第6話 煙草
「ふぅ……っと」
知らず胸ポケットをまさぐる毛むくじゃらの手は、そこに何もないことを知って止まった。
おもむろにその太い指先を顔に持っていき、くんと一つ嗅いでから、どこか枯れた様子の男は呟く。
「やれ、そうだよ。俺はもう止めたんだ」
男、
仕事の資料ばかりではない生活の色まで混じった雑多な一室。雄三の仕事場で、数多の紙の束よりも重要となりつつある機器。
それに入った最新の顧客情報に連なる仕事の一つに指を這わせながら、彼はぼやく。
「どうか内密に娘を探し出して欲しい、ねぇ……」
依頼を見直し、どこか雄三はうんざりとした様子であった。これは、探偵はその探査能力を買われる商売だと、日頃誇りを持って口にしている彼にしては珍しい。
そう、雄三は来田探偵事務所の所長である。ちなみに所員は、一人。もっとも彼も別段孤独にやっていた訳でもなく、つい先ごろに一人いた職員に逃げられたばかりだった。
そんな事態の嫌気も含めて、男は頂点を目指して広がり続ける額を掻きながら続ける。
「こんなの普通は、札の束でケツ叩いてまでやらせるもんじゃねえよなあ……きな臭え」
近頃なんでも屋のようになっていてしまい、探偵という言葉すら忘れて久しくなっていた時に舞い込んできた人探しの依頼。
それに喜び飛びつき快諾したところ、依頼人が粗末なものですがと置いていった菓子の中から札束がごろりと出てきてしまえば、もう純粋には笑えない。
きちんと一枚一枚に諭吉先生が記されていることを認めた後で、その百枚四束のことについての処遇は保留にしているが、それにしても金庫に投げたままにしてあるのは不安である。
金庫番号を空で思い返しながら、椅子から投げ出した足でそこが間違いなく固く閉まっていると探った後に、また雄三はあくびのように呟いた。
「後で報告を聞きに来るってえ日取りだけははっきりしてるが、それ以外はもう、訳わからんな」
ブラインドから斜光に輝く宙の埃を眺めながら雄三は考える。思えば、確かに与えられた情報の少なさもどこか変だったのだ。
不明者の顔と名前のみを提示させられて、それ以上を差し出すのはは難しいとの一点張り。
確かに必要とはいえ親の承諾だけで私物やSNSの内容確認をこんなおっさんがしたとあれば、それを知った或いは自然に戻ってくるかもしれない年頃の娘さんと家族の仲がこじれることだって考えられる。
それに、個人情報はデリケートなもの。面倒になって後で自宅周辺で聞き込みでもすればいいと考えたのだった。そう、雄三は思い返す。
「それで自宅の住所電話番号が嘘だったなんてなあ……」
新手の寄付か何かかこれ。そうまで雄三が捻くれた考えを持ってしまうのも仕方ないだろう。
探す中で机の上の今や殆ど意味のなくなった資料をばさばさと落とし、モウモウと埃撒き散らかしながら、雄三はデジカメプリントな写真をもう一度確認してみる。
片桐朝茶子という、そんな奇妙な名前であるとは教わり知っていた。しかしこの嫌に綺麗なお嬢さんは、どこの誰とも分からない。
ネットで調べたところ、少し前に同県の陸上県大会出場者に該当名があったので、確かに存在はするのだろう。しかし、それ以外は何の情報もない。
ざっと目を通した数年前の記事を伺うに、
だが、正直なところ面倒だと雄三は感じている。探して欲しいと金を積まれたとはいえ、それが嘘にまみれてきな臭くては、どうにも。
思わず、彼は言った。
「金持って、ばっくれちまうか?」
悪い面をした中年が口にすると、それはどうにも真に迫って聞こえてしまうものだが、しかしこれは冗句である。
色が付きすぎていて返金不可避で、いくらその金額が魅力的とはいえ、仮にも依頼金に仕事もしないままに手を付けてしまうのは雄三のプライドに合致しなかった。
別段、この強面の男に悪心がないわけではないのだが、それでも守るべき一線というのは弁える性質である。
体に悪いは好んでも、犯罪だけは犯さない。何しろ、それによって悲しむ人間を雄三は職業柄よくよく見てきたから。
もっとも、煙草や酒は悪性であるからこそ嗜んでいたものだったが。
「格好つける相手も居ないんじゃあなあ……」
そう、逃げた相方のことを想いながら、零す。そして、雄三は何かを求め続けていたその空の手をぎゅっと握った。
「真面目に探してみるとしますか」
一先ず、雄三は前を見る。つまらない今を続けて、そうしてどうなるかはわからないけれども。
彼女が帰ってくる場所を守るくらいはしないとな、と考えて老い混じりの肉体に、鞭を打つ。
雄三は大人であり、決して急がない。だからきっと、彼は間違えないのだ。
戸長市水瀬の周辺は栄えていると言えた。駅の側に連なるビルディングに、交じる緑が今を表す。
雑多が方向性を入れ違いにして廻る、単に染まることない街の中。人通りの色の多さは特筆すべきものがあるだろう。
殊更異常ではない限り、そこにある個は消える。いや、人の群れは最早異常ですら呑み込みかねない。
そんな中で雄三は、端に紛れてその一粒一粒に問いかけるという、下手な方法を採っていた。
「申し訳ありません。ちょっと、いいですか?」
何度無視されて、何度誰かが振り向いただろう。最早そのルーチンに成果を期待はしない。
自罰のように、果てのない作業として、雄三は聞き込みを続ける。
「写真の、この子を探していまして」
片桐朝茶子が通っていただろう水瀬中学校に直接問うことは、どうにも何かを秘したい様子である依頼者のことを思うと気が引けた。
もっとも、これを一日続けて何も情報を得られなければ、しれっと伺いに向かうことだってあるだろう。
「ええ。写真の子と自分が似ていないとおっしゃられるのも当然ですね。実は自分は親御さんに頼まれた、探偵でして」
しかし、今は懸命に頑張るだけの時間だ。昼が過ぎ茜が差して、電灯輝く夜が来ても、それは行われた。
写真を見る。正直なところ、こんな年頃の子が本当に見つからないのだとしたら、雄三も可哀想だと思わなくもない。
少女の無事のための一助になることを考えれば、足が棒のようになるほどに疲労が貯まるのを無視出来た。
「写真の解像度が悪い、ですか……写真はこれ一枚しか貰っていないのですよね……いえ、ご協力、どうもありがとうございました」
ふぅ、とため息一つ。そうしてから少し端がくたびれた様子の写真を逆さに持ち直して、雄三は空を呑み込むようなあくびをした。
夜になり眠いのは、どうしようもない。しかし、これくらいならば以前ならば問題にしなかったはず。年齢の積み重ねを覚え、彼は僅かに気を悪くした。
周囲を見渡してみれば、脂の乗った年齢が幾分増えたかのように見える。これにならば、自分も違和感なく混じることが出来るだろうな、と雄三は半ば自嘲的に思った。
「俺も、年か」
三十代を気楽に過ぎて、四十代も変わらず行けるだろうと雄三は考えていたが、甘かったようだ。
老いを感じさせてくれるような子供も設けていなかったからには、少し実感に足りていなかった。
だから風景の中で場にそぐわない子を見つけて、自分に子供が居たらこんな、と思いながらぼうっとしていると、向こうから声を掛けられる。
シックな上質を纏った、しかしどうにも幼気な彼女は彼に問う。
「どうか、しましたか?」
その大粒の強気な瞳は弱った心に痛い。逸して欲しくって、雄三は直ぐ返した。
辟易するほど脂ぎった頬を掻きながら、半笑いで彼は言う。
「いや、すみません。少しぼうっとしていました……」
「そうですか。こちらこそすみません。どうも自意識過剰だったようで……って、あれ?」
少女と中年。本来ならば、直ぐに分かれるだろう二人。それ以上の関わりなんて、互いに想像なんてしていなかった。
「その写真の人物は、朝茶子様ではありませんか?」
「え、っと?」
けれども、それは一枚の写真にて変わる。見上げる視線は、裏返った朝茶子の面を見つけたのだった。
小柄は、大人をより強く望んで、それこそたじろがせるくらいには意気を持って、問う。
「オジサマは、どういう人、なのですか?」
愛するものに近づくものは、果たして良からぬ何かなのか。
それが気になった
少女は誰かがのこした煙草を踏みにじって、男は目の前の本気の視線に呑み込まれる。
からんと、遠くのゴミ箱に投じられた缶の音が一拍の合間に響いた。
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