第30話 構えども構えども
二人の男の息切れが狭い建物の中でこだましていた。どちらも息をするのもやっとという有様で、汗一つかいていないにも関わらず、胸の内からこみ上げてくる空気の漏れを抑えることができない。
反射的に呼吸をしている二人の表情はホラー映画を見たあとの三歳児を彷彿とさせるほど歪んでおり、片方に至ってはデスマスクに勝るとも劣らないほどぐちゃぐちゃに歪んでいた。
ゲオハイドは心を落ち着けながらその容貌を見て、くすりと笑った。慌ててもせいぜいいつもの彼の体が多少ブレる程度だ。どこかに必ず平静を残しているあのシドが、とゲオハイドは腹を抱えて笑いたくなった。
「笑うなよ。あの矢を見て動揺しないニンゲンがいるとすればよっぽどの賢人か智者くらいなもんだろ」
「まぁ、そうだろうな。俺は詳細はわからんが、何かヤバイものは感じた。歪な何か、としか言えんが……」
あごをさするゲオハイドの様子に今度はシドが笑った。いつもの麗しい美少女――肉体は少年だが――の容貌となり、今の現状を再確認する。
今からそう時間は経っていない時、シドとゲオハイドはホッケウラの外れにあった廃屋でリリア、ジャオという魔術師の二人組と交戦した。そして彼らが取り出した血塊の弓矢を見てシドは即座に撤退を実行した。
残った魔力をすべて使い切り、とにかく遠くへ、とただその意志のみで転移したのが今自分達がいる廃屋だ。おそらくは東部の街のどこかだろう。ホッケウラでないことは確実だ。
とにかく一目散に逃げたため、詳しい位置も把握できない。転移用のビーコンは設置してあるが、すべてを把握しているわけではないのだ。
「ま、問題はあいつらが見せた弓矢だよ。クソ、なんであんなもんが出てくるんだか」
「だからアレはなんだ、シド。お前だけ理解できていても意味はないだろ」
ゲオハイドはやや強い語気で説明を求める。シドも話したいのは山々だ。しかしどこから話せばいいのかがわからない。弓矢のことだけ話しても絶対に信じてもらえないし、その起源まで説明しようとすれば、それはイスト神話の根本に関わってくる話だ。
神学部の授業でもないのに二時間以上の講義をするつもりはシドにはなかった。略しても略しきれない遠因なり禍根なりが憑いて廻るのが、リリアとジャオが使っていた弓矢だ。
「じゃぁ、マジで色々端折って言うぞ?――アレは
「はぁ!?」
この場に誰もいなければ耳を覆いたく成るほどの大声で、ゲオハイドは驚いてみせた。それほどにシドの口にした処刑武器というものは恐ろしく、また禍々しい。
処刑武器――それはソレイユ内である特定の
その処刑武器を扱う職業を
「てことはリリアかジャオのどっちかが処刑職業なのか?」
「さぁ、な。『委託』するっていうケースもあるから一概にそうだ、とは言えないな。ただ、連中が処刑武器を持っているっていう事実がヤバイ」
だろうなぁ、とゲオハイドは震える肩を抑えるように強く握った。その気持ちはシドにも痛いほどわかる。近くに処刑職業のニンゲンがいるからこそ、その力の奥の奥が見えない分、不気味さすら覚える。
「しかも、あの処刑武器……
「シャーランガ?それがあの武器の名前か」
多分な、とシドはつぶやく。
終憶弓シャーランガ、その名はイスト神話において「最強」の名を冠する唯一の武器だ。
曰く、主神たるビュネットマンの戯言から始まった弓造りの果ての産物。ひきと共に世界が収縮し、しぼりと共に収縮された世界が歪曲し、放ちと共に世界を逆転させる。そして新たな世界が創生される。
例えるなら輪ゴムのようなもの。一度丸くし、こねくり回し、手を離せば、のたうちまわる中、再び元の形へと戻っていく。
イスト神話においてこの矢は何度も放たれた。ィク・サプナから世界の再生を任されたビュネットマンはその弓矢を作った日輪の神、ヴィシュカと共に世界の崩壊と再生を繰り返した。
他の神々はそれを止めるでもなく、ただ遊興にふけり、そして最後はイスト神話の最初のニンゲンの英雄によって斬り伏せられた。
「もちろん、今連中の手にあるシャーランガに同じ効果があるのか、と聞かれるとわからないさ。でも、神話の力をダウングレードさせたものだとしても、だ。軽くここら一帯を湾にするくらいはできるだろうな」
それが最低威力だ。
かつて、一度だけ「星剣」を見たからわかる、とシドは止まることのない悪寒を抑えようと必死に体を押さえ込む。第一段階の開放だけでダンジョンを半分切り裂いたチートとも言うべき御業を思い出すだけでさらなる寒気が体を襲ってきた。
「絶対に応援を頼むべきだ。リストグラキウスにいるリドルも呼べ。こうなると俺が対峙したあいつも処刑職業の可能性が出て来る」
たしかにな、とシドは頷いた。ベテランプレイヤーであるゲオハイドが撤退せざるを得なかった。相手の実力が勝っていた、と最初は考えていたが処刑武器まで持ち出されては例の包帯男が処刑職業であることを考えなくてはならない。
そして現在のヤシュニナの中には処刑職業とまともに戦えるプレイヤーも煬人もいない。最善を考えるならリドルを呼び戻すべきだ。しかしリドルが離れると何か異常な事態が国内で起こっている、と他国に思われてしまう。
「とにかく、だ。まずはクリメントやセナに連絡しよう。今、何時だ?ああ、もう夜か……。どっちも起きてるな」
シドはアイテムボックスの中から通信用アイテムを取り出すとセナの端末に向かって通信を試みる。ここがヤシュニナ国内であるならつながるはずだ。
そして十数秒後、はいなんですか、とせせらぎにも似た穏やかな声がアイテムから聞こえてきた。
「おお、セナか?俺だよ、俺!」
「申し訳ありませんが、当店は御社のサービスを……」
「はい、すいませんねぇ。私です、シド様ですよー。というわけでちょっと緊急事態が起きましてね。ええ、ご足労ではございますが、ちょーっと相談したいことがございまして……」
なにやらかしたんですか、とセナは向こう側でぼやくが、シドは気にせず愛想笑いを浮かべたまま、一方的に状況を説明していった。事態の急を説明していくに連れ、最初は話の腰を折ってばかりだったセナの声がとぎれていく。事態を重く見ている、という証拠だろう。
「こちらとしては近衛か首都防衛軍を使いたいけど、無理だよな」
「残念ながら。万が一に備えて魔導師大隊を本土に呼び戻しますか?」
「無駄だろうな。私見で言わせてもらえばジキルでどっこいどっこいだろうよ。いるだけ邪魔だ」
魔導師大隊の隊長が最低ラインの戦いなど久しぶりだ。先月国務省を半壊させた熾天使やチュートン騎士団の面々ですら魔導師大隊とまともにぶつかり合えば負ける程度の実力だ。
今回はその比ではない脅威である以上、人選は厳密にしなくてはいけない。魔法陣の問題、そして処刑武器の登場など、大国とまともにぶつかり合う方がマシとすら言える状況だ。
くどいほど言うが各地に戦力を分散している今、ヤシュニナで即時投入できる戦力はない。だから、
「セナには万が一に備えて全権を移譲しておく。改めて話してわかったよ、やっぱり救援はなしだ」
自分の隣で驚愕のあまり頬をひきつらせる風来坊がいるが、シドは無視して話を続ける。
「策は……ある。ただ、時間がかかるけどな」
「なるほど?つまりクリメントにこう言え、ということですか?『おい、お前の部下使って例の二人誘導しろ』って」
「そうだ。虚実を交えて誘導してくれ、隠し場所に」
「本気ですか?ていうか、生徒を危険に晒しますよ?」
動揺のない声が白々しい。別にいくら死んだところでどうでもいい、と思っているにも関わらずよくもそんなセリフが吐けるものだ。セナの軽薄さにシドは関心してしまった。
「処刑武器を持ってるやつを潰すためだよ。……納得はしないだろうけどな」
トーンを数段落とし、シドは虚空を睨みつける。苦悩でも後悔でもない。ただ、今の自分に取りうる手段の少なさに苛立ちを覚えた。それは自己満足のための苛立ちであり、決して心の底からくる苛立ちではなかった。
ただ愉快に。
ただ盲目に。
苛立ちを覚える自分の姿を俯瞰して、シドは
久方ぶりの刺激だ。
熾天使や騎士気取りと戦ったとき以上に昂ぶっている、と実感できる。恐怖も同じくらい感じるが、それ以上に好奇心という狂喜が体を駆け巡っていた。
本当に勝てるかどうかわからない戦いなど、やるやつは馬鹿だと言われるが、感じる悦楽は何者にも代えがたいことを知らないのだろう。
そう、例えば子供が穴に指をつっこむように、無邪気にアリを踏み潰すように、鳥の巣に石を投げるように。
何が起こるのかわからないけど面白そうだ。
だが、それはまだマシな知的好奇心の衝動だ。
本当におそろしいのは何が起こるのかがわかっていて、それでも狂喜乱舞しながら躊躇なくスイッチを押せる、そんな思考の中に熟考の二文字が欠落したニンゲンだ。
歴史を振り返ればそういったニンゲンはいくらでもいた。とある強国の32代大統領のように、33代のように、とある島国の犬に似た首相のように、。
彼らは全員、何が良くて悪いか理解していた。それでも実行した。
一重に結果だけを追い求めたからだ。
時として自国民の死にビール片手に喜び、死した数にほくそ笑み、すり潰される国民のケツを蹴り、そして最後は全員悲しまれ、この世から退場した。
全員が全員、ただの悪意の化生であったにもかかわらず。
「恨むなら……まぁ、自分達を恨むことだな。自分達の英断を責めるべきだよな」
最後にそれだけ言い残し、シドはそれっきり何も言わなくなった。ゲオハイドも彼の選択に対し何も言わない。ただ傍観し、彼は彼の役割を果たそう、と手にしていた大剣を強く握った。
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