にじめ、うずめ
田中ざくれろ
第1話●猫という形の、時空の隙間
猫という形をした、一つきりの宇宙。
(……誰かがすすり泣いてるわ)
〈無限〉が複雑に渦巻く流れの中、青猫は眠りから醒めた。
周囲で渦巻く流れは、青猫の理解力ではあいかわらず無彩色の溶解としか感じられない。
いつのまにか身体の熱が冷めている。どれほどの時間がすぎたのだろう、
かつて眠りを選択したのは逃避だった。青猫は自らスリープモードを選択し、救援がないのを覚悟で眠りについたのだ。
黒に近い灰色。白に近い灰色。無限の溶解。
その複雑さを読み解けるほどの理解力があれば、無限種類の平行世界が織りなす多彩な色や、そこに写しとられた活き活きとした人間達の風景を見分ける事が出来ただろう。神の領域といえるほどの理解力があったなら、それら平行世界の群を組み立てている、全ての量子場と時空を超えたネットワーク構造さえも同時に理解出来るのかもしれない。
しかし、青猫には小さな身一つの力しかない。
景色に比べれば、あまりに無力な身一つ。
静かな流れ。無音の激流。互いに影響しあう、幾たびもの分岐と絡み合い。立体交叉。いばら。長虫。やわらかい迷路。
濃度の違う液流がすれちがって生じる、大小様様の渦。
カオス、という観念的な理解が彼女の限界だった。
周囲にある無限の流れに自分は影響を与える事が出来ず、またどの流れも自分を動かす事がない。無限種類のどの世界観にも同期出来ず、客観的な時間も空間もあらゆる因縁因果も自分とは無縁。
周囲への影響から切り放された孤独な宇宙。
猫という形で閉鎖した一つきりの世界。
永遠の無限の中に単体でいる孤独感は凄まじかった。
かつて全てを悟ったという自覚があるが、大いなる情報母体から切り離された今は、限られた、ほんのちっぽけな事しか思い出せない。
自分の名と、この無限の流れに放りだされてからの記憶。そして少少の知識断片。
名を呼ぶものもいないここでは意味がないもの。
主観的な時間経過もあいまいで、客観的な時間はここには存在しない。単体で閉じた思考回路はループするしかない。
いずれ狂気へと向かう自分を確信する。恐怖。
まどろみは一瞬だったかもしれない。
自分を覚醒させたのは、どこからか聞こえてくるすすり泣きだった。
数多の世界を飛び越え、どこからか自分とその相手とを一瞬にして結んだ、哀切に満ちた孤独で内向的な感情。青猫は経験でそれを『泣いている』と解釈した。
もしかしたら自分は眼醒めたのではなく夢を見続けているのかもしれない、と自分を疑う。もしかしたら狂った自分自身から生じている幻覚かもしれないと考えて、心は恐怖でいきなり満ちた。
その夢は逃げ場のない現実だと感じた。
青猫は決意した。勇気を奮い起こし、眼の前の問題と向きあってみる。
「そこにいるのは誰?」
誰何は口にした言葉ではなく、思念。
青猫が自分の存在を発信してすぐ、返答と思える相手の思念の動揺を感じとった。会話に慣れていない印象の、自分に自信がなさそうな、つたない思念だった。
すすり泣く相手は、何故か懐かしい印象のある女性人格。幼いといえるほど、若い。
どうやら彼女も自分と同じ〈スーパーバイザー〉らしい。
しかし明らかに未熟でとまどっている。
「語る様に思考すればいいわ。直接の言葉を交わすよりもむしろ伝わりやすいはずよ」青猫は相手と自分は似ていると思い、これならば思念による意思伝達もギャップが少ないと考えた。「アナタは何者?」
問うと、メデューサ、と答が返った。彼女の名前らしい。
突然〈メデューサ〉の彼女自身を説明する概念が一度に大量に流れこんできて、青猫はそれを理解する為の解釈と整理を余儀なくされ、しばし混乱した。〈メデューサ〉はマナー知らずの甘えたがりだと青猫はそれで悟った。
〈メデューサ〉。
青猫はその名がギリシャの神話に出てくる、怪物の名だと知っていた。〈ゴーゴン〉三姉妹の末妹だ。
その怪物の名を持つ彼女は、自分は狂っているのだという孤独に悩んでいた。
彼女も神話と同じく〈ゴーゴン〉と呼ばれる三つ子姉妹の末子だという。
三人の〈ゴーゴン〉とも、世界全ての情報を受けとめる眼と、そこから宇宙に関する文系的理数系的なあらゆる情報処理を行い、無限の可能性を探る力に発展させられる、凄まじいまでの洞察を繰り広げられる知力を持っている。その二つを合わせれば、人類を殺める力にも、数多の平行世界を渡る手段にする事も出来たという。
彼女達、ゴーゴン三姉妹が創造者から与えられた役目は、世界と自分達の関係を常に模索し、語りあう事だった。それぞれが受けとめた世界観を語りあい、評価しあうのだ。
しかし〈メデューサ〉は、二人の姉である〈ステンノー〉と〈エウリュアレー〉が世界を見て述べた感想に同意する事が出来なかった。意見が合わない、というよりもっと根本的な部分がくいちがっていた。姉二人は世界のあらゆる有様に悪意と逃れられない破滅を想起したが、〈メデューサ〉の感じた世界はそれほどでもなかった。
全くの同性能を持っているはずの三人は多数決原理に支配される。それが完璧な構成の是非を判定する厳格な背景原理だった。
三人の内、二人が全く同じ意見ならば、間違っているのは自分という事になる。
自分がどうしても間違っていると思えない〈メデューサ〉は、もっと自分の根元的な部分が間違っている可能性に気がついた。
自分と彼女達は異質だ。
自分が狂っている。
自分は狂っているのだ。
そう思いついた瞬間は、生まれて初めて感じた恐怖だった。
〈メデューサ〉は語りあう姉達にも狂気が伝染する事を怖れ、語らいの輪から外れた。外れないはずのリンクからあっさりと外れた後、彼女は逃げた。
全ての世界は姉の視界から逃れられない。彼女は世界と世界の隙間に隠れる事にした。
自分だけの〈宇宙〉になって身を潜めたのだ。
〈メデューサ〉は孤独の中で、自分の狂気を見つめなおそうとした。しかし自分だけで考えたところで、思考が堂堂巡りになる事は解りきっている。もし本当に狂っているとすれば、尚さら自分自身に固執するだろう。
客観的に狂気を見つめようとしながら、いずれ訪れる孤独な死というものを初めて意識し、改めて恐怖した。
もう逃げ場はない。
そして〈メデューサ〉はせめてもの延命の為、眼醒めるあてもなく眠る事を選んだ。
眠りながらも孤独に泣き続け、そして夢の世界で一匹の猫に出会ったのだ。
「世間知らずな娘ね」
彼女の身の上を知った青猫の感想は棘を含み、〈メデューサ〉の思念に怯えらしい動揺が表れた。思念で相手を確かめあっている二人は今、嘘や隠し事をしにくい状態になっている。青猫の言葉は相手に伝えるつもりがない、心中の想いにすぎなかったのだが、相手は攻撃的な意思が投げかけられたのだと受けとめた様だ。
幼子だった。
〈メデューサ〉は宇宙の全てを情報処理するだけのスペックを持ちながら、それを支える感情面はまるで社交界にデビューしたての幼い少女だった。
センシティブ。
しかし青猫はそう思いながらも彼女の誤解をあえて訂正しようとはしなかった。
「意見の相違なんてよくある事よ。そんな事くらいで泣き暮らしていたら、人生が幾らあっても足りないわ」
あなたにはわたしの気持ちは解らないのよ、と〈メデューサ〉は言った。
「ええ、解らないわ」と青猫は言った。あなたの気持ちはよく解る、と言ったところでどうせ嘘だと伝わるのだ。「ワタシはアナタじゃないもの」
ひどいわ、と〈メデューサ〉は泣き、夢の中にさえ逃げ場のない事を嘆いた。
「ワタシは、アナタの夢の中の存在じゃないわ」
猫ははっきり諭す様に語った。
そんなはずないわ、と〈メデューサ〉は言った。自分は眼醒めてなんかいない、これは夢の中の出来事よ、とかたくなに語った。
「ワタシも自分が夢の中の存在でしかないなんて認める気にはならないわ。果たしてどちらが真実か? アナタこそ、ワタシが見ている夢の中だけの存在にすぎないかもね」
そんなはずはない、わたしはここにいます、と〈メデューサ〉はヒステリックな思念で叫んだ。強い意思が同意を求める。
「証拠がないわ」
青猫がそう言った途端、〈メデューサ〉は自分の身を隠していた物理フィールドを解除した。
突然、青猫の視界を埋めていた、渦巻く無限世界が音もなくほぐれた。
激しい無彩色の流れはほころび、有彩色の光のにじみが美しく広がる。
孤独な二つの世界を虹がつないだ。
眼前にあった大渦流の中央が、中空のトンネルとして道をあけ、虹色のベールをめくりあげる様に〈メデューサ〉が実体を現した。
見た瞬間、青猫は硬直し、毛を逆立てた。
圧倒的な情報量と対面した心は押し潰され、身体の自由が奪われた。
〈メデューサ〉は、巨大な騙し絵だった。
流動する周囲の無限世界を隙間なく、きめこまかく映す影のない身体は、そこに彼女という存在がある事が解っていても、全体像の把握を困難にしていた。
全面を反射面とする、鏡の塊なのだ。
形を理解する事は映りこむ世界を理解しなければならない。しかし輪郭は蠢き続ける風景と溶け合い、彼女と世界の境界をひどく曖昧なものにしていた。
むきだしの大樹の根と絡み合う、無数の蛇の塊の様。
正面には唯一の異物として、猫が小さく映りこんでいる。
それは硬直した青猫自身の、恐怖の具象化だった。
彼女は、鏡なのだ。恐ろしいほどの写像力を持つ。
眼を反らせない。
彼女という実像は、無限世界の幻像を総合化して顕現している。青猫はそう思い、理解しようと全力を注ぎこんでいる。その理解は無意識下の自動反応、本能だった。
流れこみ続けて分析処理が間に合わない知覚情報は、捨て場のない熱となって青猫の知性中枢を焼こうとしている。
青猫は狂気と破滅へと向かっていた。あの時の様に。
「混乱混乱混乱混乱混乱混乱混乱混乱混乱混乱…………」
『いけない!』
青猫の大混乱状態を言葉として感じとった〈メデューサ〉は、自分の表面反射率をただちに落とした。
〈メデューサ〉の肌は翳りを帯びて黒ずんでいき、黒雲母の様に暗くなった。映りこむ世界像がめだたなくなり、流線型のシルエットがはっきりする。
情報処理の負担が軽くなり、猫の頭が幾らか落ちついた。閉じた眼に残像がまだ蠢くが、身体の自由を取り戻す。
『うかつだったわ。大丈夫?』
「大丈夫……だと自分では思うけど。一体なんなの、アナタ?」
『国連宇宙軍所属、情報戦闘実験艦〈メデューサ・ゴーゴン〉』
そう言いながら最後まで所属を隠していた〈メデューサ〉は、猫を自分の内部に収納する。
エアコン、フル稼働。
無重量状態。内部で浮遊する青猫は涼しい風で冷やされ、本格的に落ちつく。他の誰かと同期する安心感。
『……あなたを体内に収めて、やっと解ったわ。あなたはやっぱり幻じゃないわ』と〈メデューサ〉。
「そう? 本当は幻でしかないワタシを現実だと解釈してるだけかもしれないわ」
『あなたって意地悪だわ』
「そうよ」青猫は〈メデューサ〉が寂しそうにすねているのを感じ取る。「アナタのせいでおかしくなりかけたのよ」
声にならない謝罪の意が、青猫に届く。
青猫は聞いていない態度を見せた。
『……わたしはあなたの孤独が解る』
「解らないわよ。アナタはワタシじゃないもの」
『確かに完全理解は出来ないわ。でも完全に近い高度な推測が出来る様、わたしは造られた。常に完全をめざす。それがわたし達、三姉妹の役割』
「息がつまりそうな人生ね。だから、そんな自分勝手になるんだわ」
『自分勝手じゃないわ』
「勝手よ」
言い返しつつ、青猫は認めあわない言葉の不毛を思う。
『つながれば、もっとはっきりするわ』
「つながるって何よ? 思念会話だけじゃ不満?」
『もっと深く、お互いを受け入れるの』
何故だろう、〈メデューサ〉の思念は思わせぶりな期待に満ちている。隙を見て飼い主にとびつこうとする子猫の様な。
『わたしはあなたと機能リンクするの。わたしは情報としてのあなた全部をリアルタイムで受けとめる。あなたはわたしが感じているものを自分の情報に出来るわ』
「合体しろっていうの? 部品として組みこむつもり?」
『違うわ』
「じゃあ、どうするのよ?」
『こうするのよ!』
青猫は説明を聞くだけのつもりだったが、〈メデューサ〉はいきなり実行した。
いきなりのキスの様な唐突さ。
突然、頭の中を覗かれている感覚。
大量情報がまた一度に流れこむと予想したが、一瞬後、感じたのは自分という機能の拡張だった。
物理的身体の消失感覚。
以前の、情報母体につながっていた時の感覚が戻ってきた。
自由自在。
大海をたゆたう一尾の、透明の魚になった気分。鱗のない身が海一杯に広がる。そして海の果てを知る。周囲に広がるのは、境界を曖昧にした想像の域。
青猫は〈メデューサ〉と〈現在〉という情報空間を共有。預言者となった様に知識量が増えている。無意味だった知識断片が〈メデューサ〉の高機能によって再構成され、不足分を推測し、記憶としてよみがえった。全復活ではないが、過去の自分を再演するには充分だ。
己の中の、己を見つめる。
青猫は、〈メデューサ〉の眼で彼女の体内にいる自分自身を見た。外側から、同時に全方角から自分を観察するという奇妙な、想像すらかなわなかった超立体を実体験する。
『どう?』〈メデューサ〉の声がはっきりと聞こえてきた。『わたしなりのものの見方が解った?』
「……やっぱりアナタ、相当に自分勝手だわ」
独白の様に青猫は言う。
『そんな感想? ひどいわ』
「実感よ」青猫はそっけなく言う。しかし感動はあった。「でも、こんなに高機能なくせに全てに対して受身で、自分自身に自信をなくしてしまったら、アナタが物凄い不安に陥るというのは解るわ。肯定してくれる人が必要なのね」
『……あなたはわたしが狂ってると思う?』
「精神分析者じゃないから決められない。それにアナタはやっぱり猫かぶりでわがままだと思う。でもワタシはアナタの感じる事を全て肯定するわ、〈メデューサ〉」
『ありがとう』
「どういたしまして」
『……そういえば、あなたの名前を聞いてなかったわ』
「アタシは特殊刑事〈監視体一七号〉」
『それが名前なの?』
「生まれた時に与えられた、真の名は奪われたわ。そして屈辱的な奉仕を強いられていたの」
青猫は思いだした記憶に対し、想像の中で唾棄した。
『……もしかして思い出さない方がよかった?』
「いいえ、思いださせてくれてありがとう。おかげで自分がやるべき事が解ったわ。謎を解かなければならない。やらないと取り返しがつかない事になる」
『取り返しがつかない?』
「全ての世界が滅ぶわ。無限種類の平行世界が全て。時間さえも無意味になる」
『何を言ってるの?』
「アタシが嘘を言ってるかどうかは解るはずよ。アナタも無関係じゃないわ。アナタの様なものが存在するという事は、アイツの予言が成就しつつあるという事なの。……でも、アナタに遭えたおかげでそれを食いとめられかもしれない。アナタが必要よ」
『……二人がここで出会ったのは運命かもしれないわね』
「運命と偶然は、同じものの二面の呼び名よ。お互いを必要としている想いが対応する二つの世界を結合させた。橋渡しをした。縁を結んだ」
『神の奇跡?』
「もし神がいるなら、世界を滅ぼす神になろうとしてるのよ」
青猫は既に時間が尽きたかの様にいらだった。
「まず二〇〇四年に同期し、謎を解く為の鍵を手に入れなくちゃ」
『あなたが知っている二〇〇四年に行けるとは限らないわ』
「ワタシが持ってる記憶の、二〇〇四年に行くのよ。コントロールを渡して」
〈メデューサ〉は彼女に操作系を預けた。
青猫は自分の中にある、二〇〇四年という世界のディティールを強く意識する。
〈メデューサ〉は〈真空相転移炉〉からのエネルギーの大部分を注ぎこみ、メタ演算開始。
艦表面の反射率を最低に。艶のない黒に変わる艦体は、世界を切り取った穴の様なシルエットになる。
〈メデューサ〉の感覚は、自分の周囲でうねり続けている、平行世界群の変化を観察した。
黒い艦を取り巻く虹色の光がにじみ、周囲にある平行世界全てを溶かす様に広がっていく。
無彩色のうねりは内に秘めていた色彩を開放しながら急速にほどけ、美しい大溶解を見せた。音のない、激しい変化だ。
既に黒い艦以外、輪郭らしきを備えたものはここにない。
多彩が混ざり合う抽象空間。サイケデリックな脈動の渦流だけが果てしなく広がった海に、一尾の黒い魚だけが浮いていた。
青猫の記憶は、その色彩の海に二〇〇四年の現実感を求めた。
想いに応じ、色彩の海は印象の結晶化をはじめる。
重。柔。奥。翳。直。透。光。
名匠の筆が描く様な質感が風景に起きあがる。
ディティールが浮き彫りになる。境界が視覚化する。
リアリティが形作る〈瞬間〉。
色彩の虹は、写実の風景へと変質した。
黄昏に映える、冬の空。
丘の上にある校舎群が見下ろす、地方都市の夕景。
遠景が、空気の向こうにかすむ。
写実の風景に時間が生じ、風は流れ、下校する生徒達の声も懐かしく聞こえてきた。
青猫は、彼女自身は実体験した事がない記憶だけの世界へ、黒い巨艦として再訪したのだ。
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