第8話 普通



 塩田美雨にとって、世界は大体がとてもやわっこい何かである。

 硬性は見た目だけ。触れてみれば、おおよそ優しく返してくれる。時々尖ったものがチクッとすることがあるけれども、おおよそ幼き瞳に危険は少ない。

 少女は心安らぐ凡ての中で愛おしむ。だから彼女は足下見えない夜すら恐れることはなかった。

 しかし翻って、自分はどうなのだろう。優しい皆と一緒になれているのかなと、少女は悩んだりもする。

 小さなその背を伸ばしてみても、鏡に中々届かない。自省知らずの幼さには、他人の言葉ばかりが頼りだった。

 可愛い、良い子、うるさい、小さい、バカ。雑多な評価に、しかし少女は塗れない。

 誰の言葉に対しても、そうなのかなとは思えども、それだけとは考えられなかった。

 だって、たとえば朝茶子の瞳に映る自分はどう見たところで。


「朝子おねーちゃんとは、違うよね」


 陶器の少女に劣る、薄汚れた餓鬼でしかなかった。思わずがっかりしてしまう程の落差は、常に場違いな感を抱かせる。まるで自分がこの世の汚れであるような、そんな思い込みが幼さに芽生えてしまうのも、どうしようもないことだろう。


「でもね、それでもいっしょだから」


 とはいえ、小猿のようなちんちくりんが跳ねまわるのを、朝茶子は何時だって優しくその白磁の指で留めていてくれる。そうして、てっぺんのお団子からリンゴのような頬に至るまで彼女は愛おしそうになで回してくれるのだ。

 つまり、それは美雨がとても美しい彼女にとって大事なものであることの証左。自分みたいなつまらないものが、朝茶子の心の一部を占められていると思うと、思わず美雨はきゅんとするのだった。


「朝子おねーちゃん大好きー」

「わわ、美雨ちゃん今日も元気だね!」


 そしてその思いに従って、美雨は今日も終わった少女に飛びつく。朝茶子が胸元の破片によって幼子を傷つけないように努めて笑んでいることに、気づくことなく。



「だから、そんな子なんて知らねえっての」

「いや、ですから佐藤さん。この子……片桐さんが戸長駅前で貴方のタクシーを拾う姿を見たという確かな証言がありまして……」


 髪染めることに飽いて暫く、今や白髪に染まった頭を掻きながら、佐藤良二(りょうじ)ははた迷惑な自称探偵のお仕事に付き合わされて難儀していた。一応はと受け取った名刺を握りつぶしながら、良二はろくに目も合わせず話す雄三に苛立ちを隠さないままに言う。


「なら、そうなのかもしれんな。あいにくオイラは一人一人の客のことなんていちいち覚えちゃねえけどさ」


 器用にも雄三が商売道具のタクシーを背に隠して邪魔しているために、中々撒くことが出来ないことにも良二はむかっ腹立てつつも、無視は出来なかった。

 それは、なけなしの良心の咎めのために。嘘を吐けない性質であるというのに、無理してするからこそ半端となる。

 そう、良二は確かにあの日朝茶子を乗せたタクシードライバーだった。

 だがそれだけ。縁もゆかりも殆どない。ならば、親に頼まれたという探偵にその行き先を正直に話してもよさそうなものである。しかしそれは更に気が咎めることだった。

 綺麗であるほど曇りは大きく見える。朝茶子ほどの汚れのなさだと、その陰りはとても目立つものだった。それこそ、一般的な心根を持っていれば、思わず庇ってしまいたくなるくらいに彼女の憂鬱は目立っていたのだ。車中で交わした一言二言の会話での感情移入も効いていた。

 言い訳するように良二は言う。


「しっかしよう。お前さん、親御さんに頼まれたとか言うけんどよ。その子の気持ちはどうなるってんだい。かもしたら、親から逃げ出したんかもしんないよ?」

「そうかもしれませんね」

「なら……」

「ですが私も何も一方的にこの子の居場所を暴こうとしている訳ではありません。むしろ、どうにも怪しい依頼主より、探されている少女の言い分の方が私にとって重要かもしれません」


 雄三は音量を落とし、真剣な声色で良二に告白する。そう、彼の今も彷徨う視線は周囲の不審な影を探していたのだった。

 それは、つい先日。雄三は聞き込み中に、こちらを伺う影を見つけていた。追い掛けようとしたらすぐに姿をくらました相手のことを、彼は札束の不審と共に気にしている。

 そんな実情を知らない良二は首を捻った。


「……依頼主ったら親だろう? それが怪しいってのはどういうことだい」

「……お話を伺う際に身分証明はして頂きましたが……どうにも目的が見えずに、また秘密主義なところがある様でして。依頼とはいえ正直に言って、こちらのことを信じていないようである相手を信じることは難しいです」

「そりゃあ……難儀だな」


 雄三は真面目な大人である。そして、良識のある人間でもあった。犯罪行為はもちろん、迷惑行為ですら嫌う一般人だ。

 自分の仕事を信じずに尾行までさせるような相手を嫌がるのは当たり前である。

 その不快の表情を見た良二は、ぐうというような音を喉の奥で立ててからおもむろに口を開いた。


「仕方がねえな。オイラも気になってたところだし……怪しいってえ依頼主に居場所を教える前に朝茶子ちゃんっていうのか、あの子にことの次第を聞いてくれるってんなら送った場所をあんたに教えてあげるよ」

「いいのですか?」

「よく考えるとオイラが教えなくってもその依頼主って奴が何らかの方法で朝茶子ちゃんのところに行き着いちまう可能性だってあんだよな。なら、先に教えてやってマシそうなお前さんを間に置いといた方が良さそうだ」

「ありがとうございます!」


 疾く、頭を下げる雄三に良二は苦笑い。

 所作にもにじみ出るその仕事に対する真摯振りには、信に値するものがあると感じながら。

 渓合の地名を耳打ちしてから離れ、のそりとタクシーに乗り込もうとする良二に雄三は問う。


「……最後にどうして、貴方がそれほどまでに朝茶子さんを気にしていらっしゃるのか、お教えして頂いてもよろしいでしょうか」

「そりゃあなあ……」


 空を見て、そして頷く還暦過ぎ。良二は若くはないが、しかし老いても忘れてはいけないことをよく覚えていた。

 振り向いてから、ニヒルに言う。


「あんな綺麗な子が、助けてくれって言ったんだ。気にしてやらんきゃ男じゃねえだろ」


 彼には人として、いいや男としての矜持があった。知らない人を助けるなんてそんなの当たり前じゃない。気に入った人を助けることこそ、普通なのだと良二は知っていた。

 そして、彼は普通に彼女の幸せを思う。相手が当たり前の存在でないことを知らずに。


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