火の加護を受ける国(2)

 昼食をとった後は、川の間を移動するために船置場を目指す。喧噪の中を抜けると港があり、川沿いに船がいくつも停泊していた。ほとんどが商船や漁船で、その中に混じって人間の送迎を主とする旅客船もあった。

 日に五回往復しているその船は、先ほどミスガルム領の岸辺に着いたばかりのようだ。他の船よりも少しだけ洒落た外観のため、商船などとの判別は容易だった。川の先に朧げに見えるムスヘイム領までもう少しだ。

 旅客船の近くに行くと、リディスはある女性を見て目を丸くした。白い肌に紺色の髪がよく映えている、馬車で道中を共にした女性。この場にいておかしくはないが、白い綺麗な肌の女性が、日に焼けることが避けられないムスヘイム領に行くとは驚きである。

 フリートが乗船の手続きを済ませると、三人は船に乗り込んだ。褐色肌の人たちも大勢乗っており、皆穏やかな表情で船の上をくつろいでいる。

 リディスは船のへりに体をつけ、底が見えない川の先を見つめて、少しだけ難しい顔をした。

「ねえ、この場所にモンスターは出ないの? 町の周りは結宝珠けつほうじゅで結界を張っているからいいけど、こんな川のど真ん中に行ったら効果が……」

「もちろんその備えはしてあるさ!」

 後ろから陽気な声が聞こえてくる。振り返ると船長の男が手を腰に当てて立っていた。

「一番上に立派な宝珠があるのに気づかないか? あれが船を護っているんだ」

「つまり川の中にモンスターはいるんですね?」

「ああ、その通りだ。だがこの宝珠以外にも避ける術は持っている。安心していいぞ」

「はあ……」

 自信満々に言うのだから期待してもいいのだろう。快活に笑いながら船長は操舵輪の元に戻った。

「リディス、そんなに心配なのか?」

「いや、そういう訳じゃ……」

 フリートが真剣な顔つきで覗き込んでくるので、とっさに否定した。あまりに近くて驚いたため、思ってもいない言葉を出してしまう。

 若干ながら心配ではある。ここに行く時に見てしまったのだ、岸辺に無惨な姿で打ち放たれた船が。川の氾濫によるものか、それともモンスターによるものなのかはわからないが、一抹の不安を煽るには充分だった。

 モンスターの動きが最近妙だということは、何度も聞かされている。だからすぐに原因がモンスターの方へと考えが及びがちだった。

 穏やかな川が目の前に広がっている。ムスヘイム領に着くまで時間にして長針が一回りするほど。その短い時間に何もないことを祈るのみだ。船上での戦いになったら、武器でしか還せないリディスたちは非常に不利な状況に陥る。

「リディスちゃん、そろそろ船が出るよ。揺れるだろうから気をつけて」

 ロカセナが辺りを見渡しながら小走りで近づいてきた。その言葉通りに船は激しく揺れながら岸から離れ、ムスヘイム領に向けて進み始めた。

 空は鬱々とした雰囲気を醸し出している。リディスの気分はなかなか晴れなかった。



 しかし、十分も経たないうちに、リディスの頭の中からはモンスターのことなどすっかり消え去っていた。船の端でうずくまる、青ざめた顔のフリートの背中をさすり続けている。

「大丈夫? だいぶ酔っているようだけど」

「酔ってなんかいない。ちょっと疲れただけだ!」

「本当? ……あ、もしかして海路を避けたのはフリートの提案? 海はもっと荒れるって聞くし、船に乗っている時間も長いからね」

「違う、姫がこっちを指定したんだ!」

 必死に弁解する姿が新鮮でとても面白い。いつも澄ました顔ですべての物事をやりこなしており、弱点などないかと思ったが、まさか乗り物に相当酔い易い体質とは。世の中には完璧な人はいないということだ。

「むしろ姫様が気を使ってこっちにしたんだろう。彼女、フリートが酔いやすいって知っているから」

 ロカセナが船員から受け取った小さな桶を持って近づいてくる。だがその前にフリートは縁に体を付けて、川に向かって胃の中に溜まっているものを吐き出していた。

 リディスは肩をすくめて、おそらく使われないだろう桶をロカセナから受け取る。

「ねえ、お姫様はどうしてフリートが酔いやすいって知っているの?」

 城の姫が平の騎士一人一人のことを把握しているとは考えにくい。肩書を持っている者であればわかるかもしれないが、フリートたちは騎士になって二年程度の若手だ。不思議に思って回答を待っていると、ロカセナはさらりと言ってのけた。

「彼女、僕たちと同い年くらいでたまに話し相手になっているんだ。その時にそんな話題が出たことがあって」

「お姫様の話し相手!」

 同じ城の中で生活しているため、あり得なくはないが、リディスにとっては衝撃的なことだった。それを聞いたフリートが背中を丸めた状態で振り返る。

「リディス、姫のことを物語とかに出てくるお淑やかで物静かな女性だと思わない方がいい。非常に気が強く、好奇心旺盛で、世が世なら自ら武器を持って騎士団の先頭を突っ走る人だぞ。――割と城内を歩き回っているから、もしかしたらどこかですれ違っているかもしれないな」

「前にお姫様とか身分の高い人は、もっと奥まった場所にいるって言ったじゃない」

「姫だけは例外だ」

 言い切るとフリートは再び海に向かって顔を俯かせた。

 騎士団の先頭を突っ走る人など、どれだけ行動的な人なのだろうか。フリートたちが忙しかったため、なかなか城内の人を紹介してもらえなかったが、帰ったら思い切って頼んでいいかもしれない。交流を広げることも城に来た大きな理由だからだ。

 一人心の中で意気込んでいると、唐突に空気が張り詰めた。リディスは船の縁を掴んで遠くに目を向ける。

「どうしたの、リディスちゃん?」

「リディス、まだムスヘイム領には着かないぞ」

 ロカセナ、フリートが次々と言ってくるが、それらの言葉は頭の中に入ってこなかった。

 肌に突き刺さるような冷たい風、発生時に感じられる独特の異様な雰囲気――。

 ようやく二人も異常に気づいたのか、彼らの表情も険しくなった。リディスはスピアを召喚して握りしめる。

「おいリディス、早まるな。仮にも結界で護られているんだ。下手に動くな」

「わかっている」

 リディスは口を一文字にして言い切る。

 やがて川は大きく波をたて、川の中で泡が出てきた部分から水が一気に浮き上がった。そして鋭い牙を露わにした、船などを軽々と囲んでしまう長さの大蛇(だいじゃ)が現れたのだ。それが一匹ならまだしも、船を取り囲むように五匹も出てきた。

 遙か頭上に目がある大蛇を見上げて唖然とする。フリートとロカセナも例外ではなく、誰もが固まっていた。

「ねえ、これってよくあることなの? 川でこれだけの量のモンスターが出るって」

「いや普通じゃない。五匹が一気に現れるなんて、俺は聞いたことがない」

「船長さんは結界を張りながら避けるって言っていた。それはこの状況でも可能なの?」

「それは――」

 フリートの言葉は甲板の上を慌ただしく走る音で遮られる。ある船員が急いで帆柱に駆け上っていた。その上には船長が自慢していた宝珠、船を守るための結宝珠が置かれている。

「いいか、モンスターに触れないよう、ゆっくり船を移動するんだ!」

 切羽詰まった声を発するのはさっきまで余裕しゃくしゃくとしていた船長。緊急事態ということが一目瞭然でわかる。何事かと思い船室にいた客が甲板に現れ、人によっては悲鳴を上げていた。

「静かにしろ! 些細なことでも刺激を与えるな! 辛うじて結界は成り立っている。まだやつらに俺たちの存在は気づかれていない」

 船長の怒鳴る声が、客や船員たちの不安を余計に煽る。帆の上げ下げを試みていた船員たちが何人か抜けて、客を船室に戻るよう促していた。

 船はゆっくりモンスターとの合間を縫いながら進み、離れようとする。しかし、なかなか距離を付けることができない。よく見れば船が動くと、モンスターも同じ方向に動いているのだ。

 まるでモンスターに隙を伺われているような気分に陥る。それでもまだ襲ってこないということは、気づかれていないと考えていいのだろうか。

 その時、この場で最も聞きたくない言葉が飛び込んできた。

「船長、結宝珠に亀裂が……!」

 それを聞いた全員の表情が消える。

 フリートやロカセナは召喚していた剣を固く握りしめていた。その表情は若干強張っている。

「俺が三匹相手するから、ロカセナは二匹しとめろ」

「船上で、しかも結構大きいのに一匹でもきついよ。フリートだってかなり無茶な発言しているじゃないか」

「やらなければ船は沈む。つまり死ぬだけだ」

 フリートの額から一筋の汗が流れる。リディスも心臓が激しく鳴りながらもスピアを握るが、今の会話で自分が話題に触れられなかったことに気づく。

「待って、私は? 私も相手をする!」

「一匹還して動けなくなったら、その後集中的に狙われる。お前は船員や乗客を護れ。やつらが来たら適当に攻撃を仕掛けて時間を稼げ。すぐに駆けつける」

「でも一人でも多く攻める人がいた方が――」

「いいから言うことを聞け!」

 声を荒げられ、リディスはびくっとした。こんなにもきつく言われたことはない。フリートはリディスに背を向けて、モンスターの動きを凝視していた。

 ふと優しく肩に手が乗せられた。ロカセナが少し寂しそうな顔をしている。

「フリートのこと、わかってあげて。それに人を護ることもすごく重要なことなんだよ」

「わかっているよ、そんなこと」

 船員の悲鳴に近い声が聞こえる。結宝珠にさらに亀裂が入ったのだろう、死闘が始まるまで残り僅か――。


「――争いごとは嫌いなのよね」


 突然凛とした女性の声がリディスたちの耳の中に入ってきた。その声の持ち主は馬車で同乗した、あの紺色の長い髪の女性。彼女は一歩、一歩、リディスたちがいる船尾へと歩いてくる。紺色の長い上着を羽織っている女性が優雅に歩いてくる姿は、緊迫したその場にはあまりにも似合わなかった。

「無闇に殺したくはないけれど、理性がないならしょうがないわ」

 リディスたちには目もくれず船尾に寄る。彼女の目の前には一匹の大蛇がいた。

「危ないです、下がってください!」

 現れた女性を後ろに下がらせようと注意したが、彼女は逆にリディスを目で制す。それだけでリディスは動けなくなってしまった。

「下がっているのは、あなたたちよ」

 整った顔で笑みを浮かべられたが、それが返ってぞっとした。美しすぎるその表情に魅せられてしまう。

「珠が割れた――!」 

 僅かな希望だった、船を覆っていた結界の光が消え去る。目の前に獲物を発見した大蛇のモンスターは一気に攻め込んできた。

 船員や乗客たちが悲鳴を上げる。一瞬で船は沈む、もしくは船上は血の嵐に――なると思っていた。

 ある一定の所まで近づくと、モンスターは攻め込むのをやめたのだ。目を凝らして見ると、船や人間をぎりぎり覆うくらいに薄い膜が張られていた。色は薄い水色、寒々とした色である。

 リディスが呆然と見つめる先では、女性が眉をひそめて右手をモンスターに突き出していた。そこにいたモンスターも膜より手前には入ってきていない。


「水は生きるものすべてに必要なもの。生きるものすべてに潤いを与えるもの。その源よ、我の元に現れよ。――召喚、水の精霊ウンディーネ!」


 右手からは船や人々を守る水の膜が、そして左手からは水の球が現れた。その球はすぐに割れ、中から青色の長い髪の美麗な女が出てくる。薄い白い服を着ている、手のひらに乗る程度の小さな美女が出た瞬間、リディスたちに寒気が襲ってきた。

「ありがとう、出てきてくれて。水の精霊、少し力を借りるわ、お願いね」

 水の精霊は無表情のまま軽く首を縦に振ると、女性の手から離れて舞い上がった。

 次の瞬間、大蛇のモンスターに大量の鋭い氷の刃が突き刺さる。鼓膜を突き破るような甲高い叫び声が響いた。同時にモンスターの血の雨が降り注ぐ。薄い膜で覆われているため体に降り懸かりはしないが、どことなく不気味である。

 やがてモンスターやその血は黒い霧となり、霧散してしまった。女性は戻ってきた水の精霊にお礼を言うと、召喚を解き、自らの手も閉じた。


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