質は、意外とあいまいなものなのよ」スピーカーからの女性の声。「あなたはその豊かな色彩をもっと自由に膨らませ、矛盾さえ、全てを肯定する事が出来る。意志の力が、世界を柔軟に変化させる」

「それはアタシ達が〈敵〉にしているものの能力と同じもの。〈敵〉はアナタがワタシ達と組む事を嫌い、自分を唯一としたくって、先手を打ってきたんだわ」息を呑む虹美を、猫の眼は射抜く。「それがあの教師、アナタを殺す為、暗黒面を引き出されて怪物になった、実質的な刺客よ」

「……〈敵〉って何よ?」

「〈全知全能機関〉。もしくは〈終末神〉。……ワタシがたった今決めた呼び名だけども」

「全知全能? つまり神様?」

「そうも呼べるかもしれないわ。でも呼び名で決めつけちゃダメよ。それこそアイツの思う壺」

「意味が解らないわ。何よ? 宗教戦争? 正直な感想を言わせてもらうわ。怪しいカルトの勧誘を受けてるみたい。……神? 怪物? 宇宙の破滅? 私が持ってる不思議な力で世界を救え? ……うさんくさくてめまいがしそうだわ」

「そんな眼で見ないで。その眼は怖いわ」

「証拠もなしにそんな事言われて信じろって? ファンタジーと現実の区別はつくわ。……私は自分の納得したものしか信用しないわよ」

「じゃあ、どう説明すればアナタのリアリティの中で納得してもらえるかしら? 今、眼の前にいるアタシ達、アナタのさっきまでの体験はトリックか幻覚? 自分でどう思う?」

「……体験した全てが現実とは限らないわ」

「その通りよ。だから世界はあいまいなのよ」

 にやりと笑う青猫へ反論する言葉がない。

「こう考えて。今、これまでのアナタの常識では不思議としか思えない事が起こってるわ。その不思議は少なくとも体験出来る現実なの。容赦ない流れの中、何か判断して行動しないと溺れ死ぬわ。そして相談出来る相手として変な猫と黒い船がある。……この状況に選択肢は少ない。でも下手すると選択肢はもっと少なくなってゲームオーバーよ」

「……脅迫?」

「どう思っても構わないわ。でも選択肢を狭めてるのはアタシ達じゃないわよ。SFと呼ぼうがファンタジーと呼ぼうが、これが今のアナタが所属する世界観に変わりはないわ。これから世界がどうなるか、全てはアナタ次第ね」

「質問は許されてる?」

「必ず納得出来るとは思わないでね」

 虹美は大きくゆっくりと深呼吸した。

 TVで観た狂信的宗教の事を思いだす。

 焦っても事態はよくならない。舌先を噛んで現実を確認した。

 流されるままの同和を拒む心で、平静を保とうと努める。

「貴方達は何者なの?」

 もっとも基本的な質問をした。

 青猫はその質問を待っていた様に静かにうなずく。「その質問に答えるには、事態のあらましを全て説明しなければならないわ。だから後回し」

「何よ、それ!?」虹美は憤る。「ずるいわ、そんな答!」

「他に質問は?」

「せめて、貴方の名前くらい、今、教えなさいよ!」

 虹美は、猫に聞く。眼前にいる者の実在を確かめて、不安をぬぐう様に。自分の所属する世界を慎重に確認する様に。

「〈ニジミ〉……これはアナタの名前か。〈特殊刑事二二三〉でも、〈監視体一七〉でもなく……」

 猫は虹美を見た。

「アタシを、アリスって呼びたそうな雰囲気ね」

「え?」

「アンタは、ルイス・キャロルの物語も好きだった。特に奇妙な兎についていって不思議な世界を旅する話の……。アナタにとって、アタシはアナタを何処かへと連れ出す物語の兎に思える。しかし物語の兎には名前はなく、だから物語のイメージそのものを漠然と重ねている。だからアタシは自分をその物語の主人公の名を取ってアリスとするわ」

「ちょっと待って! それじゃまるで今、自分の名を決めたみたいじゃない!」

「その通りだもの」アリスはあっけらかんと答える。

 虹美はまるでからかう様な猫に対して、どう振舞うべきかを考えつかなかった。

 百歩譲っても不思議な国に迷いこむ少女アリスの名は、自分の方がふさわしい。青猫はどう考えても、アリスを不思議な穴へと導いた兎、いや意味不明な言葉ばかりでアリスを混乱させるチェシャキャットの役割だ。

「他に質問は?」虹美の反論を押さえる様、猫は声を大きくした。彼女をアリスと呼ばなければ話を先に進めない雰囲気だ。

「解ったわ、アリス」虹美はわざと名前を大きく呼んだ。「〈終末神〉というのを倒せれば、私は元の世界に帰れるのね!?」

 神と戦う。虹美はそんな言葉に酔う性格ではない。

 ファンタジーを、現実から区別出来る。そのはずの自分が〈神〉という言葉を現実問題として口にする。

 現状に同和したい心と、拒みたい心の葛藤。

 先行きの見えなさを払拭したく、大きな声で問いただした。

 青猫と〈メデューサ〉の沈黙。

 その間が怖かった。

 ふと自分の教師一人を殺した事実を思いだし、今さらの心にもどかしいものが湧きあがってきた。

 結果はファンタジーではない。

 あいつは真の怪物となって襲いかかってきた。

 そして人間の教師として死んだ。自分が殺した。

 現実はすでに、昨日までの日常ではない。

 正当化の理屈を求めながら冷や汗をかく。

 〈メデューサ〉と合体した時の万能感が懐かしくてたまらない。

「もう一度、合体したら、私、納得出来ると思う……」心細さが口をついて出る。

「ほどほどにしときなさい。やりすぎると毒よ」溜め息をつく様に猫が言う。

「あら、わたしはかまわないわ」

 〈メデューサ〉はそうスピーカーから声を出すが、十字の瞳に睨まれ、言葉尻がすぼむ。

 虹美は〈メデューサ〉が、彼女の腹中にいる青猫の視線をどうやって察するのだろう、と不思議になる。猫は当然の様に視線を宙にさし向けるが、虹美には対象が見えない。

「私の疑問を説明して」現実に押しつぶされる様な息苦しさをはねのけたく、虹美は言う。「なんだかさっぱり解らない事ばかりで……!」気が狂いそう、という弱音は隠す。

「答は、あなたが望むものじゃないかもよ」

 嘲笑の様な誠実の様な猫の視線に、虹美は息を呑む。

 慎重に、質問を選んだ。「貴方達の正体は何?」

「アナタの味方よ」事務的な即答が返る。「詳しい話は後にするわ。事件のあらまし全てを語る必要があるから」

「……それが答なの?」

「文句あるの?」

 虹美は猫の言葉に言い返せない。「貴方達はどこから来たの?」

「アナタからすれば未来になるわ。解ってるでしょ、〈メデューサ〉を見たなら」

「地球よりも文明が進んだ星?」

「……地球人よ。未来の地球から来たの。タイムトラベラーよ」青猫は嘆息した。

 タイムトラベラーという言葉がおもちゃじみて聞こえる。理解は出来るが、言葉として陳腐に聞こえた。「正しくは地球の未来の一つにあたる〈多世界〉から……」と〈メデューサ〉の声がし、猫の一瞥に気づいたか、途切れる。

「〈メデューサ〉は未来から来た船なのよ」と青猫。

「中枢コンピュータの人工知性体なんでしょ?」差別はしない、と自分に言い聞かせつつ、虹美は訊ねる。

「半分くらい当たりね。〈メデューサ〉は機械と生体脳のハイブリッドよ。彼女のオツムは、脊椎をソケットにすっぽり収めてバレルの中に浮いてるの」

「脳だけなの?」

「哀れんだ様に言わないで!」羞恥を含みつつ怒る〈メデューサ〉の声。「あなただって生まれつき脳はあるでしょ!」

 強く真剣な口調。しかしは非難のピントがずれていると虹美には思えた。

「〈メデューサ〉は脳だけの存在じゃないわ」と青猫がたしなめる。「情報戦闘艦として構成された様様な機能システム、それらを統制するものとして彼女の脳はある。この艦全てで〈メデューサ〉という個人なのよ。アナタの脳がそれだけじゃ、アナタ自身じゃない様に」

「貴方は、脳だけじゃ貴方自身じゃない様に?」

 虹美のその質問に、青猫はあいまいに笑う。「ワタシには生体の脳はないわ。ワタシは端末機械、アニマロイドだもの。ロボットってヤツよ」

 虹美は言葉を失う。

「そんなにショックだった? 解りやすいと思ってたけど」

「あまりにも自然だったから」

「……自然、ねぇ。説明すると長くなるから、ワタシの説明も後にして。他に質問はない?」

 虹美は、今の自分が求めている質問をさがし、確実な言葉を失う。ただ質問を繰り返しても、昨日までの常識と現状をつなぐ橋渡しにはならず、昨日までのSFが今の現実だと思い知らされるだけ。

 世界観を変えよ、眼覚めよ、と訓戒されている様だ。

「私の力……〈渦眼〉って?」

「とりあえず界面活性剤みたいなものよ。いろいろなものを親和させ、新しい状態で安定させたりもする」

「超能力?」

「ほとんどYES。ワタシや〈メデューサ〉がいた世界では、そう呼ばれてたものは〈スーパー・バイザー〉って呼ばれてるわ。状況をある方向から見て、認識や操作をする力。これも後で説明した方がいいわ」

「〈渦眼〉は現実と想像をかき乱すって、さっき言ったわよね?」

「そうよ。でも情報操作なんて、やろうと思えば、誰でも出来る。アナタやワタシのはもっとダイレクトだけど」

「貴方も〈渦眼〉なの?」

「YES。〈メデューサ〉もね。あなたも含めた三人とも〈スーパー・バイザー〉よ」

「貴方、さっきロボットだって言ったじゃない?」

「機械脳だと超能力者にはなれないと? その見方はアタシにとって現実的じゃないわ。偏見ね」苦笑する青猫。

 虹美は溜め息をついた。

 質問を繰りかえしても満足にならない。

 今ここでは、自分だけが異邦人。

 しかし。

「不思議ね。さっきよりは貴方達の言う事が解りやくなった気がする」

「共通認識は出来あがりつつあるのよ。よく解らないなりにも、状況は理解してるでしょ?」青猫は諭す様な口ぶり。

「同じ体験をして同調したんだわ」と〈メデューサ〉。「現実を受けいれたのよ」

「同調?」と虹美。

「もう同じステージに上がっちゃったタレントなのよ」

「そのたとえ、解りづらいな」

「言葉にすると解りにくくなっちゃう事もあるから……。やっぱり勉強が必要ね。もっとよく解りあえる様に」

 虹美はまるで怪しい宗教や神秘主義サークルからの勧誘と説明を受けている様に思え、内心、眉に唾する。

 シートに座ったまま、ステージ上のトリックを暴こうとする観客の眼で、周囲の壁に首をめぐらす。ベールをめくれば真実が現れるという保証もなく。

「怪しむの仕方ないけど、もう後戻り出来ないわよ。それに神秘主義とかじゃなく、一応にも科学的理屈があるのよ」

 その〈メデューサ〉の言葉を聞きつつ、自分の頭を預けているヘッドレストに手を触れる。「解ったわ」大きな声で、ヘッドレストのリングを撫でいじる。「この機械がテレパシーで考えを読んで、〈メデューサ〉が中継してるのね!?」

「そのリングは情報も送れるけど、基本的には脳の電磁気パターンを探るものよ。それは補助にすぎないわ」

「……補助にすぎないの」

「そうよ。大部分はアナタ自身の、素の力よ」

 素の力。そう言われても自分の奥深さは解らない。

「……あの幽霊も私の仕業なの?」虹美は怨霊と化した同級生の顔を思い出す。あの吸血鬼の霧から現れた、今は亡き同級生の。

「多分ね。そうよ」

 虹美は解らない事づくしの現状に不安を覚える。

 どこからも縁遠い三人きりの世界に一人きり、何も解らない自分。世界観に同調出来ない孤独感。

「理屈はあるのよ」青猫は言う。「それを説明する為には、目的地に行く前に寄り道した方がよさそうね」

「どこに行くの?」と虹美。

「二一九九年にシフトするわ」〈メデューサ〉の声。

「いや、先に一九九八年に行きましょう。この物語のディテールをはっきりさせる手助けになるはずだわ。そして、そこで会う人物が〈全知全能機関〉を打破する為のヒントをくれるかもしれない」青猫は言う。「その前にワタシが二〇四四年で体験した物語をアナタに伝えるわ。それを話す事がワタシの正体と、話の起点の一つを教える事になるから。それは……」

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